第4話 お死にあそばせ?

「はぁ? 勘違いですって? この私がぁ?」


 ロゼッタは完全に猫を被る行為を捨てていた。


 この純情無垢たる不届き者の心をどう折るか。それしか頭にない。


 しかしエカテリーナは、前後から嘲笑されようが背筋を伸ばし、背後のロゼッタを振り返る。アシュベンダーの家の名を背負う者として、若年ながらその姿はさながら名家の代表を思わせる高邁なものであった。


「ええ。わたくしとあなたの目指す先は、どうやら異なるようです」


「でしょうね。あなたの目指す先は、精々お遊び程度のものでしょうし」


「いいえ。わたくしの目指す先は、そんな戯言で成されるものではありませんわ」


「口だけは達者ね。やる気がないならやめてしまいなさいな」


 フン。と鼻で笑うロゼッタ。


 所詮この女は田舎では裕福であったのだろうが、所詮は井の中の蛙。大海を知らなければ、比較できる才能も無かったのだろう。


 あるいはその田舎では鍵盤を叩けるだけで褒められる、おめでたい家だったとか。


 とにかくエカテリーナから奏者としての才覚が見当たらない。蹴落とすべくライバルにもならない生意気な女だ。同級生から洗礼を受けても挫けない精神力は見上げたものだが、それもここで終わらせる。


「だいたい、アシュベンダーなんて知らない名の家柄なんて、やっぱり大したこともないのね。エカテリーナお嬢様ぁ? あなたのお父様はどのようなお方ですかぁ? やっぱりお芋で成り上がった肥溜めみたいなお家柄なのかしらぁ?」


 ロゼッタの精神攻撃も終盤に差し掛かる。一年生はここまで言われれば翌日から顔を出さなくなった。


 どれもロゼッタの両親より下のランクの貴族。両親にいじめを受けたと報告しても、地位が上では親もなにも言えまい。


 なによりロゼッタに連む同級生らもランクは同じか少し下。取り巻きも潰せない。


 それを見越して観衆たる二年生の嘲笑。この演出が羞恥の度合いを引き上げる。


 しかし。しかし、だ。


 この時だけはロゼッタたちの諜報は失敗していたと言える。


 アシュベンダーという家は知らなかった。帝都にはない。だからいじめても問題にはならない。


 それは慢心だった。


 ロゼッタの眼下で硬く握られる拳が、それを物語る。


 侮っていたのだ。アシュベンダー家の、いやエカテリーナ・アシュベンダーの真価を。


 知らないから。などという戯言めいた言い訳は通用しない。


 勘違いしていたのは真実だった。エカテリーナの志す奏者の意味は、ロゼッタの、いや大衆が羨望を抱く楽器を奏で神に音を捧げる者ではないと。




 ––––ムカつきますわぁ。




「あら? なにか仰いましたかお芋のお嬢………へ?」


 ロゼッタの笑いが止んだ。


 いや、殺されたというべきか。


 エカテリーナは右手で無造作にグランドピアノの脚柱を掴む。


 いったいなにをするのかと眺めていると、彼女たちの想像を絶する、この世のものとは思えない悪夢が訪れた。


「ちょ………ッ!?」


「お、おい! お前なにやって………」


 客席にいた全員が騒然となる。


 当然だ。総重量400キログラムを超える巨大な漆黒の塊が、まるで自らの重量を忘れたかのように軽々と宙に浮いたからだ。


 その美しい光沢も、神々しい見慣れた形状も、どれも背丈の成長に連れて自分の身長よりいつも下にあった。


 それが自分の身長よりも高いところにあれば、なおのこと形容し難い恐怖を覚える。


 なんだ。なんなのだこの頭と膂力のイカれた女は。


 成人男性が数人でやっと動かせるくらいの重さのグランドピアノを、どういう仕組みの筋力で易々と片腕で持ち上げてしまえるのか。


 カタカタと音を立てて開閉する鍵盤蓋や屋根が、見慣れているはずなのに、どうも化け物の複数拵えた口のように見えて仕方ない。


 もし今、これがバランスを欠いて自分に降り掛かれば、逃げる暇もなく肢体が弾けてミンチと化すのを容易に想像できる。


 ロゼッタは初めて生まれたことを後悔した。


 このゴリラ以上の筋力を備えた一年生をいじめて精神をへし折ろうとした愚行への生温い後悔は数秒前に済ませている。


 今まさに死神が「じゃ、お前はこれから死にまーす」と笑いながら大鎌を振り上げているような、重圧で吐き気を催す絶対的な死が迫っているのだ。


「ロゼッタ様。よくもまぁ、好き勝手言ってくださいましたね。しかしあなたの喜悦は共感できます。無力な虫ケラを蹂躙できるその瞬間は、なにものにも変え難い。あなたもそうだったのでしょう?」


「あ、あわ、私は………」


「今度はわたくしの番でしたわね。ではご覧くださいませ。これがわたくしの演奏。そして音色を奏でるのはあなた方ですわ」


「わ、私!?」


「そう。虫ケラの断末魔を聞かせてくださいませ」


 持ち上げたグランドピアノが自重を支えきれず、脚柱がミヂミヂミヂッと軋み割れ始めた。


 その異音は悪夢の始まりを告げるゴング。


 エカテリーナは満開になった花のような、さながら天使のような笑みを浮かべつつ鬼畜を興じる。






「さぁ、お死にあそばぜ?」






 グラッとグランドピアノが傾倒する。


 視界の半分を占める漆黒の塊が迫った途端、ロゼッタは生存本能をフルに引き出した。



「ィ………っひゃぁぁぁぁああぁあああああ!!」



 こんなにも腹の底から叫んだのは、生まれて間もない赤子の頃、あるいは夜泣きした幼少期頃だろうか。


 貴族たる者、矜持を持ち常時平然とせよ。そんな両親の教えを忠実に守り続けたロゼッタではあるが、圧倒的暴力を前に矜持などあったものではない。平然など保てるはずがなかった。


 遠くへ。なるべく遠くへ。


 仮にグランドピアノを振り下ろす、あるいは投擲しようが飛距離など知れている。


 ならば遠くへ逃げてしまえば当たることなどない。グランドピアノを持ち上げたまま歩けるはずもない。


 腰を抜かして足が使いものにならないが、震える両手を必死に前へと突き出して壇上から這うように落下。顔で着地して鼻血を噴出しようが階段を四肢で上がる。


「あら、まぁまぁ。なんて素敵な断末魔でしょう。ロゼッタ様。あなたは素敵だわ。潰れた時なんてもっと耳障りな声で鳴くのでしょうね?」


「やめっ、やめてぇぇぇぁぁああああ!」


 数秒で形成逆転。エカテリーナは嬉々としながら鬼畜な所業を執行した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る