海の備忘録

海月𓈒𓂂𓏸

1.キミに夢中

「僕には……キミしかいないんだ」


 腕の中で紡がれるその言葉に酔いしれていた。いや、それは彼の声であることに、意味があるのかもしれない。

 たっぷりと水気を含んで通りの悪くなった癖毛に、軽く指を絡ませる。絡めば絡む程、自由を奪われていく私の指。煩わしいはずのそれも、彼ならどうにも心地良かった。


「……馬鹿ね、いなくなる筈ないじゃない」


 その言葉に応えるように、こちらを見上げた彼が骨ばった手を頬に伸ばす。随分と雨空に晒されたらしく、私の熱を根こそぎ奪っていきそうな程冷えていた。そのままそっと重ねられた、柔らかな感触。


「……煙草、いつ吸ったの?」


 口に置き去りにされた独特の苦みは、嫌いじゃない。


「……キミを待ってる間に」


 彼の瞳から視線をずらすと、テーブルに置かれたぐっしょり濡れた煙草の箱。朝出た時に未開封だったそれは、遠目で分かるくらいまで中身が減っていた。


「……全部湿気ちゃったね」

「また買うからいいよ」

「禁煙しないの?」

「キミが言ったんだよ。吸ってる姿、格好良いねって。忘れたの?」

「……そうね、そうだったわ」


 そう言ってまた抱き締めると、彼は満足そうに身を委ねた。


「お風呂入ってきて。風邪引いちゃうから」


 私がそう促すと、名残惜しそうな視線を向けつつも、素直に私から離れる彼。ここにいるから、と微笑みかければ、彼も安心したのかバスルームに向かった。

 ふと手元のスマホ画面が明るくなる。


「……ほんと、タイミングの悪い子」


 今ね、忙しいの。

 “会いたい”の四文字に、既読スルーでお返しして電源を落とす。


「“待て”くらい、少しはできなきゃ駄目よ」


 そう、彼みたいにね。


 煙草と一緒に置き去りにされた彼のスマホ。電源を入れ、難なくロックを解除する。初めは頭で反復していたパスコードも、今やすっかり手に馴染んで迷いなく入力できる。続いてメッセージ画面を開くと、一番上には私のアイコン。他には公式アカウントからのメッセージだけ。彼には私しかいないんだもの、当然ね。

 その事実に、私の胸は何とも言えない多幸感で満たされた。


 *


 鬱陶しく纏わりつく服を脱ぎ捨て、勢いよくシャワーで洗い流す。湯舟に浸かると、やっと芯から体が温まった。

 浴槽の縁に置いたスマホはブラックアウトしており、そこで初めて電源を落としていたことに気付く。濡れた手でスマホを起動させると、すぐに何件か通知が届いた。友人、公式アカウントに混じる、“彼女”の名前。


“いつ会いに来てくれるの?”

“今どこにいるの?”


 お預けを食らったペットじゃないんだから。ありきたりで煩わしい言葉の羅列に辟易とした。今はお前の気分じゃないんだよ。

 「俺」は全てのメッセージを横目で流し、画面を閉じた。

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