第3話 女帝

 人気のない駐車場に連れて来られた史季は、


「折節の分際で舐めた真似してくれたなぁ、おい!」

「おぶッ!?」


 川藤に腹を蹴られた、たたらを踏みながらも後ずさる。

 普段ならそこで終わるところだが、


「おらッ!」


〝女帝〟の目がないのを良いことに、傷が目立つからという理由で今までは狙わなかった史季の顔面に拳を叩き込んだ。


「……ッ」


 慣れない痛みに顔をしかめながら、史季はなおも後ずさる。

 というか、下手に抵抗したり防御したりしようものなら、余計に川藤の不興を買ってしまうので、殴られ蹴られながらも後ずさる以外にできることはなかった。


「あぁ? 何痛そうにしてんだよ? こっちはてめえにブチかまされたせいで、肋骨が折れちまってるっていうのによぉ!」


「よぉ!」に合わせてパンチを繰り出し、史季は頬を襲った痛みに耐えながらも後ずさる。

 川藤の言う「ブチかまされた」とは、史季が黒髪の女の子を逃がすために仕掛けた体当たりのことを指した言葉だった。


 言うまでもないが、肋骨云々は真っ赤な嘘で、ただ史季をいつも以上に痛みつけるための口実にすぎなかった。


「にしても、ほんとにタフだね~折節く~ん」

「そろそろ、一回くらい派手にぶっ倒れるところが見てぇなぁ」


 学園外だからか、煙草を吸いながらも見物している取り巻きたちの要望に応え、川藤は肩を回しながら言う。


「まあ、見てなって」


 そうして繰り出したのが、相手が反撃も回避もしないことを前提にした豪快な右フック。

 左頬を殴られた史季の体が右に流れ、


「おぉおらッ!!」


 続けて繰り出した左フックが右頬に突き刺さり、史季の体が左に流れる。

 川藤はさらに交互にフックを繰り出し、殴られる度に史季の体がメトロノームのように右に左に流れていく。

 何度も頬を殴られたせいか、口の中は鉄の味に充ち満ちている。

 ここまでくると、歯がいまだ一本たりとも折れていないのが奇跡なくらいだった。


(早く終わってください早く終わってください早く終わってください……)


 ただそれだけを願いながら、殴られ続ける。

 できる限り現実に意識がいかないよう、殴られ続ける。

 現実から逃避することで、両頬を襲う痛みからも逃避する。


 僕のような弱い人間は、暴力に対して

 だから逃避する。

 ただただ早く終わることを願いながら、逃避する。


 やがて、殴られた回数が二〇に届こうとしたところで、川藤の動きが止まる。


「クソ……が……なんでまだ……立ってられんだよ……こいつ……」


 肩で息をしながら、忌々しげに吐き捨てる。


 それは現実から逃避してるから――と答えてやりたいところだけど、そんなことを言ったら余計な不興を買ってしまうだけ。

 そもそも今下手に口を動かそうものなら、それだけで頬や口腔に痛みが走るのが目に見えている。

 だから、何も言わずに現実からの逃避を続け――


「…………え」


 不意に視界に映った、川藤の後方にいるを見て、史季の意識は強制的に現実に引き戻されてしまう。

 の存在に気づいたのは自分だけではないらしく、取り巻きの二人は揃って咥えていた煙草を落としながら彼女を見つめた。


 史季たちの様子を見て、背後に誰かいることを悟った川藤は、「あぁ?」と無駄に凄みながらも振り返り――石像にでもなったかのように硬直する。


 なぜなら川藤の背後にいたは、


「じょ……〝女帝〟……」


 いつしかの史季と同じような反応をする川藤に、〝女帝〟こと小日向夏凛は心底嫌そうに表情を歪めた。


「だからなんで、どいつもこいつもその渾名で呼ぶんだよ」


 夏凛はTシャツの上に羽織ったスカジャンのポケットに両手を突っ込みながら歩き、無造作に川藤の横を抜け、史季の前で立ち止まる。


 口に咥えている白い棒、ミニスカートとプチルーズソックスは制服を着ている時と同じだな――と、史季は頭の片隅で場違いな感想を抱いていた。


「……んん?」


 誰も彼もが硬直したまま動けない中、夏凛は眉根を寄せながらも史季の顔を覗き込み、


「って、あの時のパシリくんじゃん!」


 素っ頓狂な声を上げながら、バシバシと史季の肩を叩いた。


「あたしにはあんだけビビり倒してたってのに根性あるじゃねーか。正直見直したぜ」


 正直今もビビり倒してます――とは、さすがに口には出さず、彼女がいったい何に対して「根性ある」と言ったのか訊ねようとするも、


「い……ッ!?」


 何十回と川藤に殴られてズタズタになった口腔が痛みを訴えてきたため、ろくに言葉を発することができなかった。


「あー、今は無理に喋んなくていいって。おいおい説明するから」


 言ってから、夏凛は川藤に睨むような視線を向ける。

 自分よりも一五センチ以上背が低い相手を前に、川藤はビクリと震え上がった。

 それこそまるで、川藤に睨まれた時の史季のように。


「おまえ、荒井あらい派閥とこで見た顔だな」


 またしてもビクリと震え上がる川藤をよそに、夏凛は取り巻きの二人に視線を巡らせる。


「つーことは、そこの二人も同じってわけか」


 言われて、二人揃ってビクリと震える。

 三人のビビりようを目の当たりにして、史季は改めて思う。

 史季にとって何よりも恐い川藤たちをここまでビビらせる彼女のことを、どうしても恐いと思ってしまう自分がいることを。


「このパシリくんさ、どう見たって不良って感じじゃねーよな? だからあの時怪しいなーって思ってたけど……やっぱだったってわけか」

〝あの時〟とは、先日パシらされた際に、彼女とぶつかりそうになった時のことを指しているのだろうと史季は思う。


「……そういうことって、どういうことだよ?」


 絞り出すような声で訊ねる川藤に、夏凛は凄みの帯びた声音で答えた。


「おまえらが、あたしに隠れて弱い者いじめなんて、くっだんねー真似してるってことだよ」

「……してたからって、てめえに何の関係がある?」

「関係はねー。けど気に入らねー。だからぶっ潰す」

「はッ。てめえのやってることも、大概に弱い者いじめじゃねえか」


 我が意を得たりとばかりに反論する川藤に、取り巻きの二人が「そうだそうだ」と小声で同調する。

 そんな川藤たちを前に、夏凛はため息をつく。


「そう言われると、ちょっと耳がいてーな」


 その言葉に、川藤たちは安堵しかけるも、


「だったら言い方変えるわ。おまえらが人気のないとこに無理矢理連れ込もうとしてた、キレーな黒髪の女子がいただろ? あれ、あたしの後輩なんだわ」


 次の瞬間、三人揃って色を失った。


「まー、あたしに隠れてコソコソ弱い者いじめしてるようなおまえらが、そこまで真似なんてできやしねーとは思うけど……」


 ツリ目がちの双眸を据わらせながら、言葉をつぐ。


「うちのかわいい後輩に手ぇ出そうとしたことに変わりはねーからな。ちょっとヤキ入れる程度じゃ済まねーぞ」


 この場においては誰よりも体が小さい夏凛を前に、史季は勿論、川藤も、取り巻きの二人も気圧されていた。


「あ……あぁ……ああああぁッ!!」


 夏凛の〝圧〟に耐えられなかったのか、取り巻きの一人が発狂したような声を上げながら彼女に殴りかかろうとする。


「下がってな」


 言いながら、夏凛は史季の体を軽く押す。

 その圧力に逆らう気すらなかった史季が、よろめくようにして後ずさっている間に、夏凛はどこからともなく取り出した鉄扇を、迫り来る取り巻きに投擲。

 閉じた鉄扇の先端が鼻っ柱に直撃し、相手の動きが一瞬止まる。

 その時にはもう肉薄していた夏凛は、新たに取り出した鉄扇の先端で鳩尾を突き、一撃で昏倒させた。


「くそぉおぉおおおぉおぉッ!!」


 相方をやられたからか、取り巻きの片割れが半ば破れかぶれになりながらも、背後から夏凛の後頭部目がけてパンチを繰り出す。が、あたかも後ろに目がついているかのように、彼女はその場で旋転してパンチをかわした。と同時に、先程投擲して地面に落ちようとしていた鉄扇をキャッチ。

 旋転の勢いをそのままに鉄扇を振るい、こめかみを殴打することで、相方と同じように取り巻きの片割れも一撃で昏倒させた。


 あくまでも史季が小耳に挟んだ程度の情報だが、夏凛は小日向流古式戦闘術なる怪しい古武術に、我流のケンカ殺法を組み合わせることで、聖ルキマンツ学園の猛者たちを相手にしてなお無法の強さを誇っているという話だった。

 確かに彼女の戦いぶりは、川藤ら不良とは一線を画していると史季は思う。


 川藤は以前にも夏凛のケンカを目の当たりにしていたのか、取り巻きの二人がやられてなお動くに動けない様子だった。


 そんな川藤に夏凛は堂々と背を向けると、左手の鉄扇をスカジャンのポケットに仕舞い、右手の鉄扇を拡げてパタパタと自身を煽ぎながら史季のもとに歩み寄る。


「今ここであたしがあいつをシメても、ほとぼりが冷めたらまたあたしの見えないとこでまた――ってことに、なるかもしんねーからな」


 言わんとしていることがわからず困惑している史季を尻目に、夏凛は見もせずに川藤を左手の親指で指し示しながら、とんでもない提案をしてくる。


「だからあの不良バカ、あんたが倒しな」

「…………はい?」

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