第2話 お願い

 その後全員の予定を確認したところ、日曜日ならいけるということで、その日は皆でゴチャマンのケンカレッスンをやることに決定する。

 今日のケンカレッスンに関しては、史季がまだ本調子ではないということで早めに切り上げ、完全下校時刻となる一八時までダラダラと駄弁だべって時間を潰してから、予備品室を後にした。


「じゃあ、一年最強決定戦後の出来事がきっかけで、声をかけてくれる人が増えたの?」


 下足場で外履きに履き替えながら史季が訊ねると、春乃は元気に嬉しそうに「はい!」と答える。


「おかげさまで、お友達がいっぱいできました!」


 そんな春乃の報告に、史季のみならず、夏凛たちも安堵の笑みをこぼす。

 荒井派に拉致られた一件以降、春乃はクラスにおいて腫れ物のような扱いを受けていた。

 史季たちもそのことを心配していたわけだが、持ち前の人当たりの良さに加えて、一年最強決定戦後に春乃が出場者全員の応急処置をした出来事をきっかけに、腫れ物扱いを通り越してクラスの人気者になりつつあるご様子だった。


 春乃を取り巻く状況が良い方向に向かっていることに笑みを深めていた史季だったが、ふとの顔が脳裏をよぎってしまい、春乃相手に無駄におそるおそるしながらも訊ねる。


「ところで桃園さん……一年最強決定戦の最中に、ナイフで腕を切られたリーゼントの一年生がいたこと、覚えてる?」

「はい! 田中たなかくんですね!」


 予想に反して平凡な名前が出てきたことに驚かされたことはさておき。

 すでにもう春乃が名前を知っていることに危機感を募らせた史季は、ますますおそるおそるしながらも春乃に訊ねた。


「もしかして、その田中くんともお友達に?」

「はい! なりました!」

「……田中くん、ファンクラブがどうとか言ってなかった?」

「そういえば、そういうのをつくったとか言ってたような言ってなかったような……」


 記憶が曖昧なのか、それとも田中の言葉の意味をうまく理解できてなかったのか、春乃は唇の下に人差し指を押し当てながら小首を傾げる。

 頑張って思い出そうとしているのか、段々「むむむ……」と難しい顔をし始める。


 その隙にと言わんばかりに、夏凛が無言でチョイチョイと手招きしているのが見えたので、史季はそちらに身を寄せた。


「史季、今の話詳しく聞かせろ」


 なぜか小声で訊ねてくる夏凛に、史季も小声で、一年最強決定戦の最中に史季が助け、春乃が応急処置を施したリーゼントのことを伝える。

 当然のように話を聞いていた千秋と冬華が、冷やかし混じりに小声で会話に交ざってくる。


「そういえば、いつの間にかできてた夏凛のファンクラブも、リーゼントのパイセンが会長務めてたな」

「確か、白石しらいしって名前の、遠くから見ている分には愉快な先輩だったわよね~」

「あーあーあー、聞こえない聞こえない」


 千秋と冬華の言葉を、全力で聞かないようにする夏凛。

 そんな気はしていたが、小日向夏凛ファンクラブの存在は、当の夏凛にとってはあまり関わり合いになりたくない手合いのようだ。


「そういえば、ちーちゃんにもファンクラブがあった時期があったわね~」

「あー、他でもねー千秋自身がぶっ潰したやつか」


 そんな冬華と夏凛の言葉を聞いた途端、千秋はゴキブリの群れでも発見したかのような顔で、おぞましげに身震いする。


「アイツらの話はすんな……! 頼むから……!」

「え~。一昔前の小学生用のスク水持って来て、ちーちゃんに向かって『お願いですからこれを着てください!』って土下座してきたり、ランドセルを持って来て『お願いですからこれを背負ってください!』とか、面白エピソードが満載なのに~」

「だからしたくねぇんだよ……!」


 その話を聞いて、史季は「あ、うん、それは誰だって潰すよね」と得心し、夏凛は「千秋のに比べたらまだマシだな」と遠い目をしていた。


「ちなみに、冬華先輩のファンクラブはどうだったんですか!?」


 突然春乃が会話に交ざってきて、史季と夏凛と千秋は口から心臓が飛び出そうになる。

 ファンクラブ絡みの話は声を大にしたくなかったのか、夏凛に釣られて小声で話していた分、春乃もちゃっかりと話を聞いていたことに三人は驚きを隠せなかった。


 こういったことには誰よりも動じない冬華だけは、聖母じみた笑みを深めながら春乃の問いに答える。


「あるにはあったんだけど~、ワタシが知らない間に勝手にできて、勝手に潰れちゃったのよね~」


 冬華のファンクラブに入る人間など、下方向の欲望が突き抜けている予感しかしなかったり、そんな人間が集まったら揉めるのが目に見えていたり、この学園のことだから血で血を洗う結末を迎えたのだろうと察した史季は、顔を引きつらせるばかりだった。


「ということは……わたしもわたしのファンクラブを潰せば、先輩たちに近づけるってことですね!」

「いやさすがにそれは可哀想だろ!?」


 春乃の頓珍漢とんちんかんな発言に、思わずといった風情で夏凛がツッコみを入れる。


「んなこと言ってっから、夏凛オマエんとこのファンクラブだけが、いつまでものさばってんだろが」

「う、うるせーっ。つうかファンクラブって、潰すこと前提で語るもんじゃねーだろ!?」


 などというやり取りをよそに、春乃の「わたしのファンクラブ」発言を聞いた史季は、やっぱり田中リーゼントが桃園春乃ファンクラブを設立したことに加えて、本人にそのことをわざわざ報告していたことを察し、ますます顔を引きつらせていた。


 それから五人はお喋りを続けながら校舎の外に出て、裏門を抜けたところで、一人帰る方角が違う史季だけが別れることとなる。

 慣れたとはいっても、そのことに一抹の寂しさを覚えることはさておき。

 今日は特に寄り道する予定もないので、史季は真っ直ぐ家に帰ることにした。


 鬼頭派が睨みを利かせてくれているおかげで、腕自慢の不良に絡まれる危険はほぼなくなったとはいっても、あくまでも〝ほぼ〟であって〝完全に〟というわけではない。

 それに、四六時中鬼頭派のメンバーが視界に入っていたら気が休まらないだろうと朱久里が配慮してくれたことで、一年最強決定戦の前ほどガチガチには睨みを利かせていない。


 だからこそ帰途についている間、史季は油断せずに周囲を警戒していたわけだが……だからこそが訪れるまでの尾行に気づけなかったことは、史季にとっては一驚に値する出来事だった。


 そしては、家まであと五分というところに来たところで、訪れた。



「ぶえ~くしょいっ!!」



 微妙におっさんくさいが、一聴して女子のそれだとわかる豪快なくしゃみが背後から聞こえてくる。

 まさかと思って振り返るも、パッと見た限りでは人の姿は認められなかった。


 今史季が歩いている道は、閑静とは言わないまでも、比較的静かな住宅街にある一本道。

 不法侵入の可能性を考慮しなければ、隠れられる場所は電柱の陰くらいしかない。

 その電柱の陰を注視してみると、案の定、千秋ほどではないにしても大概に背丈の小さい人影が身を潜めていることを確認することができた。


 なんとなく非常にめんどくさいことになりそうな予感がしたので、見なかったことにしたいところだが、自宅の場所を知られた方がもっとめんどくさいことになるのは明白。

 史季は諦めたようにため息をつくと、意を決して電柱に隠れる人影のもとへ向かうことにする。

 観念しているのか、こちらから近づいても、人影は逃げる素振りすら見せなかった。


 やがて人影の顔を、をしっかりと視認できる位置まで近づいたところで、向こうから棒読み気味に話しかけてくる。


「あっ、折節先輩。こんなところで会うなんて奇遇っすね」


 一年最強決定戦では一〇万という賞金に目がくらみ、史季を追いかけ回した斑鳩派所属の不良女子――五所川原アリスが。


「奇遇も何も五所川原さん、僕のこと思いっきりけ――」

「ぼくのことを呼ぶ時は、ア! リ! ス! 今度そのかわいさの欠片もない名前で呼んだら、口利かないっすからね!」


 アリスのあまりの剣幕に、思わず「あ、はい」と敬語で答える史季だった。


「それで、折節先輩はなんて言おうとしてたんすか?」

「いや、奇遇も何も、ご――……君、僕のことを思いっきり尾けてたよね?」


 うっかりまた五所川原と言いそうになった上に、下の名前で呼ぶことが気恥ずかしくて「君」と言い換える史季に、アリスは不服そうな顔をしながらも独り言じみた言葉を返す。


「まさか、ぼくの尾行に気づいていたなんて……ちょっと折節先輩のこと、舐めてたっすね」


 いや、くしゃみなんてされたら誰だって気づくよ――と言おうとしたけど、そこに触れたらまた話が明後日の方向に行ってしまいそうなので、黙っておくことにする。


「本当は折節先輩の家まで尾けるつもりだったんすけど、見つかってしまった以上はしょうがないっすね」


 そう言ってから、アリスは何とも小生意気な笑みを浮かべ、史季の心胆を凍えさせる言葉をつぐ。


「ぼくね、見ちゃったんすよ。折節先輩が体育館の舞台裏にある扉に入ってくとこ」


 例によってわかりやすく動揺が顔に出た史季を見て、アリスは小生意気な笑みを深める。


「昼休みと放課後に、小日向派が姿を消すって話は、ぼくも何度が耳にしたことがあるんすけど~、まさかあ~んなところに隠れていたなんて思わなかったっすよ~」


 楽しげに喋るアリスとは対照的に、史季はもう冷汗ダラダラだった。


 いつかこういう事態が起こりうることは想定していたし、こういう事態にならないよう細心の注意を払っていたつもりだったけど……バレた相手がアリスであったことには、よりにもよってと思わずにはいられない。

 一年最強決定戦で対峙した際、彼女が史季に向かって言っていた、


『と・こ・ろ・で❤ ぼくね、ちょうど新しいバッグが欲しかったんすよね~』


 という言葉が、どうしても脳裏をよぎってしまう。

 そんな脳内の台詞を再現するように、アリスは史季に向かってお強請ねだりする。


「と・こ・ろ・で❤ ぼくね、折節先輩にお願いしたいことがあるんすけど~」

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