第73話 名無しの前久
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騒動が落ち着いてから上洛した信長は妙覚寺に信行を呼んで経緯を説明させた。
「近衛前久も馬鹿な真似をしたものだ」
「最初は身内に懇願されて仕方なく動いたようですが、武田義統や和田惟政に吹き込まれて勢いが付いたようです」
「その結果が官位剥奪と願正寺に押し込めか」
「兄上、願正寺に押し込めではありませんよ。願正寺で一から精神を鍛え直すと言って頂かないと」
「悪かった。しかし鍛え直せるのか?」
「無理な場合は寺の下男で一生を終える事になりますね」
「寺の下男で済めば良いがな」
「どうなるかは本人次第でしょうね」
信長が上洛する直前に正親町天皇の勅命で官位の再編が行われた。関白は廃止となり、元々空席だった太政大臣は空席のままで名誉職に棚上げされた。
近衛前久失脚直後に関白と太政大臣の地位を巡り摂関家で揉めた事が天皇の耳に入り、摂関家が大臣家に吸収されると事件も発生した。
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【再編後の官位】
西園寺公朝→正二位・左大臣
花山院家輔→正二位・右大臣
北畠晴具→従二位・内大臣
織田信長→正三位・大納言(昇格)
北畠具房→正四位下・参議(昇格)
織田信行→正四位下・治部卿(昇格)
*****
「俺はしばらく都に腰を据える事になる。美濃と尾張の面倒を見てもらうかもしれん」
「東は北条や武田が仕掛けてこない限り動きませんので折を見て美濃と尾張に顔を出すように致します」
「頼むぞ」
幕府が消滅した事で信長は新しい統治機構を確立する必要に迫られたので美濃を家老の丹羽長秀に任せて上洛した。帰蝶と子供を伴っているので長期間滞在する可能性が高い事を示唆していた。
「兄上も都に居る間は無茶はしない方が良いですよ」
「どういう意味だ?」
「義姉上と於市が居ますからね。何かあれば駿河の母上に告げ口されますよ」
「普段から俺が何かをやらかしてる言い方だな」
「現にやってるじゃないですか。母上に小言を言われる身にもなって下さいよ」
「出来るだけ善処する」
信長は過去に色々やらかしている事を思い出して気不味くなった。
*****
信行は後始末を北畠具房に任せると近衛前久が入った囚人籠と共に東へ向かった。
「麿をどこへ連れて行くのじゃ?」
「寺です」
「どこの寺なのじゃ?」
「答える義務はありません」
「麿は近衛前久であるぞ」
「だから何なのです?」
「何じゃと?」
「貴殿は近衛家から縁を切られた名無しの前久なんですよ」
「麿が近衛家から縁を切られた?初耳じゃ!」
「それは我々の預かり知らぬ事なので」
信行は周囲を警戒する兵士に前久が何を言っても一切相手にしないようにと指示を出した。
*****
「治部卿様、お久しぶりですな」
「図書頭様もお変わりなく安心しました」
「性根を叩き直してほしい者を預けたいとありましたが」
「籠に入っておりますが」
「罪人ですかな?」
「そんなところです」
信行は連れて来た者の素性を説明した。証恵は驚く事なく最後まで話を聞いた。
「面白い者が来ましたな」
「そう言って頂けると幸いです」
「逃げ出そうとしたり問題を起こした場合は?」
「願正寺の掟に沿って処罰して頂いて構いません。周囲に悪影響を及ぼす場合は…」
「承知致しました。この事は頼旦にも伝えておきましょう」
「責は私が全て負いますので遠慮なく」
前久が手に負えなくなった時は始末して構わないと願正寺にお墨付きを出した。死人に口無しなので理由は後付けで何とでもなると信行は腹を括っていた。
「図書頭殿、こちらをお収め下さい。北畠家と織田家からになります」
「過分な配慮を頂きまして感謝の念しかありません」
挨拶と寄進を済ませた信行は境内に戻って下間頼旦を探していると囚人籠の近くに居る僧兵の中にその姿を確認した。
「図書助殿、お久しぶりです」
「これは治部卿様、お待ちしておりました」
「この度はご迷惑をお掛けします」
「この男が?」
「はい。元公卿です」
「麿は近衛前久ぞ」
「だから何なのだ?」
「何じゃと!」
「お前は都を混乱に陥れようとした大罪人だ。死罪にならなかっただけ幸運だと思え」
「ひぃ」
頼旦から殺気を感じた前久は蛇に睨まれた蛙のように静かになった。
「今日から徹底的に鍛え直してやる。先ずはその頭を僧侶に相応しい形にしてやろう」
「麿は坊主になりとうない」
「この男を宿坊に連れて行って剃髪してやれ」
「承知」
「暴れるようなら少々痛い目に遭わせて構わん」
「前久殿、精々修行に励んで下さい。寺が手に負えなければ消えて頂く事だけは覚えておいて下さい」
「麿は殺されるのか…?」
「それは貴殿の振る舞い次第でしょうね」
「麿は殺されたくない、殺されたくないのじゃ!」
「静かにしろ!」
騒ぎ立てる前久は僧侶に抑え込まれると猿轡を噛まされて宿坊に連れて行かれた。その姿を見た信行は願正寺に迷惑料として個人的に別途寄進する事を決めた。
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