ある一つの旅立ち
―――
それから半年程経った永禄2年(1559年)2月。
信長の側室として
一方蝶子にも話は伝わってきていて、奇妙丸の世話に追われつつも何処か複雑な気持ちで日々を送っていた。
「男ってそんなに簡単に気持ちを切り替えられるもんなのね。自分で言うのも何だけど、私の事好きだって言ったくせにすぐ他の人のところに行っちゃうなんてさ。」
「帰蝶様。それは嫉妬というのでは?」
「なっ……何言ってるんですか、市さん!止めてくださいよ……」
市の一言に顔を真っ赤にして俯く蝶子だった。
「それはそうと、市さんが子どもが好きで良かったですよ。勢いで預かる事にしたけど、やっぱり不安だったし。毎日のように来てくれて本当に助かってます。ねぇ?きーちゃん。」
「いちさま、あそぼう!ははうえもあそぼう!!」
「はいはい。」
三歳になった奇妙丸は言葉もだいぶ話せるようになり、動きも活発になってきていた。
乳母もついているとはいえやはり子育てについて自信がなかった蝶子だったが、市が子ども好きでしかもあやし方が上手かったので来れる時に来てもらってこうして遊んでもらっていたのだった。
「でも帰蝶様も初めの頃よりは随分慣れてきたのではないですか?今じゃおむつを変えるのも寝かしつけるのもお上手になられましたよ。」
「そうかな。だけどホント最初の頃は大変だったなぁ~……全然寝ないし何で泣いてるのかわからなかったし。」
「誰でも初めはそうだと思いますよ。わたしもただ好きなだけでは育てるという事は出来ないのだと思い知りました。だけど色々と学ぶ事が出来て良かったと思います。帰蝶様も母親として立派になられましたので、これでわたしも安心出来るというものです。」
「え?どういう事ですか?」
「わたしにも縁談がきているのです。そうですね、半月後には先方に向かう事になると思います。」
「!!それって……光秀さん、ではないという事ですか?」
「はい、違います。北近江の
「……ちょっと信長に文句言ってくる!今どこにいるか教えて下さい!」
「き、帰蝶様!落ち着いて下さい!」
家の為に市が差し出されるという事実に蝶子が堪らず立ち上がる。市が慌ててそれを止めた。
「だって、だって……それじゃまるで生贄みたいじゃない。市さんは光秀さんが好きなのにどうして……」
「わたしの為に帰蝶様が涙を流す必要はないのですよ。いつかはお兄様の為にこの身を捧げようと思って生きてきました。織田の家に生まれてきたからには、この織田弾正忠家を守る為に役に立つ人間でなければならない。わたし個人の身勝手な想いを遂げるなど、到底許されません。」
「そんな……」
(だって本当は光秀さんも市さんの事が気になってるって、前に蘭が言ってたのに……)
以前蘭にそう聞いていたのを思い出すが、今この場でそれを言える雰囲気ではなかった。
「それに光秀にも縁談がきています。それを聞いてわたしも覚悟を決めました。わたしはこれから浅井の人間として務めを果たします。……帰蝶様。これまで大変お世話になりました。貴女と蘭丸と出会って、これまで知らなかった世界を見る事が出来ましたし、とても楽しかったですわ。」
「市さん……」
市は深々と頭を下げ、そしてゆっくりと顔を上げる。その時の微笑みは初めて会った時に見せた、自信に満ち溢れている顔だった。
「ただ一つ謝らないといけない事があります。」
「何ですか?」
「わたしがいなくなると未来のお父様とイチさんに連絡する事が出来なくなります。お兄様はこの事があるのでわたしを婚期が遅れてもここに置いてくれていたのでしょうけど、そうのんびりもしていられなくなったという事でしょうね。」
「そんな事、気にしてくれていたんですね。もうタイムマシンも全部揃っているし、父さんのアドバイスがなくてもきっと完成出来るはず……ううん、必ず完成させて見せます!だから、だから……」
蝶子の目から大粒の涙が流れ出る。無意識に両手が市の手を掴んでいた。まるで離さないとでも言うように。
「時々文を書きます。帰蝶様も書いて下さいね。」
「うん……」
「ほら、奇妙丸が不思議な顔で見ていますよ。早く笑顔を見せてあげないと。」
「……はい!」
いつの間にか側に来ていた奇妙丸がどうしたのかと蝶子の顔を覗き込んでいた。市の言葉を受けた蝶子は涙を拭くと笑顔で頷いた。そして奇妙丸を抱っこする。
「こちらこそ今までありがとうございました。市様。」
―――
半月後、市が北近江に向けて出発する日がきた。
その日は冬だというのに気温が高く雪も降っていない為、長い道中でもそれほど支障がない様子であった。
「市様。」
籠に入る準備をしていた市の元に光秀が近づいてきた。
「まぁ、光秀。見送りに来て下さったのね。」
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ。そしてどうか……」
「光秀。」
「……はい。」
光秀の言葉を遮った市はにっこり笑うと言った。
「貴方もやっと所帯を持つ事が出来ましたね。お兄様の為に、そして貴方自身の為にその方を大事にするのですよ。」
「わかっております。でも私は……!」
「これまで良く仕えてくれました。感謝申し上げます。」
またしても光秀を遮った市は軽く頭を下げると、そのまま籠に乗り込んだ。
「市様……」
「さて、出発するか。皆の者、市を頼んだぞ。」
「はい!」
いつの間に来たのか信長がそう渇を入れると、籠持ちや警護の家来達が大声で返事をした。そして積もった雪に乱れた足跡を残して城から出て行った。
市は籠に入ってから一度もこちらを見る事はなかった。
「ホントに行っちゃったんだね……」
「あぁ……」
遠巻きに見ていた蝶子と蘭は小さな声でそう言った。
大切なものを奪われた悲しみと何もしてあげる事が出来なかったやるせなさが蝶子の胸を締めつける。
そしてそんな蝶子をただ見ている事しか出来ない蘭も、自分の非力さを悔やんでいた。
―――
永禄2年(1559年)、市が北近江の
市、24歳。長政は元服したばかりの15歳という、年の差婚であった。
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