第1話 進歩
アリスに尾行されていたことなど露ほども知らない史季は、小日向派のたまり場となっている予備品室の扉を開ける。
「あっ、史季先輩!」
途端、今や学園全体に美人っぷりが知られつつある、長い黒髪が大和撫子という一語を想起させる後輩女子――
「お? 来たか折節。ちょっと遅かったじゃねぇか」
春乃とは対照的に、淡泊な物言いが淡泊に感じないほどの
その手には、学園内においては四次元スカートと噂されているロングスカートのスリットから取り出した、スタンバトンが握られていた。
そして彼女の足元には、あられもないほどに着崩した制服がさらに乱れ、ややクセのある亜麻色の髪をも乱して床に倒れている、
状況的に、いつもどおりに性的な意味でいらんことをした冬華に、千秋のスタンバトンが炸裂したといったところだろう。
冬華の目が、普段から本当に開いているのかどうかもわからないほどに切れ長なせいで、気絶しているのかしていないのかは判断に困るところだった。
「遅くなっちまったのは、たぶんアレだろ。早速斑鳩センパイにケンカ売られたとか、そんなとこだろ」
史季が
夏凛は懐から取り出した箱から、パインシガレットを一本取り出して口に咥えると、
「ん」
こちらにも勧めてきたので、史季は無駄に気恥ずかしさを覚えながらも一本頂戴し、口に咥える。
校内でお菓子を食べている程度の話なのに、パインシガレットが煙草によく似た形状をしているせいで、なんとなく悪いことをしている気分になってくる。
けれど、こうして夏凛にパインシガレットをお裾分けしてもらうことも、冬華が倒れていることと同じくらいにいつもどおりのことなので、気兼ねなくパインとハッカの風味を堪能してから夏凛に応じた。
「うん。小日向さんが言ったとおり、ちゃんと『嫌です』って断ったら下がってくれたよ」
「だろ? おまけに、斑鳩センパイは気に入った相手に対しては、派閥メンバーとやり合ってでも手出しさせないようにすっからな。センパイに狙われるのはうぜーだろうけど、そこさえ目を瞑れば、斑鳩派に限ればもうケンカ売られる心配はないと思っていいぜ」
史季はボロボロになっていた斑鳩を思い出し、苦笑しながらも「そうみたいだね」と返す。
史季の
そのメンバーを抑えつけることは、派閥の頭である斑鳩といえども、無事にというわけにはいかないようだ。
「というかこれ、鬼頭先輩はこうなることまで読んだ上で、僕に取引を持ちかけたっぽいよね……」
取引とは、史季が鬼頭派の頭――鬼頭
「確かに、鬼頭パイセンならそんくらいのこたぁやりそうだな。睨みを利かせるだけで済む他の連中とは違って、斑鳩派は簡単に抑えられるような連中じゃねぇし」
スタンバトンをスカートの中に仕舞いながら千秋が、
「鬼頭先輩は、約束を反故にするようなタイプじゃないもの。弟くんを信じる気持ちとは別に、弟くんが負けた場合でも、取引どおりにしーくんに悪い虫が寄ってこないよう手を打っていたとしても不思議じゃないわね~」
いつの間にか復活していた冬華が、会話に交ざってくる。
「悪い虫」と言った際に、なぜか夏凛の方を見やりながら。
その視線が意味するところを理解しているのかいないのか、夏凛はパインシガレットをピコピコと上下させながら史季に言う。
「つっても、鬼頭派が睨みを利かせてる状況でもケンカを売ってくるようなイカれた野郎が、出てこねーとは言い切れねーからな。そういった連中に備えるって意味でも……」
「今日も張り切ってケンカレッスン! ですね!」
ここぞとばかりに春乃が締めたところで、ケンカレッスンを開始する。
とはいえ、蒼絃とのタイマンの傷が完全に癒えたわけではないので、今日のところは激しい運動は控えることにして、軽めにサンドバッグ打ちをやることにする。
右のキックに、蒼絃とのタイマンの決め手となった左のキック、そしてケンカレッスンを始めて以降、コツコツと続けてきたパンチをサンドバッグに叩き込む。
バシッという音とともにサンドバッグが揺れる様は、左のキックと比べても格段に見劣りするものだった。
しかし、最初の頃は、ペチッという情けない音とともにちょっとだけサンドバッグを揺らす程度のパンチ力だったことを鑑みると、
事実、
「だいぶ良くなってきたじゃねーか。パンチが
夏凛が驚き混じりに褒めてくれた。
そのことをパンチ力が上がったこと以上に嬉しく思っていると、千秋が夏凛に向かってこんな提案をし始める。
「つうか、パンチが
「そうだな……タイマンじゃ、この学園で史季に勝てる奴なんて、もうあんまいねーだろうし……」
という夏凛の言葉に、史季が「そんなことないそんなことない!」と言わんばかりにブンブンとかぶりを振るも、
「タイマンだと勝てないから人を集めて……とか考える悪い子が、出てこないとは言い切れないものね~」
冬華の言葉に、かぶりを振っていた首を固まらせてしまう。
その様子を見て、夏凛は苦笑しながら言った。
「決まりだな」
「う、うん。異存はないけど……パンチが
後半の言葉は、夏凛のみならず、千秋にも向かって言った言葉だった。
「キックは確かに強力だけど、その分大味で隙がでけーからな。小回りが利くパンチが使えねーと、相手してる集団に隙を突かれやすくなる」
「だから人数が多い側からしたら、キックしか打てねぇ奴なんざカモでしかねぇってわけよ。誰か一人を囮にして、キックを打たせたところを他の連中で潰すだけで済むからな」
夏凛と千秋の返答を聞いて、まさしくそのとおりだと思った史季は顔を引きつらせる。
「つっても、あたしが史季に教えようと思ってるのは、そんなことじゃねーけどな。どのみち、史季はフリでもあたしらに手ぇ出せねーから、その辺のことは体で覚えてもらうことなんてできねーし」
夏凛はすっかり小さくなったパインシガレットをバリボリと食べきり、この場にいる全員に向かって言う。
「つーわけだからおまえら、次の週末付き合え。
いったい夏凛がどんなレッスンをするつもりなのか……どうやら千秋と冬華でさえも見当がつかなかったらしく、史季ともども揃って小首を傾げる。
そんな中、誰よりも状況がわかっていない春乃がパンッと手を打ち鳴らし、
「なんだかよくわからないけど楽しそうですね!」
一人楽しげに声を上げた。
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