死にたがりは死んでも治らない

梁川航

死にたがりは死んでも治らない

 途中、言葉に詰まっちゃうかもしれない。誰かに話すのは初めてだし、自分でも整理しきれてないから。でも聞いてほしい。今こうして繋がれているあなたに、わたしは話したいんだ。ほんと勝手だけどさ。

 いくよ。


 まず、せんぱいとのファースト・コンタクトの話をさせて。

 それはシネ研の新歓コンパ@トリキでのことだった。

 コンパだよ、コンパ。あのわいわいがしゃーってやつ。大学生っぽいよね。でもさ、わたしって素直にコンパ楽しめる人間じゃないじゃん。シネ研だからまあ映画好きが多くて映画の話しまくりで盛り上がれるのかなーとか思ってたら、別にそんなことはなかった。単純に映画の趣味が合わなかったっていうのもあるし、会員の内輪ネタについてけないっていうのもある。偶然わたしに話が回ってきて、二十分くらい黒澤明についての持論を語らせてもらったのは興奮した。でもその楽しいゾーンを過ぎるとあとはお地蔵さんになるだけ。端的に言って地獄だった。

 こういうとき、わたしが何を考えるか、あなたは知ってるはず。知ってるよね?

 そう、わたしは死にたくなる。

 みんなが大皿を囲みながら楽しそうに笑っているその渦中で、わたしの頭を支配するのは「あ、死にたい~」って文字列だけ。淋しいのはやだけど、輪の中に溶け込みきるのもやだ。というか能力的に無理だ。

 もちろん会を抜け出すなんてのもわたしの選択肢には入ってこない。

 だからその落とし所として、いつもの「死にたい」が浮かんできた。

 話の流れに合わせて時折うなずいたり、笑ったりもする。でも、一度死にたいモードに入ると抜け出すのは難しい。

 頃合いを見計らってトイレに逃げ込んだ。一人でいる分にはまだ落ち着く。化粧台でスマホをいじって、頭を空にしようとする。

 けれどそういうときに限って自分を俯瞰する自分が出てきて、みじめだなって思って、余計に「死にたい」があふれてしまうのだった。

 ため息が出た。……はぁ。

 そういえば。ふと思う。

 高校時代はこういう死にたがり方はしなかったな。なんでだろう。

 たぶん理由は単純。「溶け込めない」って感覚が新生活特有なのだ。だからつらい。でも新生活が新生活じゃなくなるまで、そのつらさはどうしようもないってこともわかる。

 ……高校生活、楽しかったなぁ。

 うう。あのぬるま湯に戻りたい――。

 そのときだった。


「君、死にたがってるでしょ?」


 突然、背後から声をかけられた。

 びっくりして、反射的に振り返った。

 金髪の女の人。正確に言えば根っこの方が黒くなってるからプリン色の髪。背が高いし、不健康なほど細身の人だった。あとすっごい笑顔。

 顔に見覚えはあった。隣の机に座っていた先輩だ。

 もちろん、前からの知り合いとかじゃない。初対面の先輩だった。

 そう、初対面なのに――先輩は、わたしとあなたの秘密を知っていた。それが当然のように、一言目からぶっぱなしてきた。

 あまりに突然のことで、怖いと思う余裕すらなかった。なんで、どうしてっていう言葉だけが浮かんで、消えて、頭がいっぱいになった。

 言ってしまえば、その言葉の威力と、先輩のオーラとにすっかり飲み込まれていた。

 だから次の瞬間、先輩の手がわたしの右手を掴んできたときも、わたしは何も反応できなかった。「え」とか「あの」とかそういう困惑の言葉すら出てこない。わたしの思考が一回転するよりはるか先に、先輩は透明な声で言い放った。


「わかるよ、その気持ち」


 意味がわからなかった。

 初対面の、名前もおぼつかない先輩だ。なのになんでこんなに近いの?

 わたしの手首は綺麗だし、トー横にいそうなファッションをしているわけでもない。なのに──なんでバレたの?

 そういうことが頭の中でぐるぐるする。混乱する。余計何も言い返せない。

 この人は土足でわたしの気持ちに入り込んでくる。知らない感覚だった。あなたと同じ踏み込んでくるでも、この人の踏み込み方は――。

 嫌なはずなのに、身体が動かなかった。

 不思議とわたしは先輩の顔から目をそらせなかった。先輩もわたしの目をじっと見てくる。この黒い瞳に何が見透かされているのだろう。そう考えると怖くなった。

「ねえ、君の名前は?」

 優しい声だった。変な話、魔法のようにわたしを魅了してくる声だった。

 ぼんやりしてきた頭。気が付いたらわたしは自分の名前を言っていた。

「OK。じゃあ、行こうか」

 疑問を持つ余地すらなかった。手を引かれるまま、わたしは先輩に付いていった。


 ──それで、起きたらせんぱいの家にいたってわけ。

 端折りすぎかな? でも、ほんとにそれしか覚えてないんだよ。トリキを出たあとのことはまったく覚えてない。

 わたしにわかるのは、目の前でよく眠っているせんぱいの名前くらいだった。

 ふつうに考えてわけわかんないじゃん。いきなり知らない先輩の家に連れ込まれてるのはさすがに大学生活攻めすぎだと自分でも思う。

 でも、不思議と嫌な気分じゃなかったんだ。むしろ清々しさすらあった。

 なんというか、せんぱいの顔を見ていると、これからこの人と一緒に大学生活を送るんだろうな、って確信があったんだ。……ううん、違う。この人と一緒に大学生活を送りたいなって、そんな願望だった。

 ……あ、せんぱいがどうしてわたしの「死にたい」に気づいたか、やっぱり気になる?

 そりゃそうだよね。エスパーでもあるまいし、なんでいきなりって。

 せんぱいが言うには「死にたいオーラが出ていたから」らしい。……でも今になって考えてみると、本当は誰でも良かったんじゃないかなって思う。

 つまり、せんぱいも死にたがりやさんだったのかもしれないってこと。わたしに声をかけたのは完全に偶然で、誰か話題を共有できる人がいれば良かったんじゃない?

 ま、いくらその理由をわたしが考えたところで仕方ないんだけどさ。

 とりあえず確実なのは、わたしはせんぱいに「死にたい」って言ったことはないっていうこと。だからあなたとのゲームには負けてない。罰ゲームは受けないよ。

 そうだ、せっかくゲームの話になったことだし、思い出話でもしてみようか。


 ──昼休みの屋上。いつもはお弁当を食べる生徒でにぎわっているのに、その日は誰もいなかった。理由は単純、その日は初めての猛暑日だった。

 わたしとあなたは、階段に通じる扉の前に座り込んでいた。そこだけ日陰で、涼しくはないけど耐えられるくらいの暑さだった。

 あなたと二人きりでお弁当を食べるのは初めてだったと思う。いつもはもっと別の同級生がいて、わいわい食べてたよね。でも、その日は誰もクーラーの効いた教室から出てこようとしなかった。

 会話は切れ切れだった。

 あなたは間なんて気にしなそうだけど、わたしはそういうの気にする人間だ。めちゃくちゃ気にする。

 だから、正直言って気まずかったんだよ。

 あと、あなたがちょっと怖くて、うまく話せなかった。今となっては言い訳でしかないんだけどさ。あなたがよくわからなかったんだよ。表情読めないし、なんか独自の世界観持ってそうだし、群れるの好きじゃなさそうだし、なのにいつの間にかグループに溶け込んでるし。

 で、事が起こったのはその切れ目のことだった。

 わたしが突然、「死にたい」って言ってしまった。

 ……そう言うとヤバい女感が凄いけど、自分の中ではちゃんと脈略があったんだ。

 説明するほどでもないんだけどさ、会話の切れ目ごとにわたしは死にたいって思ってたんだよ。で、その死にたいゲージが蓄積した結果口から出てきちゃったっていう、それだけの話。

「死にたい」は口癖のようなもので、それが浮かんでくるのは日常茶飯事だった。でもふだんは頭の中でぐるぐるするだけで、口に出ることはまずない。

 なのにその日は出てしまった。言葉になっちゃったんだ。

 自分でもびっくりした。それでちょっと死にたくなった。

 たぶんあなたはもっとびっくりしただろう。

 驚きとも怒りとも違うあなたの顔を覚えている。わたしの目を見てこう言ったのも。

「死んじゃダメ。絶対に」

 なんだこいつ。最初はそう思った。

 わたしの死にたいなんて、茶化されるくらいがちょうどいい。

 わたしの死にたいが自殺願望じゃないことも、わたしの死にたい事情も全部知らずに「死んじゃダメ」なんて、何様だよって感じだった。無駄な正義感にもほどがあると思った。端的に言ってウザかった。

「……別に死なないよ。死にたいだけ」

 わたしは少しむすっとして言った。

「死なないのに死にたいの」

「そう、死なないのに死にたい」

 自嘲気味だった。そうだよ、わたしの死にたいがどんなに矛盾してるか、わたしが一番良く知ってるんだ。

「変なの」

 あなたはちょっと笑った。

 つられてわたしもちょっと笑う。そして自嘲気味に言った。

「変でしょ?」

「うん」

 あなたはこくりとうなずいた。

「でも死んじゃダメだよ」

「……」

「それと、死にたいってあんまり人に言わない方がいい」

 いや、それは不慮の事故だ。そう説明しようとしたら、

「でも、私には言っていいよ。死にたいなら私に言って」

 さらに変なことを言ってくるので、わたしは開いた口が塞がらなかった。

 ちょっと意味不明だった。

 いや、あなたがズレた人間なことは五年間の中高生活でさんざん噂に聞いていた。それでもだ。こんなに意味不明だとは思わなかった。

 どう反応すればいいかわからなかった。とりあえずわたしは、

「ありが……とう?」

 煮え切らない返事をする。

 あなたは淡々と続けた。

「他の人に、あなたが死にたがりやさんなのバレたらあなたの負け」

「……うん?」

 さらに困惑した。負けってなんだ負けって。

「……罰ゲームでもあるの」

「ある。でも秘密」

 あなたが何を考えているのかわからなかった。

 絶対死を許さない正義の味方なのか、他人に首を突っ込む悪癖があるヤバい人なのか、はたまた何も考えてないのか。

 少なくともわたしが振り回されているのは事実だった。

 しばらく無言の時間が続いた。無言は無言でも気まずくはなかった。

「ねえ、まだ死にたい?」

 あなたは訊く。

「そりゃ、ね」

 わたしは答える。

「死なないけど?」

「うん、死なないけど」

 おうむ返しのようなちぐはぐの会話だった。

 でもそれで満足したらしい。

「そろそろ予鈴だから、弁当、食べよう」

 見せてくれた時計は、十二時四十分を示していた。

「……そりゃやばい。食べまくろう」

 わたしたちは急いで弁当を食べた。

 

 ──懐かしいね。一年前まで高校生だったはずなのに、高校生活が随分遠くなったように思える。

 あの日から、わたしとあなたの関係は変わった。具体的にどこがって言われたら答えにくいんだけどさ。ま、「こうして電話するくらいの関係」ってくらいは言ってもいいんじゃない?

 あなたと一緒にいた時間こそ長くはないけど、あなたのあの言葉はわたしのなかに根付いてる。本当なら意味不明だしガン無視しちゃってもいいんだけど、なぜかないがしろにできないんだ。なんかもう、呪いみたいなもんだよね。

 事実わたしは、以来「死にたい」って思うたびにあなたのことを思い出すようになってしまった。あなたの「死んじゃダメ」っていう強い言葉が反芻されて、つい「死なないよ、ばーか」くらい言ってやりたくなるのだ。

 そうだよ。

 悔しいけどあなたの呪いのおかげで、わたしは自分の「死にたい」に「死なないよ」って答える習慣ができたんだ。それでちょっと心も穏やかになった気がする。



 あの新歓コンパ以降、わたしはせんぱいと仲良くなった。仲良くならざるを得なかった。お互い酔ってたとはいえ、あんな出会い方をして、さらには家にまで連れ込まれたんだから。

 仲良くなるって言っても、高校みたいな仲良くなり方じゃない。せんぱいにひたすら振り回されて、いろんな遊びをしてって感じ。だいたい、せんぱいの誘い方がまずめちゃくちゃなんだよ。

 たとえばある日の講義中。

 突然――背中がつんつんされた。ボールペンで。

 びっくりした。勢いよく振り向いた。

「ね、外行かない?」

 せんぱいだった。満面の笑みの。

 またいつものか。小学生かよ。

「……いま、授業中ですよ」

 つとめて呆れた顔でわたしは返す。

「えー、遊びも授業だよ。単位は来ないけど」

 そう言うと、服の袖を掴んで引っ張ってくる。

 まるで駄々をこねる子どもみたいだと思った。かわいらしさはないけど。

 ……まあ、仕方ないか。

 わたしは今日の出席点を諦めた。

「……はぁ。わかりました。行きますから、とりあえず引っ張るのはやめてください。服、伸びちゃうんで」

 わたしの何が気に入ったのだろうか、せんぱいはそういう感じで、事あるごとに遊びに誘ってきた。とはいえ断る理由もないし、嫌でもなかった。だからわたしはたいてい唯々諾々と付いていくのだった。

 あ、そうそう。シネ研の話を忘れてた。

 最初こそ顔出してたんだけど、せんぱいと仲良くなるにつれて、段々出席頻度は低くなっていっちゃった。あんまり面白い人もいなかったっていうのもあるし、同期の女の子たちと話が合わなかったっていうのもある。それで七月ごろには完全に幽霊部員になったから、会費も払ってないんだ、実は。せんぱいと同じく。

 そういうわけで夏の予定はせんぱいと遊ぶことだけになった。実際、毎日のように遊んだ。

 まずは旅行に行った。せんぱいの車で北海道に。青函フェリーで呑もうとするせんぱいを止めるのが大変だった。ひたすら道路を飛ばして着いたのは東部の草原。植物しかない、なのに目を見張るしかない雄大な大自然の風景が広がっていた。

「……すごい」

 見渡す限りの緑と空の青。

 せんぱいはカッコつけてこんなことを言った。

「世界、案外捨てたもんでもないっしょ?」

 それから映画を見に行った。シネ研らしくミニシアターでも行くのかと思ったら某鬼を殺す隊な感じのアニメ映画だった。これはまあまあ面白かったかな。あ、せんぱいの家で旧作鑑賞会もやった。B級ばっかでシュールだったなあ。

 古着を買いにも行った。下北沢をほぼ制覇する勢いだった。せんぱいの下宿のクローゼットに押し込むのが大変だった。

 ただダベるだけのときもあった。大学近くのマックで、マックシェイクを手にひたすらおしゃべりした。内容は一切覚えてない。でも気付いたら三時間くらい経ってたのは覚えてる。

 楽しいことばかりの夏だった。花火の写真と一緒に「人生最高!」ってストーリーに投稿する陽キャの心情がちょっと理解できちゃうくらい、最高の夏だった。わたしなのに、おかしいよね。

 そうそう、死にたいって思うことも少なくなった。ゼロになったわけじゃないけど、嫌なことを思い出す機会は減ったし、嫌な局面も減った。

 その間、せんぱいに新歓コンパのあの発言について尋ねることはなかった。せんぱいもわたしが望む以上に踏み込んでくることはなかった。それはまるで、わたしたちの出会いが酔った幻覚だったかのようなスルーの仕方だった。

 時間が経つとともに、わたしはあの日の衝撃を忘れつつあった。でもそれはわたしにとって不安が減っていくということでもあった。だからむしろ、都合が良かったのだ。


 夏休みの最終日、わたしたちは歌舞伎町のアパホテルに泊まった。TOHOで映画を見たあと、つるとんたんでのんびりうどんを食べていたら二人とも終電を逃してしまったのだ。

 せんぱいがシャワーを浴びている間、わたしはぼんやり考え事をしていた。

 明日から後期の授業が始まる。夏休みは今日で終わり。そう考えると寂しくて。それに、遊んだ反動でどっと疲れがでてくるような気がした。

 せんぱいに続いてシャワーを浴びた。上がるとせんぱいはレモンのパッケージのロング缶を開けていた。

 手元をうかがう。さりげないネイルが綺麗だった。

「……そういえば、明日から授業ですね」

 せんぱいはレモンのパッケージのロング缶をあおる手を止めた。

「ん……ああ、そうだね。まだ遊び足りないの?」

 だいぶ顔が赤らんでいるように見えた。

「足りないってことはないですけど、ちょっと……寂しい感じがします」

 せんぱいはふっと笑った。優しい表情だった。

「それは満喫した証拠だ」

「そう……なんですかね?」

「そうだよ、きっと」

 おもむろに立ち上がった。

「まあ、寂しいのはわかる。でも、楽しかったっしょ?」

 うんうんとうなずいた。まるで自分に言い聞かせてるみたいだ。

 せんぱいは鞄から財布とスマホを取り出す。机の上に置く。

「あれ、どこか行くんですか?」というわたしの言葉は、しかし届かなかった。

「じゃあ私──」

 せんぱいが言ったからだ。


「今から死んでくるから」


 え、と思った。思うだけで声は出なかった。

 身体が思うように動かない。縛られたように。目線だけが、せんぱいの姿を捉えようと動かされる。

 まず、さっきまで座っていたベッドにせんぱいがいないことに気付いた。

 目線を上げた。ああ、せんぱいは歩いているのか。わかった。でも一体どこへ?

 目線が動いた。いつの間にか窓が開いている。風が吹き込んできて、カーテンがたなびいている。あれ、せんぱい、そこは行き止まりだよ。

 目線が固定された。せんぱいが、窓枠の上にかがんでいる。


 次の瞬間、せんぱいの姿が消えた。


「……え?」

 ようやく声が出たころには、当然だけど、もう遅かった。声が出ると同時に身体が動き出した。ばっと走って、窓から身を乗り出した。

 地面をのぞき込む。

 暗くてよく見えなかった。でも、何かがあるのはわかった。黒い染みのような何か。

 考えるまでもなかった。それは、ついさっきまでせんぱいだったものだ。

 数秒の間、じっとそれを見つめた。

 わたしは吐いた。そして失神した。


***


 ……っ。

 ごめん、ちょっと待ってて。

 ……ふーっ…………はーっ。

 ……うん、もう大丈夫みたい。

 ごめん、ちょっとくらっとしちゃって。貧血だと思う。

 時間もあるし、さっさと続きにいっちゃおっか。

 意外なもんだけど、大学には結構早くから行けるようになった。

 一週間皆勤で大学に行く日もあれば、全く行かない日もあったけど、まあそんなもんだよね。

 気が付いたら講義室の椅子に座っていて、あるいは自室のベッドに沈んでいる日々が続く。

 自分が何をしているのか、それすらわかっていないときもあった。

 しかし、わたしがロボットのように淡々と日々を過ごしていたかというと、そんなことはなかった。むしろぼんやりとした思考のなかで、鈍重な時間の流れにひたすら耐えていた。

 ねえ、知ってる? クリスマスからお正月までの一週間って、すっごく長いんだよ。

 でも救いなのは、わたしが耐えてさえいれば時間は勝手に過ぎ去ってくれることだった。

 もちろん、あいかわらずわたしは死にたかった。

 それどころかあの日以降、わたしは無意識に「死にたい」と口にすることが増えた。たとえば通学の電車内や大学の講義中、あるいは食事中に。

 当然周りから白い目で見られる。でも一瞬不審な目を向けられたあとは、目をそらされるだけで実害はなかった。

 ただ問題なのは、「死にたい」という文字列を口にしたり、あるいは頭の中に思い浮かべただけで、吐き気を催す体質になってしまったこと。せんぱいとの日々と、あの日のあの物体とが、同じく呪いのようにわたしに存在していた。

 そのまま吐くときもあったし、こらえられるときもあった。

 場数をつんでいくと、吐き気の制御にはだいぶ慣れた。少なくとも人前で吐くことは少なくなった。

 やがて春休みになった。安定した天気のおかげもあって、わたしのメンタルは小康状態を保つようになった。たまに笑えるようになったし、映画も少しずつ見れるようになった。せんぱいの幻影がわたしから消えることはなくても、その幻影とともに生きていくことはできるんじゃないかって、そういう風に思っていた。


 そんな感じで、今日に至ると。

 今日何が起きたか、まだ詳しくは言ってなかったかな。今から説明するね。

 嬉しいお知らせと悲しいお知らせが一つずつ。

 まず嬉しい方。

 彼氏できた。同じ学科の子。「ノート貸して」って話しかけられて、そこから何回か遊んでさ。

 で、今日、夜ご飯を食べないかって誘われたんだ。

 その帰り際に……ね。

 あ、彼はせんぱいのことは知らないよ。もちろん、わたしが死にたがりなことも。

 訳アリなのを知ってか知らずか、彼はわたしに踏み込んでは来ない。彼は他愛もない会話だけで満足してくれる。そう、理解のある彼くんなんだよ。なんか悪くないなって思って、OKした。

 ……で、悲しいお知らせの方。

 話は数十分前にさかのぼる。

 メルカリで服買ったんだけどさ、段ボールを開けようとしてカッターを使ったのね。部屋になかったから、渋谷のハンズで買ってきてさ。 

 段ボール箱の切れ目に刃を当てて、じーっと。思ったより切れ味は良くて、力を入れずに切れた。

 ね、そこまでは良かったんだよ。普通でしょ?

 でもさ、そんなカッターを見つめていると、わたしの頭に一つの考えが浮かんじゃったんだ。

 ほら、一部の女の子ってさ、カッター好きじゃん。

 ……通販マニアって意味じゃなくて、手首を切る用ってこと。リスカだよリスカ。

 自慢じゃないけど、わたしはこれまでリスカしたことはなかった。死にたがりやだし、メンヘラの端くれって自覚はあるけど、別にリスカしようなんて思ったこともなかった。痛そうだし、長袖しか着れなくなるし。

 でもさ、そのときなぜか、これを手首に当ててみたらどうなるんだろうって思っちゃったんだ。

 そういうことってあるよね。こっから飛び降りてみたらどうなるんだろうとか、葬式で大声で叫んでみたらどうなるんだろう、みたいな。

 そういう考えはふつうは実行されない。一過性の妄想として処理されるものだ。

 だからそのときのわたしも、ちょっとカッターを手首に近づけて、しゅっってやるマネをして満足するつもりだったのだ。右手にカッターを持って、左手の手首に近づけた。

 でもね、そのとき──スマホが鳴ったんだ。それはもう大きな音で。

 身体がびくっとした。鳥肌が立って、全身に電流がビリビリ流されたみたいな感じだった。

 で、気付いたら──カッターが手首にぱっくりいってて。

 まず、驚きにも悲鳴にも似た声が出た。

 血管に対して平行に、赤い線が一本引かれていた。そこからつーっと、細い糸のように血が漏れ出ている。

 スマホが相変わらず鳴り響いていて、わたしは混乱した。まず何をすればいいのかわかんなかったんだ。

 その結果、まずわたしはカッターを置いて、スマホを手に取った。その瞬間に着信が止まった。

 通知画面を見ると、例の彼氏からの電話だった。

 すぐにメッセージが来る。


「今日はありがと! 楽しかったね👍👍」

「じゃあ、これからよろしくってことで!」

「てかもう声聞きたくなっちゃった笑笑」

「時間あったら電話して~」


 なんか笑えた。

 わたし今めっちゃ血出てるんだけど。電話とか出れるわけないじゃん。出れるのは電話じゃなくて血だって。何するにもまず血止めてからじゃなきゃ。

 そこではっと気付いた。

 血、止めなきゃ。

 初めは細い線みたいだった血液は、傷口が広がるにつれて太くなっていた。服も床も血まみれになっていた。素人目でも明らかにヤバい状態だった。

 わたしはとりあえず『リスカ 死ぬ』でググってみた。

 ……あ、リスカって死ねるんだ。


 頭が真っ白になった。


 血が流れ出る。

 マジかあ。しかも死ぬまでめちゃくちゃ時間かかるらしい。どうしようかなあ。こういうとき、まずは救急車を呼ぶもんだよね。緑色のアイコンを開いて、1、1、9……あれ、押せない。あ、手、震えてる。

 血が流れ出る。

 止まってよ、わたしの手。もう一回。あ、うまくいった。耳元にスマホを持ってく。……誰も出ない。おかしいな。不思議だな。番号合ってるよね?  

 血が流れ出る。

 あ、そうか。コロナか、コロナが悪いんか。そういえばYouTubeで見た。いまの東京、医療崩壊してるって。うわー、あれ伏線だったのかー、やべー。とりあえず赤いボタンをタップして電話を切る。

 血が流れ出る。

 どうしよう。ここで死ぬのかな。……死にたくないなあ。なんでこんなミスしちゃうんだろ。……死にたいなあ。うーん、どうしようかな? …………あ、そうだ。

 血が流れ出る。

 あなたに電話しよう。唐突かな? 迷惑かな? でもあなたなら聞いてくれるはず。そういう人だし。ていうか多分、あなた以外にこの状況で電話できる人なんていない。

 かける。

 つながる。

 血が流れ出る。

「まず、せんぱいとのファースト・コンタクトの話を――」

 ……ねえ、ここまで何分かかったかな? 血が流れ出る。電話代大丈夫かな。あれって、かけた方にかかるんだっけ、かけられた方にかかるんだっけ。忘れちゃった。血が流れ出る。もしあなたに高額請求いったらごめんね。そのときはわたしの遺産、使ってね。血が流れ出る。赤い財布に入ってるのが全財産なんだけどさ。ベッドの上に置いてあるから。今さ、部屋、びしょびしょなんだ。血が流れ出る。赤い血で。人間ってこんなに血あったんだね。ちょっとびっくり。血が流れ出る。でもね、わたしわかるよ。死ぬのはまだ先だって。傷口は痛くて痛くてしょうがないし、どんどん出てくる血は怖いけど、まだ死ねない。血が流れ出る。もう助からないけどまだ死ねない。ねえ、血が流れ出る。つらいよ。本当につらい。鬱って感じじゃなくて、純粋につらいの。血が流れ出る。だから電話を切らないで。血が流れ出る。切るって、リスカじゃないけどさ、ははは。血が流れ出る。死にたくないよ、そりゃ。血が流れ出る。でも自分のせいでこうなってるから死にたくもある。血が流れ出る。……ごめんね、こんな電話かけて。血が流れ出る。あなたには感謝してるんだ。血が流れ出る。あなたの呪いのおかげで、ちょっと生きやすくなったもん。血が流れ出る。死んじゃダメって言ってくれる人がわたしにもいるんだって、そう思えたんだ。血が流れ出る。でもさ、いまのこの状況じゃあなたの呪いも効かないみたい。ごめんね。血が流れ出る。わたしが悪いんだ。だから落ち込まないでね。ねえ、ほんとなんなんだろうね、わたしって。めんどくさいよね、迷惑だよね、死んだ方が良いよね。血が流れ出る。でもあなたは絶対死んじゃダメって言う人だから、やっぱり死なない方がいいよね。血が流れ出る。ごめんね。わたしはあなたにしか死にたいって言わない。だからもちろん、あなたにしか死にたくないって言わない。血が流れ出る。死にたくない。血が流れ出る。死にたくない。血が流れ出る。死にたくない。血が流れ出る。だからわたしの話もせんぱいの話も、わたしはあなたにしかしないよ……。


 ねえ、どうしてこうなっちゃったんだろうね。




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死にたがりは死んでも治らない 梁川航 @liangchuan

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