第7話

 その夜、深い眠りへとついたシェンは、気がつくとひとりで闇に浮かぶ赤い月を見上げていた。


 辺りは、見渡す限りの草原だ。


 なんでこんなところにいるんだろう。


 その時のシェンには獏に噛まれたという認識はなく、直前の記憶も曖昧になっていた。


 尚、これは獏に核を植え付けられ生還した者に尋ねたところ、共通事項だった。恐らくは、夢を見ている本人が影持ちの影を探し出し滅することを避ける為の獏の防御機構と推測されるが、この時のシェンは、勿論そんなことは知らない。


 だから、自分がいる場所は村から出た所にある草原だと思った。シェンは、村とその周辺しか知らない。なので、何故月が赤いのかにさしたる疑問も覚えず、村を探して戻ることにした。


 この夢は、シェンの夢だ。そこに望むものが現れるのは当然のこと。


 少し歩くと、村の入り口が見えてきた。野生動物の被害を避ける為、村をぐるりと阻塞が囲んである。あるべきところに現れた入り口を通り抜けると、少し行けばシェンの家だ。


 シェンの家の中からは明かりが漏れていて、父と母の笑い声が漏れ伝う。


 家に戻ろうとシェンが戸に手を掛けた瞬間、中央広場の方からキン! という金属音が響いてきた。なんだろうと思い、踵を返し広場へと向かう。


 そこにいたのは、真っ黒い立体の影だった。どこか見覚えのある輪郭に、自分の父に似ていると気付く。でも影は人間じゃない。


 何なんだろう、と目を細めて警戒する。すると突然、空から唐突に降ってきた体格のいい男が、身の丈はあろうかという大剣で影の頭から股の部分まで一刀両断にした。


 長い黒髪が舞う。ごつい男なのに綺麗だな、とつい見惚れる。


 影の左半分が霞となって消えると、残り半分がふらふらと尻もちをついた。


「すご……!」


 男は、残った半身を今度は横に輪切りにしていく。そして最後に残ったのは、首。男がそこに大剣を突き立てると、キイイインッ! と高い音が響き渡った。


「え、な、なに……!?」


 男が、思わず声を発したシェンの方を振り返る。


「シェン、そこにいたか」


 シェンはこんな人は知らない筈なのに、何故この黒髪の男はシェンの名前を知っているのか。何故この男は、ホッとした様な笑みを浮かべているのか。


 どう答えたらいいか分からず、シェンは無言のまま立ち尽くす。すると、空に浮かぶ赤い月が、瞼を開く様に少しずつ開いていくじゃないか。


 男はそれを確認すると、剣を鞘に収めてシェンに向かって言った。


「シェン、先に行って待ってるからな。絶対戻ってこいよ」

「え、ちょっと待――」


 こんな変なものが彷徨いていた場所に置いていかないで、そう思い男に手を伸ばす。だが、男は唐突に走り始めると、力強く地面を蹴り――。


 開きかけた瞼の間から、消えていった。


「絶対戻れよ! いいな!」という声と共に。


 次の瞬間、天から差す光に照らされたシェンは、あまりの眩しさに腕で目を覆う。


「――シェン!」

「……あれ……?」


 シェンの顔を泣きそうな顔をして覗き込んでいたのは、先程影を退治した男――リョウだった。


 リョウは、夢と現実がまだ曖昧な状態のシェンに向かい、頭を下げる。


「ごめん……俺がもっと強くお前を引き止めていたら」


 その言葉で、シェンは段々と昏倒する前に起きた出来事を思い出していった。


「リョウ……父さんと母さんはどうなった……?」


 シェンの掠れ声に、リョウが更に項垂れる。


「シェンのお母さんは……村の人に埋葬をお願いした。あまりにもその……酷い状態だったから、俺が拾い集めて、彼らに渡したんだ」

「……」

「入り口は洗って綺麗にした。シェンが見たくないだろうと思って……」


 そういえば、シェンは今、自分の部屋にいた。窓の外は明るく、あれから大分時間が経っていることが窺える。父は――獏はどうなったのだろうか。


「俺、どれくらい寝てた?」

「二日間だ。先に村に獏が入り込まない様にしないといけなくて、それでお前を助けに夢の中に入るまで時間がかかっちまって……」


 リョウが、泣き顔の上目遣いでシェンを見た。


「……待たせてごめんな」


 そんな顔を、この人にしてもらいたくはなかった。リョウは、シェンたちを助けに来てくれた。それを邪険に扱ったのはシェンだ。それでもリョウは、獏と化した父からシェンを遠ざけようとしてくれたのに、シェンはそれも拒絶した。


 責に帰すべきはシェンだ。リョウは何も悪くない。


「……こっちこそ、ごめん」


 シェンが謝ると、リョウは慌てて首を横に振った。


「いや! 結局その……獏本体も退治しなかったし……」


 獏本体。つまり、シェンの父のことだ。


 リョウが、上目遣いで言いにくそうにボソボソと続ける。


「この村は、夜間篝火かがりびを絶やさない様にと言ったから、多分獏はもうここには近付かないと思う」

「……うん」


 厄災は追い払った。だけど、消えた訳じゃない。シェンが躊躇ったから。リョウの言葉を信じなかったから。


「……次に核を植え付ける対象を探しに、他の集落へ向かうと思うんだ」


 だから、シェンのお父さんだけど、追わせてもらう。ごめん。そう言われたシェンは、しょんぼりとしたリョウを見た時から決めていたことを口にした。


「リョウ、俺が父さんを倒す」

「――え?」


 リョウが、伏せていた目を上げる。


「リョウみたいな獏祓いになれば、俺も倒せるんだろ? 誰にでもなれるものなのか?」


 自分の所為で、獏となった父は野に放たれた。その間、ただ緩慢としてここで待つだけでいいのか。それは、自分の弱さから目を逸らすことにならないか。


 なによりも。


「……母さんの、仇を打ちたいんだ」


 シェンの言葉に、リョウは無言のまま、感情の読めない表情でシェンの頭をぐしゃぐしゃと撫でたのだった。

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