4月7日 7時5分
まず、目覚めた瞬間からそれは始まりました。
久しぶりにスマホのアラームがけたたましく鳴り、反射的に止めて数分後、また僕は春眠の微睡みの中に誘われていました。
完全に夢の中に舞い戻る直前、我が家の階段が何者かによってドタバタと荒々しく踏み鳴らされる音を聞きました。
そして、バンっと僕の部屋のドアが開け放たれ、それと同時に女の子の怒声が聞こえてきたのです。
「あー!まだ寝てるー!」
驚いた僕はここでようやく覚醒したのですが、何より驚いたのはその声の主についてです。
「今日入学式だよ!? まさか入学式から遅刻するわけ? いい加減にしないと毛布を引っ剥がすからね!」
「いや! ちょっと待っ…」
バサァっと僕の羽毛布団が宙を舞いました。止める隙もありませんでした。いえいえ、自分の寝巻きぐらいは見られたところでどうということはありません。
問題は、僕の股間部です。
今日に限ってめちゃくちゃ元気でした。
しかも身体に対して上向きにいけばいいのに、本当に今日に限ってまさに直角になる形でそそり立っていたのです。
それはそれは綺麗な、正四面体が形作られていました。僕の股間に。
「…えっ、ちょっ、最低!!」
彼女はそれを見るなり剥ぎ取った毛布を僕の顔面に向かって投げつけ、僕の部屋から出ていきました。
「は、はやく着替えてよね! 私、下で待ってるから! 40秒で支度すること!」
ドア越しにド〇ラのようなセリフを吐き捨てて彼女はドタバタと階段を駆け下りていきました。
確かに寝坊してしまったので40秒以内で準備ができたらそれに越したことはないです。
僕は完全に冴えてしまった目から目やにを拭い、クローゼットにしまった制服を取りだして着替えを始めることにしました。
しかしこの頭の中ではち切れそうなほど詰め込まれた思考は一つの疑問についてでした。
「なぜ…あいつが…?」
彼女の名前は三宅彩音。
幼児期からの幼なじみであり、小学生以降ほとんど口をきいていない、近くて遠い同級生です。
「遅い!」
開口一番、三宅さんからそう怒鳴られました。
時計の針は7時15分を回ったところ。
40秒は本気でないにしても、朝食も歯磨きもしていない状況でこの時刻では、学校が指定した集合時間に間に合うかどうか微妙なラインではありました。
「おば様がおにぎりを作ってくださってるからまずはそれを食べて。式の最中に派手にお腹を鳴らすようなトラウマを作りたくないでしょ? 髪の毛は…とりあえず寝ぐせだけ直して。駅で整えてあげるから。それと歯磨き忘れずにね!」
どこの世話焼き女房だというツッコミすら忘れるほどの衝撃でした。
幼なじみと言えるのかもわからないほど距離のある関係だった同級生の女の子が、我が物顔で僕にあれこれと世話を焼いてくれるのです。
僕は彼女の指示通りに動きながら彼女との関係性についておさらいをしていました。
三宅彩音との出会いは幼稚園の通学バスの中だったと記憶しています。
当時から勝ち気で正義感が強く、ちょっと悪ぶった園児がバスの座席に寝そべっているところに、大声で注意していたのが印象的でした。
その実、気が弱いところがあり、喧嘩の最中は興奮して喚き散らすものの、後になって急に怖くなって泣き出すこともしばしばありました。
そんなときは落ち着くまで彼女の頭を撫でていたことも何度かありました。
小学校に上がると彼女はそんな自分と上手く折り合いをつけることを覚え、以前までのような攻撃性は影を潜め、他者に対して少し寛容になったようです。
それでも弱い者いじめや不良行為については見過ごせない性分ではあるらしく、駄目なものは駄目とビシっと指摘する様は、多くの者から支持を集めました。
いつの間にか、彼女は校内でも人気者の一人になっていたのです。
僕はというと、どこにでもいる普通の男の子として緩慢に過ごしていたので、彼女とは住む世界が異なっていました。
スクールカーストとでも言うのでしょうか?
校内ですれ違っても彼女はいつも何人もの人に囲まれ、それに比べて僕は大抵一人でいるか、いても1~2人の友人とそういったカースト上位者の邪魔にならないように隅っこで過ごしたりしていました。
最後に会話したのが完全に遠い過去です。思い出すことすらできません。
そんな彼女が、まるでラブコメの幼なじみのような振る舞いを今ここでしています。
納得できるわけがありません。
「準備できた? これだったら駅まで走らなくてもたぶん大丈夫だね。おば様、行ってきますー!」
玄関越しに彼女は僕の母親に向かって手を大きく振りました。さも日常の風景のように。
僕たちはこれから毎日通ることになるであろう近所の駅へ向かう道を二人並んで歩き出しました。さも日常の風景のように。
しばらく進んで、僕は恐る恐る彼女に問いかけました。
「…ええっと、今日はなんでウチにいたの?」
「一緒に登校したかったから」
即答でした。さも当然のように答えやがりました。もう一度彼女との関係性についておさらいした方がよろしいのでしょうか?
「い、今までそんなことしたことなかったじゃんか?」
「だって、一緒に登校して友達に噂とかされると恥ずかしいし」
「藤崎〇織かよ!」
もちろん、これまでこんな掛け合いを彼女とした記憶など皆無です。
「同小、同中、…あ、幼稚園も一緒だっけ? それでいて数軒隣りのご近所さん。そんな同級生がまた同じ学校に通うことになるんだから、多少は親睦を深めるためにこういうことしてもいいんじゃない? また3年間、顔を突き合わせることになるんだし」
本当にラブコメの幼なじみみたいなこと言ってますが、彼女とはその顔をまともに突き合わせたのは5~6年ほど前の話です。成長したねえ、大人びた顔つきになったねえと、親戚のおばちゃんのような心持ちでいるのです。
そう、まともに見るのは本当に久しぶりだったのです。
ツヤがあって見るからにサラサラしている髪の毛は、襟足が見えるか見えない程度のところで綺麗に切り揃えてあり、外向きに少しだけカールしていました。ショートボブというやつでしょうか? 風が吹くたびに少しだけなびき、仄かに甘い香りがします。
前髪は薄く整えられており、小顔かつ二重でパッチリ開いた瞳の魅力を存分に引き出していました。
身長は僕より少し低い程度。絶賛成長期なのでこれからさらにその差は拡がるかと思いますが、160cm弱といったところでしょうか?
身体は細身。…あまりジロジロ見ては失礼でしょうが、胸もどうやら控え目のようです。
結論を言うと、かなりの美少女であることが今初めて判明したのです。
「…何? 人のことジロジロ見て」
結局ジロジロ見ていたようです。
さすがにそのまま「君って綺麗な人だったんだね」とか歯の浮くようなセリフを言えるような人種ではありません。かといって誤魔化しのきくセリフが言えるような人種でもないので、ちゃんと本心からあるがままの言葉を伝えました。
「いやいや、余りにも意外な人の意外な行動で戸惑っているというか…」
「確かに小学校に上がったあたりから全然話さなくなったよね、大橋君とは。他のみんなとは仲良くやってたのに」
ここで少し傷つきました。つまり三宅さんだけでなく、他の近所の幼なじみとも疎遠になり、ついには仲間外れになっていたようです。体感的にはそんなつもりはないのですが、彼女の口ぶりからすると…。
「もしかして、ここの地域の同級生だけのグループチャットとかあったりするの?」
「うん、そうだよ。この機会に入っとく?」
いつの間にか近所の幼なじみのグループチャットが作られ、それに招待されていない…。体感的にそんなつもりはないと先ほど言いましたが、よく考えてみると言葉は交わせど、メッセージアプリのアドレスは知らないとかそんな人ばかりです。
強がってました。疎遠は決定的でした。彼女とだけ距離ができていたのではなく、僕は幼い頃に築いたはずの交友関係そのものから距離が離れてしまったようです。志望校の入学式という大変目出度いはずの日にこんな陰鬱な気分になるとは思いもしませんでした。このまま踵を返して家に帰りたかったです。
とはいえ、駅に着くまでの間に彼女のメッセージアプリのアドレスをまんまとゲットし、そのまま幼なじみグループチャットに参加することができたときには、すっかり機嫌を直してとてもホクホクした気分になっていました。
卒業したはずの学校のスクールカーストの順位が上がったような、よくわからない優越感に浸りながら、僕らは電車に乗り込みました。
電車は満員。鮨詰め状態でした。
中学の頃は自転車通学だったので、毎日これが続くのかと思うとげんなりしてしまいます。
僕は中に入ると、なるべく女性のいない場所に潜り込もうとしたところ、グイっと袖を引っ張られました。
『どこにいくの!? ちゃんと近くにいて!!』
三宅さんは小声で僕をたしなめ、僕の服の袖を掴んだままドア前の隅に誘導しました。
彼女はドアに向かうようにして立ち、そして僕はその背後。
ここでいろいろと合点がいきました。
彼女の今日の一連の行動はこれが目的だったわけです。
痴漢防止。そのための防波堤として僕を使ったのです。
一応女性専用車両はあるので、電車を降りた後にその理由を聞いてみました。
「私個人のエゴとして、男性と同じ場所で同じ視点にいたいだけ。だけど身の程はわきまえているから、大橋君を使っちゃった。ごめんね?」
彼女ははにかんだ様な、それでいて罪悪感がにじんだような、でも見た目では少し困ったような笑顔を僕に見せてくれました。
正義感を持て余した三つ子の魂は、十数年の時を経て、少しずつ大人の形になりつつあるようです。
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