第29話 決着

 荒井は、蹴られた太股の痛みにほんの少しだけ眉をしかめながらも、名前すら憶えていない雑魚を殴り飛ばした。

 盛大に床を転げる雑魚の姿は見ていて滑稽なくらいだが、左太股の痛みと、雑魚を殴り飛ばした拳から伝わる違和感があまりにも気持ち悪かったせいで、笑うに笑えない。


 この違和感が消えない限り、おそらく奴は立ってくる――そんな予感が正しかったことを証明するように、雑魚は立ち上がった。


 休ませる暇は与えないとばかりに殴りかかると、雑魚はしっかりと蹴り返してきて、またしても盛大に床を転げて倒れ伏し、またしても起き上がってくる。


 ここまでくると、タイマンを見守っていた下っ端どもも異常に気づいたらしく、小波さざなみが拡がるようにしてざわつき始める。


 いくらなんでも、このタフさはおかしい。

 自分のように体格ガタイに恵まれているなら、まだわかる。

 だが、目の前の雑魚の体格は至って普通だ。

 少なくとも、見た目からはタフさの欠片も感じられない。

 

 だとしたらやはり、あの雑魚の異常なタフさの秘密は、殴った際の感触の違和感に隠されていると見て間違いない。

 その違和感は何千何万と人を殴ってきた荒井だからこそ気づける、本当に些細なものだった。

 事実、あの雑魚をいじめ、散々殴りつけていた川藤の口からは、違和感についての話は一度も耳にしなかった。


 だが、ただ違和感がわかるというだけで、その正体がわからない。

 正体を追究しようにも、


「……!」


 もう何度目になるのか、荒井は雑魚を殴り飛ばすと同時に受けたローキックの痛みに、とうとう顔をしかめてしまう。


 普通も普通な体格からは考えられないキック力のせいで、雑魚を殴った際に落ち着いて分析することもできない。

 倒れた雑魚に追い打ちをかけたいところに、二度目のローキックを受けた時点で走るのに支障が出るほどの痛みを左太股が訴えてくるせいで、この下らない相討ち勝負に付き合わざるを得ない状況に陥っている。


(雑魚は雑魚だが、やはり川藤たちのような下っ端では手に余るな、こいつは……!)


 下手をすると、大迫でも怪しいかもしれん――そんな考えを頭の片隅に追いやりながらも、ゾンビのように立ち上がってくる雑魚を睨みつけた。



 ◇ ◇ ◇



 一方、不良の二人に取り押さえられながらもタイマンを見守っていた夏凛は、史季の異常なタフネスの正体に気づいていた。


 数えて八度目となる相討ちにより、ローキックをくらった荒井が顔をしかめ、パンチをくらった史季が床を転げる様を注視ながら、夏凛は確信する。


(やっぱりだ。史季の奴、異常なまでに


 ボクシングに、スリッピングアウェーという防御技術がある。

 理屈は単純で、顔を殴られる瞬間にパンチの方向に合わせて顔を背けることで、その威力を軽減させたり、パンチそのものをかわしたりする技術だった。


 しかし、かわす場合ならまだしも、パンチの威力を軽減させるようなタイミングで実行するには相当な練習と経験が必要だ。

 その両方が欠けているにもかかわらず、史季は最初に荒井に殴られた時点でそれを実行していた。


 おまけに、荒井の膂力パワーに逆らうことなく派手に殴り飛ばされることで、さらにパンチの威力を軽減させている。


 いずれも一朝一夕で身につくような技術ではなく、ましてや、ケンカはおろか格闘技とも無縁だった史季に為せるような代物ではないのだが……恐ろしいことに、彼はそれらの技術を無意識の内に使いこなしている。

 才能センスの為せる業としか言いようがなかった。


(……いや。センスだけじゃねーな……)


 腹部に限った話になるが、史季はおそらく、学園にいる誰よりも殴られ慣れている。

 川藤たちのいじめによって日常的に腹部を殴られ続けたことで、史季は知らず知らずの内に、どう攻撃を受ければ最もダメージが少なく済むのかを体で覚えていったのだ。

 それによって培った経験を半ば無意識の内に応用できているからこそ、あの荒井に何度も殴り飛ばされているにかかわらず、立ち上がることができているのだ。


(今思えば、史季がいじめられていたことにあたしが全然気づけなかったのも、そのセンスのせいで大事にならなかったってのも、あるかもしれねーな)


 川藤は史季を殴る際に手加減をしていたつもりだろうが、史季を殴った際に違和感すら覚えないような奴が、器用に手加減なんてできるとは思えない。


 腹部を殴られた瞬間に腹筋を締めていたのか、逆に脱力していたのか、川藤に気づかれないタイミングで体を後ろに引いていたのかはわからない。

 だが、史季が打たれ上手かったからこそ、川藤たちにいじめられていた一年間、保健室に担ぎ込まれたり、腹を殴られたせいで吐いたりといった、夏凛の目につくような事態にまで発展しなかったのだろう。


 パシりによって鍛えられた異常な脚力も含めて、いじめによって史季のケンカの才能が開花したのは、史季にとっても川藤にとっても皮肉としか言いようがなかった。


(けど、いくらダメージを軽減しようが、相手はあの荒井デカブツだ。顔面を殴られて効かねーわけがねー……)


 一〇度目の相討ちの後、今までよりも起き上がるのが遅くなっている史季を見て、夏凛は表情を悲痛に歪ませる。

 今なら――と、自分を取り押さえている二人を強引に振り払おうとするも、


「ぁッ!? てめえッ!」

「おとなしくしやがれッ!」


 隙をついてもろくに振り払えず、夏凛は舌打ちを漏らす。

 やはり自分にはもう、ろくに体力が残っていないことを痛感するばかりだった。


(史季……)


 フラフラになりながらも立ち上がる彼の名を、心の中で呟く。

 情けないけど、最早今の自分には祈ることしかできない。


 だから祈る。

 史季の無事を。史季の勝利を。



 ◇ ◇ ◇



 一一度目のローキックは、史季に確かな手応えをもたらした。

 とうとう荒井の巨体が傾いだのだ。


 だが、確かな手応えがあったのは、向こうも同じかもしれない。

 一一度目のパンチを顔面に受けた瞬間、今まではズレているように感じていた衝撃が、今回は体の芯まで突き抜けていったのだ。


 派手に床を転げ、仰臥する。

 今度という今度は立ち上がれない――心の底からそう思ったのは、


 然う。

 史季の限界は、九度目の相討ちの時点でとっくに超えていた。


 けれど、


(小日向……さん……!)


 彼女自身は、気づいていないだろうけど。

 指摘したら、絶対に怒って否定するだろうけど。


 小日向さんは、僕が荒井先輩と相討ち勝負を行ないようになってからずっと、泣きそうな顔をしていた。


 あんなに強い彼女が、か弱い女の子のように、泣きそうな顔をしていた。


 小日向さんにそんな顔をさせてしまっているのは、全部僕のせいだ。


 小日向さんは優しいから、僕なんかがひどい目に遭っても、今みたいに我が事のように心配してくれる。


 そのことがたまらなく嬉しくて、堪らなくつらかった。

 だって、


(小日向さんには、そんな顔をさせたくなかったから!!)


 その一念のみで、すでにもう限界を超えた体を立ち上がらせる。


「まだ立つか……!」


 吐き捨てる荒井の声音には、恐れにも似た響きが入り混じっていた。


「立つさ……何度だってッ!!」


 叫びとともに、史季は荒井の左太股を蹴りつける。

 荒井は史季の左頬を殴りつける。


 直後――


 史季は床を滑るように吹き飛び、


「ぐぁぁあぁ……」


 荒井は苦悶を吐き出しながらも、床に片膝をついた。


 下っ端の不良どもが狼狽する中、涙に滲んだ視線を向けてくる夏凛に応えるべく、史季は立ち上がる。

 そして、片膝をついたまま立ち上がれない荒井のもとに、一歩ずつゆっくりと近づいていく。


「ま、待て! 俺は今まで何度も貴様が立ち上がるのを待った! だから貴様も、俺が立ち上がるのを待つ義務が――」

「嘘は駄目だよ、荒井先輩」


 あえて語気を強くして、荒井の言葉を遮る。


「荒井先輩は、僕が起き上がるのを待ってたんじゃない。ローキックが効いているせいで倒れてる僕に追い打ちをかけれなかっただけだ。それがわかってたから、僕は殴り倒された後は、できるだけすぐに起き上がるようにしていた」


 正直そうだろうと思っていた程度だったが、荒井がギクリとした表情を浮かべるのを見て確信する。

 そもそも春乃を人質にとったり、絶不調の夏凛にタイマンを強要していた時点で、この男の内に正々堂々という言葉が存在しないことくらい、わかりきっていた。


「立たないなら蹴らせてもらうよ。

「クソがぁッ!」


 片膝立ちのまま、荒井が殴りかかってくる。

 高い背丈のおかげでその拳は史季の顔面には届いたものの、完全に手打ち――腕の力のみで振るわれたパンチだったため威力は弱く、史季の体が数歩後ずさるだけの結果に終わる。


「いくよ、先輩」


 あえて宣言する。

 目論見どおりに荒井の表情が絶望に染まった刹那、側頭部にハイキックをお見舞いする。

 荒井の巨体が、吸い込まれるように床に倒れようとするも、


「ナメるなぁあぁぁぁッ!」

 直撃をくらってなおこらえきり、あろうことか殴り返してくる。

 史季もまた、ふらつきながらも堪えきり、再びハイキックを荒井の側頭部に叩き込む。


「が……ッ!?」


 無類のタフネスを誇る荒井といえども、史季のハイキックを二発もまともにくらえばタダではでは済まず、倒れそうになる。が、それでもなお堪えきり、


「クソがぁぁぁぁぁぁあぁぁああぁぁぁあぁぁああぁッ!!」


 怒号とともに振るった拳が史季の顔面を捉え、限界の限界すらも超えた体が倒――



「史季……ッ!」



 祈るような、願うような、絞り出すような夏凛の声が聞こえた瞬間、史季は砕けんばかりに歯を噛み締めながら踏み止まる。

 まさか今ので倒れないとは思わなかったのか、荒井がバケモノでも見るような目をこちらに向けてくる。


「おおぉおぉぉぉぉぉおおぉおぉおぉぉッ!!」


 すでに尽きた余力をさらに振り絞らんばかりに、叫ぶ。

 そして、三度みたび荒井の側頭部にハイキックを叩き込み、



 荒井は白目を剥きながらも、蹴られた方向に向かって倒れ伏した。



 まさかのトップの敗北に、下っ端の不良どもは泡を食い始める。


「お、おい!? 荒井さんが負けちまったぞ!?」

「どどどどうすんだよ!?」

「ま、待てッ!! あいつはもうフラフラだから俺たちでも倒――」



「やるのか?」



 史季は肩で息をしながら、フラフラになりながらも、不良どもを睨みつける。

 その異様な迫力に、不良どもは揃いも揃って息を呑み、沈黙する。


「やるのかって聞いてんだろッ!!」


 その怒声が引き金だった。


「お、俺は下りるぞ!」

「こんなことになるなんて聞いてねえよ!?」

「あ、待ちやがれ! 置いてったって知ったら、後で荒井さんに殺されっぞ!?」


 不良どもは二人がかりで荒井を担ぐと、蜘蛛の子を散らすように廃倉庫から逃げ出していった。

 その様子を見送りながらも、史季は心の底から安堵する。


(上手く……いった……)


 正直もう、立っているだけでやっとだった。

 もう本当の本当に限界だった。


 らしくもなく凄んだのも、ケンカに発展することなく不良どもを退かせるためのハッタリにすぎなかった。


 そうでなくても、取り押さえられた夏凛をそのまま人質として使われたら、今の史季にはもうどうすることもできなかった。


(もう……いいよね……)


 ここにはもう敵はいない――その確信を得た途端、緊張の糸とともに史季の意識の糸はプッツリと切れてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る