第11話 お膳立て

「あたしまだ、下の名前で呼ばれたことないんですけどー」


 話の流れを無視した夏凛の言葉に、言われてみればそのとおりだと思った史季は「あ……」と声を漏らしてしまう。

 おまけに、夏凛たちに比べたら付き合いなど無いに等しいアリスのことを、自分は下の名前で呼んでいる。

 そこに思い至った瞬間、なぜか無性に「このままではまずい」と焦った史季は、頼まれてもいないのに言い訳をしてしまう。


「ア、アリスちゃんのことを下の名前で呼んでいるのは、そうしないとあの子がろくに話を聞いてくれないからで……」

「斑鳩先輩は普通に五所川原って呼んで、普通に話してたんですけどー」

「そ、それはアリスちゃんが斑鳩先輩のことが好きだからであ――」

「あたし、史季と二人でショッピングなんて行ったことないんですけどー」


 怒濤の敬語責めに、史季はいよいよ口ごもってしまう。


(そういえば……)


 初めて川藤を相手にケンカをしたあの日も、当時は〝女帝〟にビビり倒していた自分に対し、夏凛が「さすがに傷つくんですけどー」と、彼女らしくもない敬語で抗議をしてきたことをうすぼんやりと思い出す。

 思い出したからこそ、その言葉どおりに夏凛のことを傷つけてしまったのではないかと思った史季は、ますます焦りながらも夏凛に謝った。


「ご、ごめん小日向さん! その……色々と配慮が足りなくて……」

「別に、謝ってほしいわけじゃねーし」


 敬語はやめてくれたものの、夏凛は唇を尖らせながら不機嫌そうに返す。

 いよいよどうすればいいのかわからなくなって途方に暮れる史季に、千秋が助け船と呼べるかどうか微妙な船を出してくる。


「こりゃ年貢の納め時ってやつだな、折節」

「ね、年貢の納め時?」


 問い返す史季に、千秋はニッカリと笑って返した。


「夏凛のこと、下の名前で呼んでやれって話だよ」

「べ、別に呼んでくれって頼んでるわけじゃねーし……」


 などと、先程と同じような言い回しで夏凛は否定しているが、物言いがやけに弱々しい上に露骨にそっぽを向いている時点で、言葉ほど否定するつもりはないのは史季の目から見ても明らかだった。


「あっ! だったら、わた――ん~~~~っ!」


 春乃が突然手を上げて何か言おうとするも、いつの間にやら背後に忍び寄っていた冬華が、両手で彼女の口を塞いだ。


「あら、ダメよ~はるのん。虫が飛んできてるのに、そんなに大きくお口を開けちゃ~」


 どことなく物言いが棒読みっぽく聞こえることに、史季が小首を傾げていると、


「で、どうなんだ折節? 夏凛のこと名前で呼ぶのか? それとも、下の名前で呼ぶのはアリスだけにすんのか?」


 あからさまにズルい言い回しで、千秋が訊ねてくる。

 彼女の頬に意地の悪い笑みが浮かんでいるところを見るに、今の問いを聞いた夏凛が、チラッチラッとこちらを見てくることを見越した上で訊ねてきているのは明白だった。

 だったから、本当にズルいとしか言いようがなかった。


 期待と不安が入り混じった夏凛の視線。


 さっさと腹ぁくくりやがれと、口以上にものを言っている千秋の視線。


 依然として春乃の口を塞ぎながらも、ここが男の見せ所よ~と言いたげな冬華の視線。


 なんか面白いことが起きていると思っていそうな、ワクワクキラキラした春乃の視線。


 四つの視線に晒され、進退窮まった史季は、本当に千秋の言うとおり年貢の納め時かもしれないと思いながらも、勇気を振り絞って、下の名前で夏凛を呼んだ。


「夏凛……さん……」


 束の間、沈黙が下りる。


「下の名前で呼んでんのに〝さん〟付けは、さすがによそよそしいっつーの」


 夏凛は半顔だけ振り返らせ、不服そうに注文をつける。


「じゃ、じゃあ……夏凛……ちゃん……」

「〝ちゃん〟はガラじゃねー」


 いや、斑鳩先輩と服部先輩には普通に〝ちゃん〟付けで呼ぶことを許してたよね!?――と抗議しそうになるも、二人とも年上でなおかつ夏凛のことを名字で呼んでいたことを思い出し、やむなく呑み込む。


「じゃ、じゃあ……」


 と、先程と同じ前置きを入れるも、夏凛を下の名前で呼び捨てにすることに対する、恐れ多さやら気恥ずかしさやらが半端なかったせいで、無駄に長い沈黙を挟んでしまう。


 そして、



「…………夏凛…………」



 勇気もろとも声を振り絞り、彼女の名前を呼ぶ。

 千秋と冬華がニンマリと笑い、春乃が羨ましそうな顔をする中、夏凛は再びそっぽを向き、ぶっきらぼうに言った。


「それでいいんだよ、それで」


 彼女はそれこそ初めから「夏凛」って呼んでいいと言っていたので、下の名前で呼び捨てにしたところで何の問題もないことはわかりきっていたが、それでも、言葉にして許してもらえたことには安堵を抱かずにはいられない史季だった。

 そんな感じで一杯一杯になっているからこそ、史季は、夏凛がそっぽを向いている理由に気づけなかった。

 

 夏凛の頬は、今にも緩みそうなくらいにひくついていた。

 色合いにしても、ほんのわずかに朱が差し込んでいた。

 千秋や冬華が今の彼女の顔を真っ正面から見たら、一発で全てを察することができる程度にはわかりやすい表情をしていた。


 もっとも、当の夏凛はその辺りの自覚は全くないらしく、自分の内側から湧き上がっているよくわからない感情を誤魔化すように、振り返りながら千秋たちに言う。


「つーか、この際だからおまえらも下の名前で呼んでもらえよ」


 その言葉に対し、千秋と冬華は顔を見合わせてニンマリと笑うと、


「いや、別にウチはそのままでいいぞ。そもそも、ウチはウチで折節のこと折節って呼んでるしな」

「ワタシも今さら呼び方変えられてもね~って感じだから、そのままでいいわ~」


 二人なら乗ってくれると思い込んでいたのか、夏凛が思わずといった風情で「なっ!?」と驚愕を吐き出す。


「な、なら、春乃はどうなんだよ!?」

「もがががもんががんっももんがももんもが」


 縋るような響きが混じった夏凛の問いに、春乃は即答するも、いまだに冬華に口を塞がれていたため、何を言っているのかさっぱりわからない有り様になっていた。


「いや、いつまで春乃の口塞いでんだよ」


 ごもっともすぎる夏凛のツッコみに、冬華は再び千秋と顔を見合わせる。

 千秋が肩をすくめて返すと、冬華はようやく春乃の口から両手を離した。


 途端、春乃は今の今まで口を塞がれていたとは思えないほど元気に――いつもどおりとも言う――答える。


「わたしもアリスちゃんと同じように、春乃ちゃんって呼んでほしいです!」


 グッと拳を握り締めながら要求する後輩を見て、千秋が「まぁ、これくらいが落としどころか」と言いたげに、三度みたび冬華と顔を見合わせていたことはさておき。


「わかったよ……は、春乃ちゃん……」

「はい! 春乃ちゃんです!」


 いちいちぎこちなくなる史季と、いちいち元気いっぱいな春乃に、さしもの夏凛も苦笑を隠せない様子だった。

 そんな三人をよそに、千秋と冬華は再び小声で密談する。


「春乃のやつ、『アリスちゃんと同じように』ってのが夏凛にも言えるってこと、わかってて言ってんじゃねぇよな?」

「はるのんだもの。わかってるわけないじゃない。ま~、わかってないという意味では、りんりんもしーくんも同じだけど。それより、ちーちゃん……」

。つうわけだから、


 千秋はあくどい笑みを浮かべながら冬華の傍を離れると、すぐにその笑みを消して史季に歩み寄る。


「そういや折節、今着てるのがアリスに選んでもらった物ってこたぁ、がもともと着てた物になるってわけか」


 言いながら、史季が手に提げている紙袋を指でさす。


「うん。アリスちゃんに動きやすい格好で来いって言われたからジャージで来たんだけど……その……クソダサいって言われて……」

「クソダサいって、そりゃまた随分な言われようだな。ちょいとどんなもんか見てもいいか?」

「あっ! わたしも見てみたいです!」

「まー、あたしもどんなんかは興味あるな」


 春乃と夏凛も話に乗ってきて「NO」とは言えなくなった史季は、諦め混じりに手提げ紐を左右に拡げ、紙袋に入っているクソダサジャージを皆に見せた。


「知ってます! これって芋ジャージって言うんですよね!」


 悪気の欠片もない言葉のナイフが、史季の心を無邪気に切り裂く。


「いやー……まー……クソダサいってほどではねーと思う……うん……」


 気を遣わせてしまったことが、かえって居たたまれない気持ちになってしまう。


「冬華、オマエなら芋ジャージコイツに何点つける?」

「う~ん……赤点は免れないわね~」


 いつの間にやら、紙袋からクソダサジャージの上着を取り出して拡げてみせている千秋と、遠慮がちに忖度の欠片もない採点を下す冬華の容赦のなさが、史季の心を抉る。


 いよいよ項垂れる史季をよそに、千秋はクソダサジャージの上着を紙袋に戻すと、


「つうわけだから夏凛、今度はオマエが折節のために、イカしたジャージを選んでやれ」



「「え?」」



 まさかの提案に、史季と夏凛の声が綺麗に重なった。


「な、なんでそうなるんだよ!?」


 史季よりも先に千秋の言葉の意味を理解した夏凛が、すぐさま抗議するも、


「いや、オマエさっき折節に向かって『あたし、史季と二人でショッピングなんて行ったことないんですけどー』とか言ってたじゃねぇか」



「「……あ」」



 千秋の指摘に、またしても史季と夏凛の声が綺麗に重なった。

 今度は、微妙な沈黙を挟んだにもかかわらず。


「ちょちょちょちょっと待って月池さん!」

「それってつまり、あたしら二人だけで行ってこいってことか!?」


 泡を食ったような有り様の二人に対し、千秋はすっとぼけた顔をしながら、二人を一発で黙らせる言葉を返す。


「なんだオマエら? 二人でショッピングするの嫌なのか?」


 これには史季も夏凛も、揃って押し黙ってしまう。

 ここで嫌だと答えることは、目の前にいる相手と二人でショッピングをすることが嫌だと答えるのと同義。


 史季にしても夏凛にしても、そんな相手を傷つけることがわかりきっている答えを返すなんて真似はできない。

 そこまで読み切った上での、なんとも意地の悪い言葉だった。


「返事がねぇってことは決まりだな」

「そ~ゆ~わけだから、はるのんはワタシたちと一緒に行きましょうね~」

「え、ええっ!? なんでですか!?」


 状況についていけていない春乃が、いつもどおり素直に疑問を口にするも、冬華が何やらゴニョゴニョと耳打ちすると、


「わかりました! がんばってくださいね! 夏凛先輩! 史季先輩!」


 目をキラキラと輝かせながらビシっと親指を立てて、史季と夏凛に向かって応援エールを送った。


「んじゃ、ウチらはカラオケにでも行くとしようぜ」

「「は~い」」


 冬華と春乃の聞き分けの良い返事を最後に、千秋たちは二人の前から立ち去っていく。

 史季にしろ夏凛にしろ、冬華に耳打ちされる前の春乃以上に状況についていけていなかったため、遠ざかっていく三人の背中をただ黙って見送ることしかできなかった。


 もっとも、三人のことを黙って見送ってしまった理由はそれだけではなく。


 史季にしろ夏凛にしろ、目の前の相手と二人きりでショッピングに行けることを、無自覚の内に嬉しく思っていた。

 思っていたから、ここで千秋たちを呼び止めてしまったら、ショッピングに行く流れがなかったことになるかもしれないと、無意識の内に危惧した。


 だから二人揃って、去っていく千秋たちの背中をただ黙って見送ってしまったわけだが。


 自身の心の動きに全く気づいていない二人は、ただただ呆然と立ち尽くすばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る