2.逃げ水と偶像
――逃げ水、というものが存在するらしい。
初めて聞いた時はその正体に想像を膨らませたりしていたが、それが蜃気楼の一種であると知った途端、泡のように一切の興味が弾け飛び、酷く陳腐さに塗れてしまった。
言葉というのは存外、そういうものなのかもしれない。
*
教科書で膨らんだリュックに、だらしない猫背も少しはマシになる。
クラスメイトに押し出されるように教室を出ると、下校や部活に急ぐ生徒の波に掴まった。今日はどのクラスも一斉にホームルームが終わったらしい。波に逆らうのも面倒で、そのまま昇降口まで流された。
下駄箱からスニーカーを取り出し、少しくたびれた履き口を指で支えながら踵を通す。 摩擦で擦れた人差し指が地味に痛い。これが嫌で、そろそろ靴を新調したいところだが、勉強に追われていればその暇もなく日々が流れてしまう。その度に“まぁまだ履けるからいいか”と思い直している訳だけども。
外に出ると、校内のどこかでひっそりと咲いているであろう、金木犀の瑞々しい香りがほんのりと風に運ばれてきた。近頃は随分気温が下がり、制服の移行期間なんてものは存在しなかったように思う。まだ半袖を貫いている生徒は、余程の暑がりか痩せ我慢、もしくは仕舞い込んだ制服を見つけきれなかったのだろう。僕みたいに。
うっすら鳥肌を立てながら下校しつつ、何の気なしに今自分が出てきた建物を振り返った。いくつも並ぶ窓ガラスに、空の橙が反射して眩しい。でも直接見上げるより、こうやって間接的に見る方が何故か好きだった。
雲の流れを目で追っていると、途中で空が切れた。開け放たれた窓からは、夕陽に透ける茶が風に靡いている。柔らかそうな髪。触れてみたい、というのは下級生物の僕には随分贅沢な話だろう。
彼女は所謂マドンナというやつだ。
ただ、とりわけ同性の話題に上がることもないので、学年の、というのは些か誇張表現になってしまうのかもしれない。だが他がどう思っているのかは関係なく、少なくとも僕にとってはそういう存在だった。この三年間で同じクラスになったことはないし、話したこともなければ視線が合ったこともない。一方的に認知して、勝手にマドンナと偶像化してしまっただけのこと。相手にしてみれば気味が悪いというか、迷惑な話だろうと十分理解している。だからこうやって、ふと視界に入った時に、気づかれないように眺めているのだ。
ベランダに一人。
何を考えながら空を見ているんだろう。
あ、誰かに呼ばれたのかな。
手を振ったところを見ると、先帰るね、と言われたのかもしれない。
あの物静かな視線が、いつか僕を捉えることはあるのかな。
そんなありもしない妄想をした時、予想外にもお互いの視線が絡んでしまった。咄嗟に逸らしてみたものの、どう考えても不自然な挙動だろうし、自分を見ていたと気づかれてしまったに違いない。僕は肌寒さも忘れてしまう程の恥ずかしさに見舞われた。
とりあえずその場から逃げるべく、手近な植え込みの陰に身を隠してみる。あぁ、終わった。気持ち悪い奴がいる、と思われて終了。味気ない学校生活の僅かな潤いを、一瞬にして奪われてしまった感覚だった。奪われた、ではなく、自ら失ったのだけれども。
どのくらいそうやって隠れていただろうか。もういいかな、と思って陰から出ると、先程の場所に彼女はいなくなっていた。ふぅ、と息を吐く。バレたか、バレていないか、は今どうでもよく、とりあえずその場はやり過ごせたようで少し安堵感を抱いた。
「ねぇ」
その声に心臓を鷲掴みされたのは、言うまでもない。
生徒の声も、カラスの鳴き声も、風に擦れる葉の音も、周りの何もかもが静止してしまったようだった。呼び掛けられたら反応しないわけにもいかず、僕は恐る恐る、それはもう慎重に、声がした背後を振り返った。
「な、何……かな?」
当然そこに立っているのは彼女以外の誰でもないのに、しらばっくれる言葉しか浮かばず、そう返答した。
「見てた?」
「……え?」
「さっき、目が合った気がしたんだけど」
「き……気のせいじゃないかな」
真っ直ぐに彼女の眼を見ることができず、少し視線をずらしながら誤魔化す。しかし、そんなもの通用するはずがなかった。
「嘘つかないでよ。三年五組の、――君」
聞き間違いだと思った。彼女の口から、まさか自分の名前が飛び出すなんて。僕のちっぽけな脳みその処理能力では思考が追い付かなかった。
「こっち見てたんでしょ」
「え……あ、はい……い、いや、違う見てない!」
脳内回路が完全にショートしてしまったらしい。一度でも正直に吐いてしまったら、その後にどんな否定の言葉を並べても意味はない。
「いいよ、別に怒ったりしないもの」
そう言って彼女はやんわりと微笑んでみせた。確かに初めから、彼女の言葉には怒気や不快感は感じられなかった。ただ“見ていた”という事実だけを確認したかっただけのよう。僕は体の強張りを少しだけ緩めた。
「……ごめん、気持ち悪い思いさせて」
素直に謝罪した。今後は絶対に、そんな真似をしないとの意味を込めて。
「そんなことないよ」
「嘘つかなくていいよ。話したこともない奴にじっと見られてたなんて、考えただけで誰だって嫌だと思うから」
「だから、そんなことないんだってば」
僕は必死に否定しようとする彼女が不思議で堪らず、どういうことなのか訊きたくて仕方なかったが、訊くまでもなく彼女の方から話し始めた。
「あのね、私、一度話してみたかったんだよね」
「……は?」
完全に喉が固まってしまって、何とか絞り出せたのは疑問符だけだった。
「それで、もし話せたらこう伝えようと思ってたんだ」
想像よりも文学的で、かつ大胆な口調が鼓膜に残る。
「こんなの、変だと思うかもしれないんだけどね」
彼女はもう一歩、僕に近づいて、にっこりと口角を上げた。
「私はどうも、キミが好きみたい」
一見大人しそうな彼女の、その言葉の破壊力たるや。この世界の全てがぶっ飛んでしまうくらいの衝撃に見舞われた。僕は人生でこんなに見開いたことがあるだろうかというくらいに目をかっ開いて、ただただ彼女を見つめるしかなかった。
「びっくりした?」
「そ、そりゃあ、もう……」
問いかけられれば答えるが、それ以上の言葉は何一つ出てこない。
「私、キミに会うまで一目惚れって信じてこなかったんだけどさ。本当にあるんだね、たった一回見ただけで胸が高鳴るなんてこと」
それはこっちの台詞だよ。と、言えれば良かったのだけれど、生憎言葉という言葉が喉につっかえてしまっている。
「ねぇ、それで?」
「……え?」
「キミは私のこと、どう思ってるのかな」
ど直球にも程がある。ただでさえ情報の処理が追い付いていないというのに、どう思ってるのかなんて冷静に答えられるわけがない。ただこのまま押し黙っていては、彼女のその澄んだ眼差しで心が死んでしまいそうだった。
「……僕も好きだよ、とてもね」
じゃなきゃ、今まで何の関わりもない人をじっと見たりしないじゃないか。やっとの思いで絞り出した返事にそう続けたかったのだが、大胆にも彼女が抱き着いてきたことで遮られてしまった。
「え、ちょ……」
「嬉しい!」
胸元でくすぐる嬉々とした彼女の声色に抵抗することもできず、されるがまま身を任せることにした。ここに人の目がなくてよかったと心底思いながら、細やかなお返しとして、彼女の小さな頭を撫でてみる。想像より、もっと柔らかな質感の髪が指に絡んだ。
こんなに大胆な子だったのか。人は見かけによらないというけど、ここまでギャップがあるなんて。それはそれで面白くて、素直な反応が可愛らしくて、愛おしくさえ思えた。
「じゃあ、付き合ってくれる?」
いくら何でも、その質問は早すぎやしないか。少しは考える時間をくれるとありがたいんだけれど。と、一瞬思ったが、両想い=付き合うというのは当然結びつく話だし、彼女の質問はちゃんと的を射ているのかもしれない。抱き着いたまま真っ直ぐに向けられる視線に、僕は応えた。
「……いいよ。付き合おう」
*
手を繋ぐ、なんて付き合って一日目の僕にはハードルが高すぎるので、今は並んで歩くだけにしてもらったが、彼女は少し残念そうな顔をしていた。また今度ね、と心の中で謝罪しつつ、薄暗さを増していく空に何となく視線を向けた。
今日は吉日だ。だって僕のマドンナがすぐ隣にいるんだから。こんなに嬉しいことが、この世にあっていいのだろうか。
そう思ったところで、僕の足がぴたりと止まった。
でもなぜだろう。嬉しそうに前を歩いていく背中を見て、心の温度が一気に冷めていくようだった。こんなの、おかしいじゃないか。やっと、この長い長い片想いが終わったのに。今度は自分に向けられる好意を嬉しく思いながら、今までのように彼女を好きでいればいい、ただそれだけのはずなのに。
「……あぁ、そっか」
どうも僕は気づいてしまったらしい。今まで創り上げてきたマドンナという偶像が、消えてしまったことに。そして、恋は片想いをしている間が、一番楽しいということに。
「どうしたの? 早く来てよー」
前方から振り返った彼女が、明るい声と共に手招きする。
「ごめんごめん」
僕は苦笑いして、小走りで彼女に駆け寄る。
“彼女”というありふれた存在になってしまった、元マドンナの隣に。
――また一つ、僕は陳腐な存在に気付いてしまった。
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