第28話 力の差

 史季は、夏凛を助けに行くのを川藤に邪魔された際、かつてこれほど怒ったことはないと断言できるほどの怒りを覚えた。

 もうこれ以上の怒りを覚えることなんて、そうそうないだろうと思っていた。


 だが今、かつてないほどの怒りすらもたいしたことはなかったと思えるほどの怒りが、心を焦がしていた。

 夏凛を今まさに犯そうとしている荒井と、その様子を動画に収めようとしている不良どもを目の当たりにして。


「聞こえなかったのかッ!! 小日向さんから離れろって言ってるんだッ!!」


 喉が裂けんばかりに怒声を上げる。

 そんな史季を見て、荒井は興ざめしたように「ふん」と鼻を鳴らすと、不良どもの中から二人を指差して命じた。


「そこの二人。小日向を押さえていろ。弱り切っていようが、この女が学園のトップだった事実は変わらんからな。絶対に油断するなよ。いいな?」

「わ、わかりました。けど……荒井さんが自ら、あんな雑魚の相手を?」

「貴様ら雑魚がそんなこともわからないから、俺自らが出張るのだ。よく見ろ、あいつの顔を」


 荒井は史季を顎で示し、言葉をつぐ。


「あいつは川藤と見張りどもを相手にしたはずなのに、顔に痣一つついていない。あの雑魚は、俺にとっては雑魚でも、貴様らにとっては雑魚ではない何よりの証拠だ」


 だから俺が相手をする――そう言わんばかりに、夏凛から離れる。

 瞬間、起き上がろうとした夏凛を、二人の不良は慌てて背後から取り押さえた。


「だから言っただろう」


 悔しげに舌打ちする夏凛を見下ろしながら、ため息混じりに言うと、泰然とした足取りで史季の方へと近づいていく。


「というわけだ。貴様には、俺とタイマンを張る栄誉をくれてやろう」


 距離が縮まるにつれて、荒井の巨体から醸し出される威圧感が強くなっていく。

 心が怒りに満ちていようが、根が草食動物な史季は思わず気圧されてしまい、息を呑んでしまう。

 だが、心が怒りで満たされているからこそ、後ずさるような無様は晒さなかった。


 荒井は、互いの拳が届く距離で立ち止まる。

 こうして相対すると、なおさら痛感させられる。

 自分と荒井とでは、子供と大人ほどの身長差があることを。


 わかっていたことだが、立ったままの状態ではどう足掻いてもハイキックは届かない。

 千秋たちが言っていたとおりに荒井がタフならば、腹部への前蹴りも危険かもしれない。

 前蹴りを耐えきられた場合、そのまま足を掴まれる恐れがあるからだ。


 ならばここは、夏凛の教えどおりにローキックで足を潰し、顔の位置を低くさせるのがベスト。

 史季はそう決断し、決然と目の前の巨漢を睨みつけた。


「ふん……生意気にも一歩も退かんか」


 荒井が不快げに鼻を鳴らす。


「今だ!」と叫ぶ直感に任せて、相手の左太股目がけてローキックを叩き込んだ直後の出来事だった。


「ッッ!!!?」


 左頬に激烈な衝撃を受けたのも束の間、史季は文字どおりの意味で殴り飛ばされてしまう。

 散々練習した受け身もとれずに床を転がる中、疑問が脳内を埋め尽くした。


 ローキックは完璧に決まったのに平然と殴り返された!?


 月池さんは荒井先輩のことをタフな野郎とか言ってたけど、こんなの度が過ぎてる!


 いや、でも、だからって全く怯まないなんてことがあるの!?


 まるで理解が及ばない事態に、目を白黒させながらも立ち上がろうとする史季をよそに、荒井はなぜか史季を殴った右拳を見つめたまま、気にくわなさそうな表情を浮かべていた。


「貴様……?」

「何の……話……?」


 ようやく立ち上がった史季は、何を問われているのかさっぱり理解できなかったので問い返すと、荒井は苛立たしげに舌打ちを漏らした。


「ちッ、わからんのならもういい」


 その言葉には、先の問いのみならず史季の存在そのものも含まれているのか、荒井は一足で距離を詰めると、首を刈り取らんばかりの回し蹴りを繰り出してくる。


 二メートル近い巨体から繰り出されたとは思えないほどに鋭い回し蹴りを前に、回避は間に合わないと判断した史季は慌てて両腕で防御する。が、威力もまた史季の想定をはるかに超えており、両腕の防御ごと側頭部を蹴られ、倒れ伏してしまう。


「史季……!」


 思わず声を上げた夏凛が、押さえつけてくる不良の二人を振り払おうとするも、熱で体に力が入らないのか、不良たちを慌てさせることすらできなかった。


……どうやら、しっかりと効いているようだな!」


 荒井は「な!」に合わせて、倒れ伏す史季を踏みつける。

 川藤たちとは比較にならないほどに重い一撃を背中からまともに受けた史季は、その威力に命の危険を感じてしまい、亀のように体を縮こまらせてしまう。

 その間にも、荒井は何度も何度も踏みつけてくる。


 だ、駄目だ!


 やっぱり勝てない!


 川藤くんたちに勝てたからって、僕は何を勘違いしてたんだ!


 そんなことを考えながらも、ひたすらに縮こまり、ひたすらに踏みつけられる。

 こんなことをしても状況が良くなるわけでもないのに、ただただ自分の身を守ってしまう。

 夏凛たちのケンカレッスンをどれだけ受けようが、所詮自分は弱い人間のままだと思い知らさ――



「やめて……くれ……」



 懇願するような夏凛の声が聞こえた瞬間、史季を踏みつけていた足がピタリと止まった。


「もう……勝負はついてるだろ……? だから……これ以上は……やめてくれ……」


 泣きそうな顔で懇願する夏凛に、荒井の表情がこれ以上ないほど愉悦に歪む。


「薄々そんな気はしていたが、どうやら貴様は自分がやられるよりも、周りの人間がやられる方がこたえるタイプのようだな」


 踏みつけていた足を下げると、もう用はないとばかりに史季に背中を向ける。


「だが、物の頼み方がなっていないな。まさかとは思うが、ただ『やめてくれ』と言われただけで不良おれたちが止まると、本気で思っているわけではないだろうな?」

「……あたしは……何をすればいい……」

「そうだな……」


 顎に手を当てて考えた末に、荒井は夏凛に最低な提案をする。


「着ている服を全て脱げ。下着も靴下もだ。脱がせる楽しみはなくなってしまうが、内心では嫌だと思いながらも脱がざるを得ない貴様を眺めるのも、大概にそそられるからな」


 ゲス極まりない言葉が耳に触れた瞬間、縮こまっていた史季の頭が真っ白になる。

 代わりに、先程まで灯火程度しか残っていなかった怒りの炎が、頭の中を焼き尽くした。


 何をやってるんだ、僕は!


 勝ち目なんてないことくらい、初めからわかってたことだろうが!


 それなのに、ちょっと力の差を見せつけられたくらいで怖じ気づいて!


 小日向さんに、あんなことを言わせて!


 思い出せ!


 月池さんに、小日向さんのことを「頼む」と言われたことを!


 氷山さんに、小日向さんのことを「お願い」と言われたことを!


 都合の良い解釈だってことはわかってるけど……小日向さんには「守ってくれ」と言われたことを!


 そして僕自身が、小日向さんを守ると約束したことを!


 もう二度と怯えるな! 折れるな! 諦めるな!


 僕を地獄いじめから救い出してくれた小日向さんを!




 今度は、僕が救うんだッ!!




「おぉぉおおおぉぉおぉぉおぉおぉおぉおぉぉおぉッッッ!!!!!!」


 魂すら吐き出さんばかりの雄叫びを上げながら、史季は立ち上がる。

 夏凛が驚きのあまり目を見開き、まさかの復活に不良どもが呆気にとられる中、荒井一人だけはうんざりとしたため息をつきながらもこちらに振り返った。


「まさか、力の差もわからないバカだったとはな」


 力の差など誰よりも史季自身が痛感している。

 体が大きくて、力が強くて、異常なまでにタフで、そのくせ動きは機敏。


 攻撃をくらってなお平然と拳を振り抜く胆力に、相手の身の危険など一顧だにしない圧倒的な暴力は、確かに川藤たちとは違ってケンカ慣れしていると思い知らされる。

 能力、経験、どれをとっても、史季が勝てる要素など見当たらないが、


「だからどうした……」


 荒井を睨みつけながら、史季にしては珍しい道理の欠片も感じさせない言葉を吐く。


「勝てないなら、死んでも勝つだけだ!」

「なら死ね」


 その言葉どおり、こちらの顔面目がけてパンチを繰り出してくる。

 夏凛ほどではないにしても、荒井の拳速は相当なもので、先のダメージが残っている史季では到底かわしきれるものではなかった


 だから、何の躊躇もなくかわすことを諦めた。


「……ッ」


 当然の帰結と言わんばかりに、顔面を殴られた史季は床を転げる。


「史季……っ」


 夏凛の口から、弱々しい悲鳴のような声が上がる。

 その光景は殴り飛ばした側からしたら爽快なもののはずなのに、荒井の表情に浮かんでいたのは露骨なまでの不快感だった。


「……まさかとは思うが、俺の真似でもしているつもりか」


 然う。

 史季は顔面を殴られるのに合わせて、荒井の左太股にローキックを叩き込んでいたのだ。

 初手で荒井が、史季のローキックをくらいながらもパンチをお見舞いした時と同じように。


 決意のせいか、怒りのせいか、大量に分泌されたアドレナリンが頬の痛みを忘れさせる中、史季はゆっくりと立ち上がり、凄絶な笑みを浮かべる。


「そうだって言ったら?」


 不敵な言葉に対し、荒井は何も答えず、ただ双眸を据わらせる。

 その視線は、言葉よりも雄弁に「ブチ殺す」という意思を表していた。


 史季はそんな荒井を見て、頭の片隅で思う。

 やり方としては正気を疑うものだが、あるいは相討これが突破口になるかもしれないと。


(どのみち、まともに戦ったって勝ち目なんてない。だったら……!)


 史季は殴りかかってくる荒井に、再び相討ち覚悟でローキックを放つ。

 これなら、少なくとも相手にも確実にダメージを与えられる――と思っていたら、


「大バカが」


 荒井は繰り出そうとしていたパンチを止めて即座に身を引き、ローキックをかわす。

 続けて、まさかの回避に瞠目する史季の顔面を思い切り殴りつけ、床を転げさせた。


「バレバレの相討ち狙いに付き合う奴が、どこにいる」


 全くもってそのとおりだが、そうとわかってなお史季は凄絶な笑みを深めた。


 今、荒井は確かにローキックをかわした。

 それは先の二度のローキックが、しっかりと効いていたことの証左。

 やはり、荒井に勝つには相討これしかない。


 だけど、相手が乗ってくれないことにはどうしようもない。

 どうする?――と、必死に思考を巡らせていたところで、はたと思い出す。


 人気のない駐車場で、川藤にボコボコにされていたところを夏凛に助けてもらい、その流れで自分が川藤とタイマンすることになった時のことを。

 あの時夏凛は、史季にケンカのアドバイスをしようとしたことに文句をつけた川藤に、「プ~ククスクス~」と笑いながらこう言った。


『あれあれ~? こわいの~? 散々いじめてた相手なのに~? ちょっとアドバイスするだけなのに~?』


 それによって川藤の矜持プライドを刺激した結果、夏凛は堂々と史季にアドバイスができる状況をつくり出した。


(荒井先輩にとって、僕は間違いなくただの弱者ザコ……だったら、それを利用してやる!)


 嘲笑の浮かべ方なんて知らない。

 だから、知らず知らずのうちに浮かべていた凄絶な笑みをそのままに、史季は言った。


「こわいんだ。僕に蹴られるのが」

「……ぁ?」


 かつてないほどに不快な表情に、不快な声。

 イケると思った史季は、ますます笑みを深めながら挑発の言葉を吐いた。


「だって荒井先輩、今僕のローキックをかわしたよね?」

「何度も言わせるな。バレバレの相討ち狙いに付き合うバカがどこにいる」

「でも、かわした」


 あえて聞き分けのない言葉を返すと、荒井はますます不快感を募らせたのか、舌打ちを漏らした。が、まだ乗ってくる気配はなかった。


 最後の一押しが欲しいと思案していると、荒井が一瞬、背後にいる不良どもの様子を横目で確認するのを見て、気づく。

 不良にとって、プライド以上に傷つけられることを嫌うがあることに。


「今の聞いた?」


 その言葉は、荒井ではなく、彼の背後にいる不良どもに向けて言った言葉だった。


「君たちの大将は、僕に足を蹴られるのがこわいらしいよ? 僕は顔を殴らせてあげてるのにね。……あぁ、だからか。顔と足の相討ちで負けちゃったら恥ずかしいもんね」


 史季の言葉に、不良どもの間に狼狽が拡がっていく。

 荒井を恐れて口には出していないが、ここまで言われて彼が相討ち勝負を受けないことを疑問に思っている様子が見て取れた。


 それを目の当たりにしたせいか、荒井の方からブチィッと何かが切れる音が聞こえたような気がした。


「……いいだろう。安い挑発に乗ってやる」


 物言いはあくまでも静かだが、声音は、表情は、視線は、彼にとって大切なものを傷つけられた怒りに充ち満ちていた。


 その大切なものとは、派閥のトップとしての面子メンツ

 ナメられたら終わりとまで言われている不良の世界において、時として己のプライド以上に守らなければならないものがメンツだった。


 そしてメンツは、プライドに直結していることが多い。

 ご多分に漏れずに荒井もメンツとプライドが直結していたらしく、余計な危険リスクを負うことを承知した上で挑発に乗ってくれた。


 これでようやくゼロだった勝ち目が、一くらいにはなった。

 あとは、


(ただ蹴るだけだッ!!)


 史季は覚悟に満ちた目で荒井を睨みつける。

 荒井はそんな視線に不快感を露わにしながらも睨み返す。


 次の瞬間。


 史季は荒井の左太股を全力で蹴りつけ、荒井は史季の左頬を全力で殴りつけた。

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