第6話
土地は余っているので、家屋同士は離れている。だから、シェンたちが到着するまで誰も異変に気付かなかったのだろう。
夕飯の支度をしているのか、美味しそうな料理の香りがあちこちから漂ってくる。
それはシェンの家からもしていた。リョウの肩から降ろされたシェンは、自分の家に駆け寄る。
玄関の戸を開けると、母が仰向けになって床に寝転がっていた。
「母さ……ん……?」
シェンと同じサラサラの銀髪が、床に放射状に広がっている。
いつもシェンの顔を見ては細める青い瞳は、今は天井を見つめていた。否、天の方を向いているだけで、その瞳は何も映してはいない。
「あ……あ……っ!」
信じられない光景に、手足がブルブル震えて制御が利かない。母の首には、噛みつかれたと思われる赤黒い傷痕があった。体の上には、血まみれになった見覚えのある人物の姿。
「と……父さん……?」
母のお気に入りの麻色の服が血を吸い、無残に引き千切られているその意味に、シェンは目を疑った。
先程リョウから聞いた話では、目覚めた獏は人ひとりを食うと、以降は噛み付くことで獏の核を植え付けるのだという。
――人、ひとり。
立っていられず、シェンはその場で膝を付いた。
「シェン……外に出ていろ」
リョウがシェンの腕を掴むと、腰にぶら下げた剣の柄を握る。だけど、シェンはリョウの腕を振り払った。
「嘘だ……嘘だ、嘘だよね? 父さん……!」
四つん這いになって、相変わらず夢中で咀嚼を繰り返す父の元へと向かう。
「父さん……ねえ、父さんってば……!」
震える声で父を呼ぶも、一向にこちらを見ない。リョウが、もう一度腕を掴んだ。
「シェン! そいつはもうお前の父さんじゃない! 危険だから離れろ!」
シェンは咄嗟に立ち上がると、振り向いてリョウの胸をドン! と押す。体格のいいリョウはびくともしなかったが、泣きそうな顔でシェンを見下ろしていた。
「……お前は見ない方がいい、だから」
「いやだ!」
今度は思い切り肩をぶつけて、リョウを家の外へ追い出しにかかる。
「シェン!」
「出ていけ! お前の方こそ悪魔だろ!」
こいつは、父さんを殺す気だ。そんなことさせない、これは何かの間違いだ。きっとこの母さんは幻で、ほら、きっと調理場に立って今も料理をしている筈――。
シェンは渾身の力でリョウを外に押し倒すと、振り返った。さっき見たのは幻だ、だからきっと大丈夫と願いを込めながら。
目の前に、前身を血に染めた黄金の目を持つ父が立っていた。
「……シェン!」
転がっていたリョウが地面を蹴り上げて一気に近付いたが、間に合わなかった。ドゴン! とあり得ないほどの力で後方へと蹴り飛ばされたリョウ。
「リョ、リョウ……!」
ようやく我に返ったシェンが、リョウに手を伸ばす。目の前に立っているのは、父であって父でない存在だった。それが、父の目を見てようやく理解出来たのだ。
「シェンー!!」
ニイ、と歯を向いて笑った獏と化したシェンの父が、シェンの肩をがぶりと噛んだ。
「シェン、シェン!」
すると、この騒ぎで辺りから村人が集まり始める。空が暗くなってきていたからか、皆手に松明を掲げていた。
獏が、シェンから口を離す。フラフラと村人の方へと向かったが、村人は血だらけの姿に慄き、咄嗟に松明を向けた。
獏が、眩しそうに目を腕で庇う。
「グワアアアッ!」
「な、なんだこいつ……! あっ……嘘だろ!?」
血まみれの顔をよく見て、シェンの父だと気付いたらしい。腹部を腕で押さえて地面に這いつくばっているリョウが、村人たちに向かって叫んだ。
「そいつは火を恐れる! 松明を近づけろ! 村の周りに松明を夜通し設置して、近付けない様にするんだ!」
「あ、あんた誰だ……!?」
村人のひとりが、見知らぬリョウを見て尋ねる。だが、リョウは必死で叫び続けた。
「早くしないと、お前らの大切な家族もこうなるぞ!」
切羽詰まったその声を聞き、村人は行動を開始する。
その内のひとりが、シェンが玄関の前に座り込んでいるのに気付き、駆け寄ってきた。
「シェン! 大丈夫か!? 一体何があった!」
リラの父親だった。シェンは噛みつかれた肩を押さえながら、ぼんやりと泣き顔を彼に向ける。リラの父親は、家の中の惨劇に気付くと、「うっ」と口を押さえた。
そこへ、リョウが半分這った状態でやってくる。
「シェン! お前噛まれたのか!」
見せてみろ! とリョウに肩を掴まれ、シェンは大人しく傷をリョウに見せる。くっきりと付いた歯型からは、血がドクドクと溢れ出していた。
「リョウ……俺も父さんみたいになっちゃうの?」
ぽつりとシェンが呟く。リラの父親が、「おい! どういう……!」と尋ねるが、リョウはそれを無視してシェンを腕に抱いた。
「馬鹿言うな! お前は俺が絶対に助ける! 助けてみせるから……!」
「怖い、俺、怖いよリョウ……」
力なくそう囁いた後、シェンは意識を手放したのだった。
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