第9話 ケンカレッスン・1

 その後、生まれて初めて女子と個人的にLINEを交換するという一大イベントを終え、予備品室を後にした史季は教室に戻るも、やはりというべきか、川藤たちがこちらにちょっかいを出してくることはなかった。


 代わりに、小日向派に昼食に誘われたことでクラスメイトのほとんどから注目を浴びる羽目になってしまい、授業が始まってなおチラチラとこちらに好奇の視線を向けてくる状況は、史季にとってはある意味針のむしろだった。


 そして放課後。

 周りの目を盗んで予備品室へ向かうと、


「わぁ……」


 目をキラキラさせながら予備品室を見回す春乃と、そんな彼女を見て苦笑している夏凛の姿があった。

 どうやら二人とも、史季のクラスよりも終礼のホームルームが終わるのが早かったようだ。


 他に用事があるのか、それとも終礼のホームルームが長引いているのか、千秋と冬華の姿はなかった。


「あ、史季先輩!」


 年下でなおかつ美人な春乃に、当たり前のように下の名前で呼ばれることにむず痒さを覚えながらも、史季は応じる。


「や、やあ。桃園さん」

「ここすごいですよね! 秘密基地って感じで!」


 興奮しながら力説する春乃を、夏凛は後ろから「どうどう」と宥めてから話しかけてくる。


「サンキュな、史季。春乃にこの場所教えんの許してくれて。まだあんま知られてねーってだけで、春乃もあたしらの仲間だからな」


 四月に入ってからまだ半月程度しか経っていないせいもあって、一年生の春乃が小日向派の一員であることを知っている人間は、まだほとんどいない。

 事実川藤たちも、春乃が〝女帝〟の後輩であること以前に、同じ聖ルキマンツ学園の生徒であることにも気づかずに人気のないところに連れ込もうとしていたし、彼女を助けた史季も夏凛に言われるまでは全く気づかなかった。


 もっとも小日向派どうこう以前に、春乃の容姿は高校生離れしているため、その存在が学園中に知られるのは時間の問題ではあるが。


「さすがに、桃園さんだけ仲間はずれというわけにもいかないしね。ただ……」

「わかってる。春乃がこの部屋に来る時は、誰かが引率する形にしねーとな」


 春乃は半端なくドジだ。その彼女が一人でこの予備品室に向かった場合、誰にも気づかれずにというわけにはいかない。それゆえの措置だった。


「つーわけだから春乃、おまえ絶対ここに一人で来るんじゃねーぞ」

「はい! 先輩!」


 自身のドジさ加減を自覚しているからか、春乃の返事はどこまでも素直だった。

 それはそれでどうかと思わなくもない。


「そんじゃ、早速始めるか」


 夏凛の言葉に、思わずゴクリと息を呑んでしまう。

 そんな史季の様子を見て、夏凛は苦笑した。

「そんな緊張しなくていいって」

「で、でも……小日向さんにケンカのやり方を教えてもらうっていうことは、古武術を習うってことになるから……」


 そんな史季の言葉に、夏凛は「いやいや」と手を左右に振った。


小日向流古式戦闘術そんなもんを誰かに教えるなんて、クソ親父の喜びそうな真似なんてしねーよ。教えるっっても常識的な範囲だっつーの」


 その言葉に、史季は少しだけ安堵しかけるも、


「今からやることも、とりあえず史季がどんだけ動けるか確かめるために、ちょっとスパーリングっぽいことするだけだから」

「それあんまり『ちょっと』って感じがしないんですけど!?」

「ほんとにちょっとだよ。史季はいくらでも本気で仕掛けていいけど、あたしは……」


 言いながら、夏凛は史季の肩を軽くタッチする。


「これくらいでしか反撃しねーから」


 その説明に、史季は別の意味で口ごもってしまう。

 黙り込んだこちらを見て、夏凛は眉根を寄せた。


「んだよ。まさか、このやり方でもスパーリングはこえーってか?」

「いや……そうじゃないけど……小日向さんに向かってこんなこと言うのは生意気かもしれないけど……女の子に向かって、パンチとかキックとかやるのは、ちょっと……」

「だいじょーぶだいじょーぶ。絶対に当たんねーから」

「当たる当たらないの問題じゃなくて……その……純粋に嫌なんだ……女の子に危害を加えるような真似をすること自体が……」

「要するに、性分の問題ってわけか?」


 首肯を返すと、夏凛は深々とため息をついた。


「ったく、今からケンカを習う相手にそれかよ」

「ご、ごめん……」

「謝んな謝んな。むしろ褒めてんだよ。春乃を助けた時もそうだけど、自分よりもつえーってわかってる相手にを貫き通すことなんて、なかなかできることじゃねーからな」

「そ、そうですよ! わたしなんて恐い人を前にしたら恐くて声を出すことしかできませんから!」

「それはそれで意外とできることじゃねーからな、春乃」


 もう一度ため息をついてから、夏凛は史季に言う。


「わかった。なら史季も殴る蹴るじゃなくて、あたしにタッチするって形式ならどうだ?」

「それならできそうだけど……」


 返事が煮え切らないものになってしまったのは、その形式だと別の問題が生じることに気づいてしまったせいだった。

 その気づきが顔に出てしまったのか、夏凛はニンマリと笑い、自身の胸を指でさしながら言う。


「タッチする場所はどこでもいいからな。なんだったら、うっかり触ったっていいんだぞー?」


 言葉の内容が内容な上に、あまり見透かされたくなかった内心がもろバレしていたせいもあって、史季の頬に朱が差し込む。


「か、からかってない? 小日向さん」

「まー、ちょっとな」


 チロリと舌を出す。

 その仕草がかわいらしくて、ついそれだけで許してしまうあたり、自分で思っている以上に僕は単純な人間なのかもしれないと、頭を抱えそうになる史季だった。


「つーわけで、あたしらはスパーリングごっこしてっから、春乃は足音が聞こえたらすぐに報せてくれよな」

「はい!」


 元気よく返事しながらも、春乃は部屋の隅にあるロッカーから箒を三本取り出し、自分からも史季たちからも取りやすい位置に置いてから、入口の扉のそばへ移動する。


 史季は掃除を条件に、この予備品室を使うことを許されている。

 ゆえに、もし教師が備品を取りに来た際は、直ちにケンカレッスンを中断して掃除をしているていを装うことで誤魔化すという手筈にしていた。


 史季のみならず夏凛たちがいることに関しては、手伝ってくれるようになったとか何とか言って教師に納得してもらうしかない。


 もっとも夏凛が学園内の不良どもをシメたことで、今までに比べて格段に授業が捗るようになったこともあってか、教師間においても小日向派に対する評判は悪くないので、そう分の悪い話ではないが。


「じゃ、いつでも適当に始めていいぜ。史季」


 柔道や剣道のように開始線につくわけでもなく、ボクシングのようにグローブを触れ合わせるわけでもなく、夏凛はプラプラとした足取りで部屋の中央に向かいながら事もなげに言う。


 おそらくは「よーいどん」で始めない気構えも含めて、ケンカレッスンはもう始まっているのだろうが、タッチするだけとはいえ自分から仕掛けるという行為に、史季はどうしても躊躇してしまう。

 夏凛が堂々とこちらに背中を向けているから、なおさらに。


「およ? 来ないのかよ?」


 半顔だけ振り返らせながら訊ねてくるも、


「あーでも、そうか。いきなりやれって言われても、やりにくいか。そっちからタッチしようとしてるとこ知らねー奴に見られたら、セクハラ現場みたいになっちまうしな」


 ケラケラと笑う夏凛に、「笑い事じゃないよ!」と思わずツッコんでしまう。


「ここじゃ見られる心配なんてねーから、いいじゃねーか。けどまー、そうだな……やりにくいってんなら、こっちから仕掛けるってのはどうだ?」

「う、うん……その方が、まだやりやすいかも」

「なら、決まりだな。とりま額をタッチしに行くから、反応できるなら反応しろよ」


 わざわざ触る箇所を宣言するなんて、いくら何でもハンデが過ぎるんじゃ――と、思った直後の出来事だった。


「え?」


 いつの間にか目の前まで夏凛が迫っていたことに、史季は瞠目する。


「ほいっと」


 夏凛の右手が霞んで見えたのも束の間、ペチッという音ともに額をタッチされ――視界にいたはずの彼女の姿が消え失せていたことに、再び瞠目した。


 スポーツや格闘技で、目の前にいる相手が視界から消えるという話を耳にしたことがあるが、目に汗が入ったとかでもない限り、人間が視界から消えるなんてあり得ないだろうと高をくくっていた。

 そのせいもあって、実際に夏凛が視界から消えた見せた事実に驚きを隠せなかった。


「ほらほらこっちこっち」


 背後から夏凛の声が聞こえてきたので慌てて振り返るも、その時にはもう彼女の姿は視界から消え失せていた。


「これでわかったろ?」


 今度は横合いから声が聞こえてきたので振り向くと、少し離れた位置で足を止めている夏凛の姿をようやく視界に収めることができた。


「死ぬ気で追い回さねーと、タッチするどころか、あたしの制服せーふくに小指すらかすらせることもできねーぞ」


 速さや身のこなしという点においては、自分と夏凛とでは天と地ほども差があることを痛感させられた史季は首肯を返してから、意を決して彼女に突撃する。

 フック気味に手を振るって肩をタッチしようとするも、上体を後ろに反らせるだけであっさりとかわされてしまう。のみならず、再びペチッと額をタッチされてしまう。


 そこから先はもう一方的だった。

 史季がどれだけ必死にタッチを試みても、その全てが空を切り、夏凛は何度もどころか何十度もこちらの額をタッチする。


 夏凛に全くさわれないという事実もさることながら、額を狙われることがわかっているにもかかわらず一度たりともかわすことも防ぐこともできていない事実には、驚きを通り越して戦慄すら覚える。


 もしこれが実戦ケンカだった場合、こちらの攻撃は夏凛にかすりもせず、夏凛の攻撃は一方的にこちらを捉えていることになる。

 聖ルキマンツ学園を――否、世紀末学園を統べる〝女帝〟の凄さを、改めて体感している思いだった。


 史季の息が切れてきたところで、夏凛はスパーリングごっこを一時中断する。

 両手を膝について荒い呼吸を繰り返す史季に、夏凛は「そのままでいいから聞きな」と前置きしてから、今のスパーリングごっこの総評を述べた。


「予想どおり、無茶なパシりで鍛えられてたから瞬発力はあるし、体力もなかなかだけど、純粋に体の動かし方がわかってないって感じだな」

「体の……動かし方……?」

「そ。小回りが利いてねーとか、その辺のことは今は置いておくとして……史季ってさ、タッチをしようとした際、狙ったとこにちゃんと手がいってねーだろ?」

「そんなことは……ないと思うけど……」

「そんなことはあるんだよ。マジで。わかりやすく伝えるなら……そうだな……」


 夏凛は、胸の前で左手の人差し指を立ててから言う。


「あたしの指先、指で突いてみろよ。但し、ゆっくりじゃなくて素早くな」


 それくらい簡単だよ――とは、さすがに言わなかった。

 指先程度の的を狙って完璧に指で突こうとしても、どうしたって狙いがズレることくらいは史季も知っている。


 とはいえ、それはあくまでも多少という程度。

 簡単とは言えないが、難しいと言うほどもないというのが、史季の認識だった。

 それが、この後に起きるの原因の一つになるとは露ほども知らずに。


「……ふぅ……」


 ようやく呼吸が整った史季は、夏凛の胸の前に立てられた指先目がけて、言われたとおりに素早く人差し指を突き出した。

 しかし、


「!?」


 完璧にとはいかないが、全く当たらないことなんてないだろうという、史季の見立てに反し、突き出した人差し指は夏凛の指先にかすることなくその脇を突き抜けていく。

 それだけだったならば、不幸な事故は起こらなかっただろうが、


「!?!?」


 先程のスパーリングごっこの疲労がまだ抜けていなかったのか、指を前に突き出した際に体が前方にふらついてしまう。

 結果、人差し指は史季の想定よりもはるか前方に突き出してしまい、



 ふにゅ、という感触とともに、史季の指先が夏凛の左胸を突いた。



 人差し指が、第一関節が隠れるほどにまで沈んだところで、


「ごごごごごめんな――おわぁッ!?」


 慌てて夏凛の胸から指を引っこ抜くも、思いのほか足の踏ん張りが利かず、派手にすっ転んでしまう。


 一方の夏凛は、たっぷりと一〇秒ほどフリーズしてから、


「ささささっきも言ったろ。ううううっかりここ触ってもいいんだぜって」


 髪色以上に顔を真っ赤にしながらも、面白いほど動揺した物言いで余裕ぶった言葉を吐いた。


「だ、だからこれくらい何ともねーし、謝られるほどの話でもねーし」


 などと余裕ぶった言葉を吐き続ける夏凛に、春乃から無邪気な邪気が飛んでくる。


「冬華先輩とか思いっきり揉みしだいてきますもんね! 先輩!」

「たぶんフォローのつもりで言ったんだろうけど、全然ファローになってねーからな!?」

「ちなみに冬華先輩、夏凛先輩は着痩せするタイプだから、意外とオッパイ大きいって褒めてましたよ!」

「あーっ! あーっ! あーっ!」


 そんな夏凛の抵抗も虚しく、史季の耳にもしっかりと春乃の言葉が届いていたが、内容が内容なので努めて聞こえなかったフリをした。


 夏凛は真っ赤になった顔を隠すように頭を抱えながら、ボソリと呟く。


「冬華の奴、春乃にいらん情報吹き込みやがって……明日ぜってーシメてやる」


 全く悪気のない――だからこそタチが悪いとも言えるが――春乃に矛先がいかないあたり、やはり夏凛は他の不良と違って、弱者に手を出すような真似はしない人なんだと、史季は再認識する。

 正直、こんなタイミングで再認識するのもどうかと思わなくはないが。


「えーっと……まー、なんつーか……アレだ……これでわかったろ? 人間ってのは、自分で思ってるほどちゃんと体を動かせてねーってことが」


 夏凛の胸を突いてしまったことを無理矢理脳裏から追い出しながら、史季は首肯を返す。


「まさか、かすりもしないなんて思わなかったよ」

「まー、スパーリングごっこの疲労が残ってたせいもあるだろうけど……」


 などと言ってしまったせいで、先程の不幸な事故を思い出してしまったのか、引きつつあった赤色が夏凛の顔に舞い戻ってくる。

 少しでも色合いを薄くしようとしているのか、フルフルと首を左右に振るも、無駄な抵抗でしかなかった。


「と、とにかくだ! 体の動かし方を覚えるには、体を動かしまくって体に覚え込ませるしかねー。だけど、だからって何も考えずに適当に動かすなよ。意識して動かすのとそうでないのとじゃ、覚える早さは段違いダンチだからな」


 一部言い回しが無駄にややこしかったことはさておき。

 夏凛の言わんとしていることを理解した史季は、力強く首肯を返した。


「つーわけで、スパーリングごっこ再開するぞ。ただ……」


 それは彼女自身、意識してやったことなのか無意識のことなのか。

 夏凛は両手で胸を隠しながら、少しばかり揺れた声音で言葉をついだ。


「もううっかりでも触んじゃねーぞ。あれくらいでギャーギャー言うほどガキじゃねーけど、だからって自分を安売りする気もねーからな」


 そんな物言いと仕草を前にしたせいか、唐突にうるさくなった胸の鼓動は、飛び跳ねんばかりのやかましさだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る