それぞれの胸の内


―――


 信長と蘭が伊勢守家と戦をする為に城を出立した翌日、蝶子は自分の部屋に市とねねを呼んだ。


「そろそろ向こうに着いた頃かしら。」

「そうですね。それにしても帰蝶様、今回はお見送りしなくて良かったのでございますか?蘭丸は寂しく思ったのでは……」

「いいんですよ。顔見ると色々考えちゃいそうだし、会わない方が逆に楽だもん。それにあいつの事は一応信用してるから。今回もきっと蘭を連れて帰ってくるって。」

「まぁ、それを聞いたらお兄様喜びますわ。」

「ちょっ……ちょっと!言わないで下さいよ、市さん。」

「大丈夫ですよ。ふふふ。」

「帰蝶様は信長様の事をわかっているのですね。羨ましいです。」

「ねねちゃん、どうしたの?元気ないのね。」

 部屋に来てからずっと黙ったままだったねねが落ち込んだ様子で口を開いたので、それに気づいた蝶子はねねの表情を窺った。


「えぇ、実は……旦那様に側室を迎えるという話がきて、旦那様はそれを受け入れるそうなのです。」

「側室?」

「正室以外の妻の事です。帰蝶様。」

「え!?それって愛人って事?何でそんな事になるの?」

「信長様は旦那様に早く子を授かって欲しいと思っているのですが、私はまだ未熟で中々子が出来ません。それを憂いた信長様は他の方に、と……」

「側室に産ませるって事?酷いじゃない!こっちの都合でねねちゃんを15才で結婚させたくせに、子どもが産めないからってそんな……」

「いえ、いいのです。側室を迎えて少しでも子を多く残す事はこの世の中で必要な事ですし、私も理解しております。」

「わたしの父上にも母上以外に何人も側室がおりました。それでも父上は正室である母上を一番大切にしていたと、そう思う事で納得しています。」

「市さんまで……」

 二人からそう言われ、蝶子は思わず泣きそうになった。


(どうしてこの世は女が我慢しないといけないのよ!)

 そう叫びたくなるのをグッと堪える。


「それでねねさんは何を気に病んでいるのですか?」

「はい。さっきも言いました通り、側室を迎える事は納得しています。でも旦那様が私に相談もなく決めてしまわれたのが少し…悲しくて……」

「ねねちゃん……」

「木下家の後継ぎに関わる事ですから一言欲しかったのですが、光秀さんから聞いたところ、旦那様はその場ですぐに返事をなさったそうです。それを聞いて私……旦那様の事、わからなくなって。でもそう思ってしまった事が申し訳なくて……」

「そんな……そんな事思うのは当然じゃない!だってねねちゃんは秀吉の事、好きなんだもん。そうでしょう?」

「…はい。でも私はっ……」

「諦めちゃうの?それでいいの?」

「正室は私だけ。あの人の一番は私。そう思うしかないのではないかと思っております。ですがやはり胸が痛みますが。帰蝶様と信長様は仲が宜しくて、本当に羨ましいです。」

「別に私達はそんな……」

 本当の夫婦だと思われている手前、蝶子はそれ以上何も言えなくなった。


 しかしこの時代の夫婦の実情や女性の苦しみを目の当たりにして、蝶子は複雑な気持ちになった。


(じゃあ好きな人の側にいられている私って本当は幸せなのかな……)

 蝶子は蘭の顔を思い浮かべながらそっと目を閉じた。



―――


 その頃、信長軍は浮野という地で敵軍と鉢合わせ、そこで戦が始まった。


「はぁ~…可成さっ……じゃなくて父上って本当に凄いんだ……」

 蘭は草むらに隠れながら、父親代わりの森可成の戦いぶりにため息を吐く。

 以前前田利家に可成は強いと聞いていたが、想像以上の迫力にビビっていた。


「どうした。ため息など吐いて。」

「あ、信長様!いいんですか?こんなところに来て。」

 突然信長が草をかき分けて入ってきたので驚きながらそう言うと、信長は苦笑して地面に腰を下ろした。


「可成や勝家に任せておけば大丈夫だ。伊勢守家の勢力は思った程強くないようだからな。数だけはあるが見かけ倒しという訳だ。俺の出る幕はない。」

「そうなんですか。それにしても父上って凄いんですね。いつもの優しい姿しか知らなかったから、印象が変わっちゃいました。」

「そうでなければあいつを側に置かん。あいつは人望があって下の者をよく纏めてくれているからな。それに見ての通り、戦い方を知っている。いざ剣を持つと残酷非道になれるところが俺は気に入っているのだ。」

 信長はそう言うと、近くにいるであろう可成に視線を送った。


「なぁ、蘭丸。」

「何ですか?」

「お前には心に決めた女がいるか?」

「へっ!?」

 突然の言葉に蘭は悲鳴のような声を上げた。

「な、何ですか?急に……別にいませんよ。好きな人なんて……」

「そうか。帰蝶の事はどのように思っている?幼馴染というだけの関係なのか?」

「え……蝶子ですか?と、とんでもない!あいつの事は何とも思ってないですよ。」

「そうか……」

「えっと、信長様……?」

 いつもと違う信長を不思議に思いながら様子を窺うと、パッと顔を上げて立ち上がった。


「わっ!」

「勝敗が決まったようだ。蘭丸、行くぞ。」

「え?あ、はい!」

 信長に続いて草むらから出ると本当に決着がついていた。可成や勝家、そして他の面々が軽い怪我はしているものの無事な様子を見て、蘭はホッと胸を撫で下ろした。


「よし、戻るぞ。これで帰蝶に煩く言われずに済む。」

「……そうですね。」

 何事もなかったように意地悪な笑みを見せてくる信長に、蘭は若干ひきつった顔を向けた。


(何だろう……信長は何を言いたかったんだろう。俺と蝶子の関係?そんなのただの幼馴染……だよな?)


 帰り道、蘭の心中は穏やかではなかった。



―――


 1558年(永禄元年)、信長は2,000の軍勢を率い出立し、浮野の地において3,000の軍勢を率いる伊勢守家の軍と交戦した。

 激戦が繰り広げられたが信長軍が圧倒的な強さでこれに勝利し、信長の尾張統一に向けて幸先の良い戦となった。



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