第4話 初めてのケンカ

「…………はい?」

 史季の口から呆けた声が漏れ、川藤が光に群がる蛾のように夏凛の提案に食いつく。


「折節と一対一タイマンってわけか。なら、てめえは俺に手は出さねえってことでいいんだよな? 


 暗にそれが条件だと示す川藤に、夏凛は事もなげに了承する。


「それでかまわねーぜ。但し、おまえが負けたらパシリくんに一切手ぇ出すなよ」

「ああ。いくらでも約束してやるよ。折節が俺に勝てたらなぁ」

「ちょちょちょっとッ! 勝手に話を進め――なぐッ!?」


 抗議しようとした史季の口を、夏凛の掌が塞ぐ。

 不興を買ったと思い込んだ史季の背筋に悪寒が走るも、かすかに残る鉄扇の匂いとは別の、彼女の掌から醸し出された甘い香りが、束の間〝女帝〟への恐怖を忘れさせる。反論の言葉も、気がつけば嚥下していた。


 そんな史季の変化など全く気づいていない夏凛は、ウィンクしながら言う。


「心配すんなって。ちゃんとあのバカに勝てるよう、アドバイスしてやっから」

「あぁッ!? アドバイスなんて聞いてねえぞッ!?」


 夏凛は史季の口を塞いでいた掌をどかし、今度は自分の口を覆い隠しながら、これ見よがしに「プ~クスクス~」と笑う。


「あれあれ~? こわいの~? 散々いじめてた相手なのに~? ちょっとアドバイスするだけなのに~?」


 露骨な嘲笑を前に、川藤は恥辱に耐えるようにプルプル震え、こめかみに青筋を浮かべながらも吐き捨てた。


「はッ。誰が折節如きにビビるかっての。アドバイスでも何でも勝手にしやがれ」

「じゃ、遠慮なく勝手にさせてもらうわ」


 言いながら史季の肩に手を回し、史季ともども川藤に背を向ける。

 再び甘い香りが鼻腔をくすぐったせいもあるが、思った以上に小さい夏凛の顔がすぐ傍まで来たせいでドギマギしてしまう。


 そんな史季の反応を勘違いした夏凛は、唇を尖らせながら言った。


「自販機の前でぶつかりそうになった時も大概だったけど、いちいちビビられると、さすがにちょっと傷つくんですけどー」

「いや……そういうわけじゃ……ないんですけど……」


 なまじ川藤の取り巻きたちを秒殺する様を見せられた分、〝女帝〟への恐怖がないと言えば嘘になる。

 けれど今は、小日向夏凛という〝女の子〟との距離があまりにも近い現状に対する、高揚感やら気恥ずかしさやらの方がはるかに強かった。


「つーか、敬語もやめろよな。あのバカと同学年タメってことは、あたしともタメってことだろ?」

「いや……でも……」

「でももヘチマもねーっての。とにかく、敬語は禁止な。それより……えーと……オリフシって言ったっけ?」

「う、うん……」

「下の名前は?」

「史季……だけど……」

「シキか……オリフシより言いやすいから、そっちで呼ばせてもらうな。代わりにあたしのこと、夏凛って呼んでいいから」

「……え?」

「サンキュな、シキ。あたしの後輩守ってくれて。そこはマジで感謝してるぜ」

「あ……うん……」


 トントン拍子で距離をつめてくる夏凛に圧倒されている間に、トントン拍子で話が進んでいく。


「で、だ。見たところあのバカ大概に気が短そうだから、無駄話はこれくらいにしてちゃっちゃとアドバイスすんぞ。心の準備はいいな?」


 息を呑んで首肯を返す史季に、夏凛は満足げな笑みを浮かべながらも、耳を疑うようなアドバイスを述べた。


「先手必勝! あのバカの土手っ腹に思いっきり前蹴りをぶちかましてやれ! それだけで勝てっから!」


 思わず「え~~~~~~~~」っと言いたげな顔をしていたら、


「『え~~~~~~~~』って言いたそうな顔してんな」


 カラカラと笑いながら図星を突かれ、史季は反省しながらもどうにかこうにか表情を取り繕った。


「まー、自分で言っといて何だけど、あたしも大概に無茶苦茶なアドバイスだとは思ってんよ? けど、マジでそれが一番確実に勝てる方法なんだから、しょうがねーだろ」


 確信を持った物言いを前に、史季は口ごもってしまう。


 あの〝女帝〟が太鼓判を押しているのだ。

 川藤の土手っ腹に前蹴りをかませば、本当に勝てるかもしれない。


 けれど、だからといって無条件に信じられるほど、史季の心の奥にまで刻みつけられた川藤への恐怖は浅いものではなかった。


(だけど……)


 いくら黒髪の女の子が夏凛の後輩だったとはいえ、自分から助けに入っていながら荒事の全てを夏凛に押しつけるのは駄目なことだと思う。だから、


「……わかった。小日向さんに言われたとおりにやってみる」

「だから夏凛でいいって……って、そんなことは今はどうでもいっか」


 夏凛は体を離すと、史季の背中をパシーンとはたいた。


「そんじゃ、一発かましてこい!」


 首肯を返し、決然と川藤の方に向き直る。


「ちょっと〝女帝〟にアドバイスもらっただけで、生意気なツラしやがって。……いいぜ……来いよ……〝女帝〟のアドバイスごとぶっ潰してやる!」


 ビキビキとこめかみに青筋を浮かべ、かつてないほどに怒気を露わにする川藤を前に、史季は思わず夏凛の方を振り返ってしまう。が、その時にはもう彼女は史季の傍から離れており、こちらの心中を察しているのかいないのか笑顔で親指を立てていた。


 もしかしたら今日が僕の命日になるかもしれない――と、一瞬本気で思った。


「今さらビビったって遅えよ。俺にタイマンを挑んだこと、死ぬほど後悔させてやるから覚悟しやがれ!」


 怒号を吐き散らしながら川藤が突っ込んでくる。


(もう始めるの!?)


 と、心の中で悲鳴を上げるも、よくよく考えるまでもなく、今から自分と川藤がやることはケンカだ。

 スポーツと違って、始めの合図とともに正々堂々と戦う必要性も必然性もない。


 心の準備すらままならないまま始まったことで、どうやって前蹴りを当てるかとか考えを巡らせる暇もなかった史季は、迫り来る川藤目がけてヤケクソになりながらも前蹴りを放つも、


「ぶふッ!?」


 ほとんど同時に川藤が繰り出したパンチが顔面に直撃。

 足裏の感触からしてこちらの前蹴りも川藤を捉えたようだが、顔面を殴られたせいで相手の体のどこを蹴ったのかは確認できず、おまけに前蹴りを放ったことで片足立ちになったところを殴られたせいでバランスを崩してしまい、派手に尻餅をついてしまう。


 このまま組み敷かれたら殺されてしまう――掛け値なしにそう思った史季は、亀のように体を縮こまらせることで身を守ろうとするも、


「…………え?」


 視界に映る川藤が、両手で腹を押さえて地面に突っ伏しているのを見て、中途半端に両手両脚を縮こまらせたところで動きを止めてしまう。


「ク……ソが……」


 絞り出すような声で悪態はつけども、土下座にも似た体勢からは身じろぎほども動けない様子だった。


「な。言ったとおりにやったら勝てただろ」


 微妙にドヤ顔を浮かべながら歩み寄ってきた夏凛が、手を差し伸べてくる。


 自分から女の子の手を握ることに意味もなく逡巡するも、だからといってそれが彼女の厚意を袖にする理由にはならないので、観念したように手を取って立ち上がった。


(これ……本当に現実なの?)


 地面に突っ伏している川藤を見下ろしている状況に、まるで理解が追いつかない。

 そんな心中を見て取ったのか、夏凛はこんなことを訊ねてくる。


「またあたしとぶつかりそうになった時の話になるけどさ、シキって当たり前のように五段飛ばしで階段上ってたろ?」

「それは……一年生の時から川藤くんたちにタイムリミット付きで毎日パシらされてたから、自然とそうなったっていうか……」

「そのおかげって言うのもシキにとっては嫌な話かもしんねーけど、とにかく、毎日強制的に階段ダッシュをやらされたことで、当たり前のように五段飛ばしで階段を上れるくれーの脚力がついたってわけだ。で、それだけの脚力があれば、あのバカみたいにケンカ慣れしてない奴が相手なら余裕でいけると思って、あたしはあんたにあんなアドバイスをしたってわけ」


 夏凛のまさかすぎる言葉に、史季は目を見開く。


「ケンカ慣れしてないって……川藤くんが?」

「正確に言うと、こいつら三人全員がだけどな」


 事もなげに言う夏凛に、史季はいよいよ閉口する。


「わかりやすいくらい信じらんねーって顔してんな。シキがこいつらのことケンカが強いって感じたのは、ただこいつらが人を殴り慣れてるだけ。ケンカに慣れてるわけじゃねー。実際、こうして川藤とかいうバカには勝てただろ」

「それは……そうだけど……」


 どうしても釈然としない――そんな考えもまた顔に出ていたのか、夏凛は補足するように説明を続けた。


「シキみたいな、言ってしまえば普通の奴に比べて、川藤たちのような連中がケンカにおいてアドバンテージがとれてるのは、まさしく人を殴り慣れてるからなんだよ。人を殴り慣れてる奴ってのは、まー大抵の場合、人を殴ることに躊躇しない奴か、人を殴ることが好きな奴かのどっちかだ。だから全力で人を殴れる。普通の奴と違ってな。実際、シキが思い切り川藤を蹴れたのも、ヤケクソになっていたおかげってところもあったろ?」


 確かにそのとおりかもしれないと思ったところで、はたと気づく。


「まさか……小日向さんはそこまで計算した上で僕にあんなアドバイスを!?」


 不意に、沈黙が下りる。


「あ、あったり前だろ」


 そう答える夏凛の目は、面白いくらいに泳いでいた。


「まさか……小日向さ――」

「あーっ! えーっとっ! あれだっ! たとえば全くパンチ力が同じだけど、人を殴り慣れてる奴と、人を殴り慣れてないせいで半分くらいの力でしか殴れねー奴がケンカをした場合、単純にパンチ力に倍の差が出る計算になるだろ? シキが川藤たちのことをケンカ慣れしてるって錯覚したのも、その差によるところが大きかったってだけの話なんだよ!」

「それって……もし僕がヤケクソになってなかったら、前蹴りに小日向さんが想定したほどの力がなくて、川藤くんに勝てなかった可能性もあるんじゃ……」


 再び、沈黙が下りる。


「お、おまえはやる時はやる奴だって信じてた! 本当だぞ! 嘘じゃないぞ!」


 そう力説する夏凛の目は、笑っちゃうくらいに泳いでいた。


(……うん。結果オーライということにしておこう)


 口に出さなかったのは、史季なりの優しさだった。


「と、とにかくっ! うちの学校ガッコは世紀末学園だなんだって言われるくらいに不良バカが多いけど、本当の意味でケンカ慣れしてる奴は意外と少ねーんだよ。たぶん二、三〇人くらいなんじゃねーかな?」


 数だけを聞けば充分多く感じるが、聖ルキマンツ学園にいる不良の数は、在籍する六五〇人超の生徒数の七割に及ぶ。

 確かに夏凛の言うとおり、意外と少ない数かもしれないと思う。


「特に川藤みてーな奴は、いかにも弱い奴しか殴ったことがなさそうな感じじゃん? だから自分より弱い奴の反撃なんてたかが知れてると勝手に思ってそうだし、一方的に殴る経験は積んでても、殴られる経験はたいして積んでないから防御もザル。だから、史季くらいの脚力があれば、前蹴り一発で沈められるって思ったわけ」


 そう言って、なぜか夏凛がこちらの股ぐらに視線を向けてきて、史季は意味もなくキュッと股を閉じてしまう。


「まー、ハイキックが撃てるならそっちの方が確実だけど、さすがに柔軟体操とかあんまやったことねーだろ?」


 ああ、だから股ぐらを見られてたのかと思いながら、首肯を返す。


「だったら、今日から始めてみるってもいいんじゃねーの?」


 そう彼女に訊ねられたところで、史季は思わず瞠目した。

 地面に突っ伏していたはずの川藤が、突然起き上がってきたのだ。


「おぉぉおぉおりぃぃいぃいぃふうぅぅうううしぃぃぃいぃぃいッ!!」


 獣じみた怒号を上げながら、史季に殴りかかろうとする。

 そのあまりの迫力に、喉から「ひッ」と引きつるような悲鳴が漏れた刹那、


「……ッ!?」


 ハイキック一閃。

 夏凛の右脚が川藤の側頭部を捉え、今度こそ確実に昏倒させた。


「これくらい足が上がるようになれば、シキなら大抵な奴は倒せるようになると思うぜ」


 などとドヤ顔を浮かべる夏凛を前に、史季は、彼女から目を逸らしていた。


 重ねて言うが、夏凛はミニスカートを履いている。

 そんな服装でハイキックなんてやらかしたらどうなるか……とりあえず、パンチラ程度では済まないことだけは確かだった。


 微妙に頬を赤くしながら目を合わせようとしない史季の反応を見て、ようやく察した夏凛の顔がみるみる赤くなっていく。


「バ、バッカだなーおまえ。こんなん見せパンに決まってんだろ。だから見られて困ることなんてねーし恥ずかしくなんてねーし」


 見せパンというわりにはパンツの色は純白だったし、失礼だと思いながらも色については心底意外に思ったりもしたけれど、さすがに口に出すような愚は犯さなかった。


「そ、そもそもあたし、パンツ見られたくらいでギャーギャー言うほどガキじゃねーし。こんなスカート履いてるのも、ちょっと野郎どもを誘惑ゆーわくして遊んでるだけだしー」


 よくわからない強がりは、なおも続く。

 良くも悪くも不良らしく悪ぶっオラついているせいか、どうやら夏凛は周りから初心うぶだと思われたくないようだ。


 背伸びしたがる子供そのものな彼女のことを微笑ましく思っていたところで、はたと気づく。

 いつの間にか、あれだけ恐れていた〝女帝〟のことを、今はもう全く恐くなくなっていることに。


「と、とにかく! パンツのことはどうでもいいから、さっさとんとこ戻るぞ!」

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