Hurdy Gurdy Woman
増田朋美
Hurdy gurdy Woman
だいぶ日差しが弱くなってきて、秋が深まってきたなと思われる日々がやってきた。そうなると、人間の生活もかなり楽になる違いなかった。それ故に、穏やかに過ごせるようになる人もいるが、中にはとんでもないハプニングを起こしてしまう人もいる。
先日から、千歳さんと和久子さんは、富士夫さんと一緒に暮らすようになった。あの人は色々役に立たないと思っていたけれど、今はちょっと違っていて、富士夫さんが、和久子さんの学校のことや、生活のことなど色々心配してくれるので、千歳さんは、少し良くなったのかなと思うのだった。
そんな中、今日も富士夫さんが勤め先から戻ってきた。いつの間にか、富士夫さんは、大手のIT企業をやめて、近くにある病院の患者さんを送り迎えするバスの運転手になっていた。いつの間にそんな事を決めたのか、千歳さんは知らなかったが、今度は以前よりもはやく帰ってきてくれるようになっていた。その富士夫さんが、千歳さんと一緒に御飯を食べながら、こんなことを言うのであった。
「今日うちの病院に、変わった女の人が来たよ。名前は土谷恵梨香さんとかいう。」
なんだかとても楽しそうに言う富士夫さんは、これまでの富士夫さんとは全然違っていた。
「その女性と、妹さんと二人で病院に来ていたそうだけど、やっぱり家の和久子と同じように、普通の学校へは行けなかったらしい。でも、変わった楽器をやっていることで成功したらしいよ。うちの和久子もそうなるといいのにね。」
「はあ、そうなの。変わった楽器というのが気になるわねえ。何ていう楽器?」
千歳さんがそう言うと、富士夫さんは忘れてしまったと答えた。千歳さんは、その日は特にその事は気に留めることでもなかった。はずだった。
それから、数日後。富士市内での出来事を扱う地方新聞をたまたま書店で見てしまった千歳さんは、その見出しに驚いた。そのタイトルは、「Hurdy gurdy Woman、土谷恵梨香さん」と書いてあったのである。そして、掲載されている写真には、一人の女性が、洋梨のような形の胴に、鍵盤をつけた、見たこともない楽器を持って映っていた。本文を読んで見たところ、その女性、つまり、土谷恵梨香さんは、幼い頃、発達障害と診断されて学校へ行くことができなくなり、三年間自宅で教育を受けたという。その間に、知人からもらったハーディーガーディーをはじめた。そして、20歳になったときから学校や福祉施設などで演奏を行い、先月富士市民文化会館で、ハーディーガーディーのリサイタルを開催したというのだ。現在は、演奏活動を中心に行っている。それを何十年の昔にヒットしたドノバンとかいう歌手の歌になぞらえて、Hurdy Gurdy Womanはどんな活躍を見せてくれるのか、という文章で終わっていた。嬉しそうな顔をして奇妙な楽器を持っている彼女に、千歳さんは嫌悪感を覚えた。学校に行けなかったのに、なぜ音楽家として成功できたのか。千歳さんはそういう人が嫌いだった。
その数日後。その日の学校は、通常授業ではなくて、音楽鑑賞会というイベントが催された。と言っても生徒だけが見るもので、保護者は参加できないのだが。千歳さんはとくに何も気に留めていなかったが、和久子さんは、とてもうれしそうな顔をして、学校から帰ってきた。
「お母ちゃん、今日学校でね、ハーディーガーディーという楽器を弾いているお姉さんが来たんだよ。」
いつもうるさいくらい学校の事を話してくれる和久子さんは、その日も千歳さんに言った。
「へえ、どんな人だったの?」
千歳さんは、一応和久子さんの話は聞くことにしている。
「うん、とてもきれいな人だった。ハーディーガーディーって面白いねえ。なんだかアコーディオンみたいな音が出るけど、ゼンマイを回して音を出すだって。すごく面白かった。」
和久子さんはとても楽しそうに言った。
「汽車のうたとか、映画の歌とかやってくれたんだけど、すごくおもしろいよ。左手は、ずっとゼンマイを回して、右手で鍵盤を押さえて弾くの。こんなふうにね。」
和久子さんはティッシュペーパーの箱を腕に乗せて、ハーディーガーディーを弾く真似をした。なんでも真似するのは良いが、それは本当に良いことなのか、千歳さんは困ってしまった。
「そうなんだ。それは良かったね。」
とりあえずそれだけ言っておく。
「ねえ、お母ちゃん。和久子も土谷恵梨香さんみたいに、一生懸命やれば、ピアノをやれるかな?」
和久子さんがそんな事を言ったため、千歳さんはびっくりした。
「あの、土谷恵梨香さんって人、ホント楽しそうだった。楽器が弾けることが、何よりも嬉しいって感じだった。和久子もそうなりたい。ああして、すごく楽しいってこと伝えたい。」
「そ、そ、そうだけど、、、。」
千歳さんは更に困ってしまう。和久子さんに夢を持つことより自立するほうが大事なのだと言うことを、伝えなければ行けないのに、これを言ったら、和久子さんの今の幸せをぶっ壊してしまうことになる。
「和久子も練習しなくちゃ。あの、土谷恵梨香さんみたいになりたいもん、ああして楽器を一生懸命やってれば、和久子も楽器を弾くことできるよね。」
そう言って和久子さんはピアノの練習を始めた。一生懸命練習していて、ちゃんと演奏をしているのはわかるけれど、それでやっていけるかということは別の話だ。学校の先生もなんでそういう事を教えないんだろう。全く支援学校というけれど、何もそういうところは教えないんだなと、千歳さんは困ってしまった。これは誰かに相談しなければならない。それは、しっかりいけないことだと言い聞かせたいが、どう伝えたら良いかはわからない。自分で考えてもわからないなら人に聞くしか無い。それは千歳さんが思っていることだった。自分が疑問に思っていることは、自分で解決しようとしても無駄なので、ちゃんと誰かに相談しなければだめだと、千歳さんは心に誓っていた。人に聞くのは恥ずかしいことではない。
翌日、千歳さんは、和久子さんを連れて、車で製鉄所に向かった。製鉄所と言っても、工場ではない。ただ、居場所のない人たちに勉強や仕事などをする部屋を貸している支援施設である。とは言っても、単に人を集めているだけのことで、福祉というものに区分されるのかどうかわからないということも千歳さんは聞かされていた。でも、もしかしたら、大事な施設なのではないかと思われる場所でもある。
その製鉄所では、これから新規で利用させて貰えないかという申し入れがあって、一応製鉄所を管理している法人の理事長であるジョチさんが、その新規利用者と面談をしていた。新人利用者は本人のみで来ることもあるが、誰か家族が一緒に来ることもある。そしてなぜか家族が一緒に来る利用者のほうが、問題は大きいのではないかと思われることがある。
「えーと、お名前は、土谷恵梨香さん。住所は富士市富士見台。はあ、ここが大渕ですから、随分離れたところから来たんですね。ここを何でおしりになりましたか?」
ジョチさんこと、曽我正輝さんは、二人の女性を見ていった。二人の女性は、あまり年は離れていないようなので、多分姉妹だろう。親子という感じではなかった。
「お姉さんが、土谷恵梨香さん。妹さんが土谷綾香さんですね。」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。そうなんです。」
と、妹さんが言った。
「それでどうしてお姉さんをこちらに通わせてほしいとおっしゃるんですか?」
「ええ。私が、仕事をしているときに、姉がなにかしでかしたら、たまったものじゃないので、その間だけでも、昼間はここで預かって欲しいんですよ。」
妹の土谷綾香さんはそういった。
「ああ、そうですか。なにか、病院で診断でも受けているのでしょうか?精神科とかそういうところは通われていますか?」
ジョチさんがそうきくと、
「はい。通っています。通わせていないと落ち着きがないので、毎日薬を飲んでもらっています。幸い姉の方も、自分は異常だと気がついてくれているようなので、薬を飲んでくれるのはこちらとしても助かっています。」
と、綾香さんは答える。
「わかりました。もし、差し支えないようでしたら、一応病名など教えていただけませんか?」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。あまり口に出して言いたくない病名ですが、姉は一応統合失調症と言われてます。何の型に入るのかは、まだ解明されていないようですが、そこはまた後日詳しい検査でわかると言われています。」
と、綾香さんは答えた。確かにこの病名では、口に出して言いたくはないだろう。それを口にしてしまったら、学校などでは断られてしまうことが多いからだ。
「わかりました。症状が落ち着いていて、他人に危害を加える可能性がなければ、受け入れることにしますから、気にしないでください。ここには以前、覚醒剤の中毒で来た人もいますので、それと同じかなと思えば大丈夫です。」
とジョチさんが言った。それを聞いて、綾香さんは、ありがとうございますと言って、頭を下げた。
「それで、お姉さんを、こちらに通わせることは、どう思っていらっしゃいますか?ただ、お姉さんに居場所をあげたいからこちらに来てもらうと思ったのですか?それとも、邪魔な存在だから消してしまいたいっていうことですか?」
ジョチさんが聞くと、綾香さんはそれは、と答えた。
「正直に話してください。それによってここでの生活も変わってきますし、僕達がどう接したら良いか、変わって来ることもあります。」
と、ジョチさんは言った。これは大事なことでもある。家族の人であっても、本当は家族を捨ててしまって自由になりたいという人のほうが圧倒的に多いのである。
「はい。あたしは、ただ、姉がずっと家に居ると、何をするかわからないというか、家政婦さんを雇おうかとかも思ったんですけど、あいている人がなかったんです。」
綾香さんは、申し訳無さそうに言った。
「それ、違いますよね。本当はお姉さんを厄介払いしたいのではないのですかね?」
ジョチさんがちょっと語勢を強くいうと、
「は、、、い。」
と綾香さんは小さく言った。
「わかりました。それは正直な気持ちですから、それはちゃんと話してください。妹さんがそう思っているのであれば、また、僕達が彼女にどう接するべきであるのか決めるのに役に立ちますからね。それにはちゃんとご家族の状況もしっかり把握しなければいけませんから、隠さずに正直に話してくださいね。」
ジョチさんがそう言うと、土谷恵梨香さんが言った。
「本当は私が死ぬべきなんです。私が、障害を負ってしまったばっかりに、妹には迷惑をかけましたし、親だって私ばかりに声をかけて、妹には、何も声掛けをしなかったんです。それは私が、病気だったから、どうしてもできないことがあるし、妹はできるのに、私はできないから、親はどうしても私のほうばっかりに声をかけてしまいますし。だから、妹がそう思っても仕方ないことですよ。それは、妹が誰よりも望んでいることだと思います。」
「お姉ちゃん、そういう事を言っているわけでは。」
綾香さんがそう言うが、恵梨香さんは、それを遮って、
「でも、あなたは、そう思ってるでしょ。態度を見ればわかるわよ。」
と言った。そういう過剰に反応してしまうのが病気なのだと思われる。
「まあ、二人の主観的な事は、またあとにしておきましょう。いずれにしても、今空きはありますので、お姉さんには、ここに通ってくれて結構ですよ。毎日でもいいし、決まった曜日でも結構です。ただ、ここでは、一つ条件があって、ここを終の棲家にはしないこと。それは、守っていただかないと困ります。」
ジョチさんは、彼女を預かる条件を提示した。恵梨香さんも綾香さんもそれには残念な顔をする。
「ここに通うことはゴールじゃありませんよ。必ず次の居場所が見つかったら出てもらいますからね。それは忘れないでくださいね。」
ジョチさんが、そう言うと、恵梨香さんたちは改めて、
「よろしくお願いします。」
というのだった。
「はあ、あの女性がここの利用者になるのか。彼女、誰か有能なパトロンでもいて、それとハーディーガーディーでなんとかいきていけるのかと思ったけど、彼女は、そうじゃないんだねえ。」
四畳半で、杉ちゃんが着物を縫いながらいった。水穂さんが、杉ちゃんに声が大きいよといった。
「まあ、表向きは、偉い女性でも、問題があることはあると思いますよ。どこの家庭だって、何もない家庭なんてないですから。」
水穂さんがそう言うと、
「そうだねえ。」
杉ちゃんは、単純に答えた。それと同時に、
「こんにちは。ちょっとご相談に乗ってほしいことがあるんですが?」
と、千歳さんの声が聞こえてきた。
「あれ。誰だろ?」
杉ちゃんが言うと、
「はい。あの、石塚千歳さんの声です。」
水穂さんが言った。
「今大事な客が来てるんだけどさ。ちょっと静かに上がってくれるか?」
杉ちゃんがそう言うと、千歳さんは、わかりましたと言って、製鉄所の中に入った。二人で製鉄所に入ると、それと同時に、ガチャンと応接室のドアが開いて、ジョチさんが、土谷恵梨香さんをつれて出てきた。和久子さんはそれを見て、
「あ!ハーディーガーディーのお姉ちゃん!」
と嬉しそうに言った。それを隣で見ていた、恵梨香さんの妹の綾香さんが、なんだか嫌そうな顔をした。
「ああ、申し訳ありません。そんなふうに馴れ馴れしく言われてしまうと、不快ですよね。申し訳ありません。」
と、千歳さんが言うと、和久子さんのほうは大スターに会えて、とても嬉しかったらしく、
「ありがとうございます!お姉ちゃんの演奏はとても格好良かった!あたしは、お姉ちゃんに演奏聞かせてもらったことを絶対忘れません!」
と子供らしい口調で言ったのだった。全くなんでこんなふうにタイミングの悪いところで、こんなふうになってしまうのだろうと、千歳さんは、何も言えないのであるが、
「あたし、和久子です。あの、吉川学校の1年生です。こないだ、あたしの学校に来てくれましたよね。学校で、汽車の歌とか弾いてくれましたよね。それは、とても感動しています!あたしは、その御蔭でピアノの練習を頑張ろうと思いました。また、学校に来てください!」
和久子さんはとてもうれしそうに言った。
「結局、子供は大人がしていることに純粋に反応しちゃうのね。お姉ちゃん、子供だましも、ちょっと控えたほうが良いのではないの?」
綾香さんがちょっと嫌味っぽく言った。
「でも、恵梨香さんの演奏が、彼女をここまで感動させた事は間違いありません。それは誰にも変えられない事実でもありますので、動かすことはできませんよ。」
とジョチさんが言った。
「お姉ちゃん、もう一回聞かせてください。ここの右城先生は、すごく素敵なピアニストです。だからお姉ちゃんと一緒にやってみたら、すごいことになるかも。」
和久子さんが子供らしくそういった。綾香さんも、千歳さんも嫌そうな顔をする。当事者である土谷恵梨香さんは、どう反応したら良いのかわからないという顔をしていたが、
「じゃあ、やっていただきましょうか。恵梨香さんは、いくら病人であっても、ハーディ・ガーディー奏者としては素晴らしいものがあると思いますからね。それでは、水穂さんと一緒に、なにか一曲やってみてください。」
とジョチさんが言った。恵梨香さんは、わかりましたと言って、水穂さんのいる四畳半に行った。水穂さんも、スーツケースの中からハーディーガーディーを取り出したので、恵梨香さんと何をするのかわかってくれたようだ。水穂さんは、すぐにピアノの前に座った。
「水穂さん、この曲知っていらっしゃいますか?」
恵梨香さんは、左手でゼンマイを回し、ある曲を弾き始めた。水穂さんはすぐわかってくれたようで、ピアノで静かに伴奏を付け始めた。この曲、実に有名な曲で、誰の作品なのかすぐわかる。それだけヒットした曲でもあった。
「ああ、ハーディーガーディーマンですか。ドノバン・フリップス・レイッチの代表作ですね。あの曲が流行ったのは、僕が幼い頃でしたので、もう、40年以上昔ですが、ああいう歌詞は、いつまでも、心に残りますね。」
とジョチさんが言った。
千歳さんは和久子さんを見た。とても真剣にピアノとハーディーガーディーの演奏を聞いている。それを見て、なんだか彼女が一生懸命聞いているのを邪魔しては行けないような気がした。それが、今回の疑問に対する答えなのではないかと同時に、親として、和久子さんにできることはそれしか無いのではないかと思われることでもあった。妹の綾香さんの方は、やっぱり私の負けだという顔をして、ガックリと方を落としていた。
「あれは、ハーディーガーディーの弾き手が、自分の心情を歌った曲ではあるのですが、もともとハーディーガーディーの弾き手は、経済的に貧しかったことが多いんです。それに、盲人を始めとして、障害者にとっては、貴重な収入源でもありました。音楽リズムに合わず規則的にゼンマイを回し続け、鍵盤を操作しなければならないところは、とても滑稽に見えたのではないかと思いますね。」
「そうですか。なんだか、恵梨香さんが、ハーディーガーディーを弾き始めたというのも、彼女が、なにかそういう宿命的な事を感じたのかもしれません。」
千歳さんは小さな声で言った。
「それでは、ハーディーガーディーマンではなく、ハーディーガーディーウーマンとなるな。それは面白いな。なんか、そこら辺、勉強していれば、もっと彼女に対する偏見もなくなってくれるかもしれないぞ。」
杉ちゃんが、ジョチさんにいうと、ジョチさんは指を口に当てた。
「杉ちゃん、最後まで演奏を聞きましょう。いくら大道芸人や、貧しい身分の人の楽器であっても、大変貴重な音楽ですよ。ハーディーガーディーマン、実に素敵な楽曲じゃないですか。そして真剣に聞いている、未来の音楽家を邪魔しないように。」
Hurdy Gurdy Woman 増田朋美 @masubuchi4996
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