第2話 休日

 史季は一人暮らしがしてみたいという欲求から、高校受験の際は全て実家から遠く離れた高校を選んだ。

 最後の滑り止めとして聖ルキマンツ学園を選んだのは、嘘かまことか願書さえ出せば入試を受けなくても入学できるという噂を聞き、全ての志望校に落ちるという最悪の事態に備えた結果であることはさておき。


 史季の下宿先は、どこにでもあるようなワンルームマンションだった。

 お世辞にも広いとは言えないが、実家の自室によりも自分の城という感じが強いおかげで、一年以上経った今でもそれなり以上に気に入っていた。


 その自分の城を、史季は軽い足取りで後にする。

 制服姿ではなく、パーカー付きのトレーナーにジーンズという私服姿で。


 う。本日は日曜日。

 だから、外に出る時間が十一時を過ぎていても問題ないし、川藤たちのことを気にする必要もない。

 いじめのせいで友達なんて一人もできていないが、その原因となる川藤たちと会わずに済む休日は、史季にとっては紛うことなく天国だった。


 繁華街へ向かい、その場のノリで今日の昼食を決め、お腹を満たしてから、予約していたゲームソフトを買いに行くという流れに決めた史季は、軽い足取りをそのままに町を行く。


 繁華街に辿り着き、大通りを歩いていると、以前から気になっていたラーメン屋の行列がいつもよりも格段に短い様子を見て、今日の昼食はここで食べることを決めるも、


「!?」


 道行く先に、川藤と取り巻きの姿が見えた瞬間、史季はナイフを喉元に突きつけられるような恐怖に襲われ、その場で硬直する。が、このまま固まっていては川藤たちに捕捉されてしまうので、できる限り平静を装いながらも早足で路地に逃げ込んだ。


 どうか向こうは気づいていませんようにと祈りながら路地の奥へと進み、こういう状況に備えて着てきたパーカーのフードを目深に被る。

 進んだ先にあった十字路を右に曲がり、建物の陰に身を隠しながらも川藤たちがこちらに来ていないことを確認したところで、史季は深々と息をついた。


 同じ町に住んでいる以上、休日に川藤たちを見かけるのはこれが初めてではないが、だからといって慣れるはずもなく、稀に彼らを見かけては今のように寿命が縮まる思いをしていた。


 遠出して別の町に行くという手もあるが、そのための足が史季にはなく、電車を使うにしてもお金がかかる以上毎回というわけにはいかない。

 川藤たちを恐れて、休日をマンションの自室で一人寂しく過ごすのも、それはそれで気が滅入ってしまう。


 どのみち彼らと出くわす確率なんて両手の指の数よりも低いのだから、気にしすぎても仕方がないと思い、外出しているわけだが……こうして実際に出くわしてしまうと、今日という幸せな日を台無しにされてしまった気がして陰鬱になる。

 そのストレスのせいか、胃が疼痛とうつうを訴えてきているような気がする。

 当然食欲は綺麗さっぱり消え失せており、ラーメンなんてとてもじゃないが食べられる気がしなかった。


 下手に動いて鉢合わせになってしまったらそれこそ最悪なので、史季は今しばらくの間は十字路に留まることにする。

 ここなら、仮に川藤たちが路地に入ってきても、いくらでも逃げ道がある。それゆえの判断だった。


 それからしばらく周囲の警戒をしていると、史季が路地に入ってきた方角から川藤の取り巻きたちがやってくるのが見え、慌てて建物の陰に隠れる。

 取り巻きたちに続いて川藤も路地に入ってくるのが見えた瞬間、史季はすぐさまその場から逃げ出そうとするも、


「……! あれは……」


 川藤に手を引かれ、無理矢理路地に連れ込まれている女子の姿を見て、思わず踏み止まる。


 濡れ羽のように黒い髪は腰に届くほどにまで長く、顔立ちは遠目から見てもわかるほどに整っている、美少女というよりも美人という印象を強く受ける女子だった。

 川藤との身長差から察するに、背丈は史季よりも少し低い程度――成人女性の平均よりはやや高い一六〇半ばほどもあり、顔立ちと相まって、雑誌のモデルだと言われたら多くの人間がそのまま鵜呑みにすることだろう。

 髪と同色のキャミソールワンピースに白いシャツと、品の良さが滲み出た服装をしている一方で、その下にあってなお自己主張の強い胸は、川藤のような輩どもに下品な妄想を駆り立てさせるには充分すぎる大きさだった。


 年齢の方は、パッと見は女子大生くらいに見えるが、


「や、やめてください……!」


 時折聞こえてくる抗議の声が、紛うことなく少女のそれだったので、同い年くらいか、下手をすると年下かもしれないと史季は思う。


(というか……これってさすがにまずいんじゃ!?)


 あくまでも噂で聞いた程度の話だが、〝女帝〟がトップを張る現在においても、聖ルキマンツ学園の不良どもの中には不純異性交遊に走る輩が少なくないとのことだった。


 今の川藤たちは、〝女帝〟の目を気にする必要がない。

 ナンパと呼ぶには強引すぎるやり口や、人気の少ない路地裏に連れ込もうとしていることも含めて、どうしても最低最悪の想像が脳裏をよぎってしまう。


(でも……僕にいったい何ができるっていうんだ……)


 自分は川藤たちにいじめられている、ただの弱者に過ぎない。

 そんな自分が助けに入ったところで、返り討ちに遭うだけなのは目に見えているし、川藤たちの不興を買うことも目に見えている。


 おまけに〝女帝〟の目を気にする必要がない状況だから、どれだけひどい目に遭わされるのかわかったものではない。

 ここは今すぐ路地を離れて、助けを呼ぶのが正解だ。


(だけど……)


 助けを呼んでいる間に、川藤たちが黒髪の女の子をどこかに連れ去ってしまったら?


 そのせいで、女の子の尊厳が踏みにじられるようなことになってしまったら?


 心にも体にも一生消えない傷をつけられてしまったら?


 次々と湧いて出てくる最低最悪の想像が両脚をその場に縫い止め、川藤たちに立ち向かうことも、川藤たちから逃げることもできなくなってしまう。


 そうこうしている間にも、川藤は力尽くで女の子の手を引きながら、取り巻きの二人とともにこちらに近づいてくる。

 女の子を助け上げたいという思いと、川藤たちが恐いという思いが史季の中でせめぎ合う。


(ここは今すぐ逃げて、助けを呼ぶのが絶対に正解なんだ! それが僕にできる精いっぱいなんだ! 間に合わなかったとしても、それは仕方のないことなんだ!)


 そう自分に言い聞かせる一方で、


(……でも、もし女の子が、僕が川藤くんたちにやられてることよりも、もっとひどい目に遭ってしまったら……)


 たぶん、一生後悔することになると思う。

 女の子を逃がしたことで川藤たちが激昂し、ひどい目に遭わされることよりも余程重い後悔を。


 そこに思い至った瞬間。

 史季の内にある、そこそこの正義感と、そこそこ以上にお人好しな性分が、川藤たちに対する恐怖を、ほんのわずかに上回った。



「おぉおぉおおぉおぉおぉおおぉッ!!」



 気がつけば、雄叫びを上げて川藤たちに突進していた。


 ビビった取り巻きの二人が都合よくも左右に逃げてくれたので、勢いをそのままに川藤に体当たりをぶちかます。


 不意をつけたからか、上背の川藤が派手に地面を転がるも、彼に腕を掴まれていた女の子も一緒に地面を転げてしまう。が、その拍子に川藤の手が女の子から離れたので、史季は彼女に謝るよりも先に、この言葉を投げかけた。


「逃げてッ!!」


 女の子はビクリと震え、オロオロし始めるも、


「早くッ!!」


 もう一度叫んだところで、「ご、ごめんなさい!」と返しながらも、すぐさま起き上がって大通りの方へと逃げていった。


「待ちやがれッ!!」


 川藤が怒声じみた声を上げながら立ち上がろうとしていたので、史季は慌ててしがみついて再び引き倒す。

 決して広いとは言えない路地で史季と川藤が揉みくちゃになっているせいで、取り巻きの二人も女の子を追えないでいた。


「邪魔だ、クソがッ!!」


 振り払うようにして放った川藤の肘打ちが鼻っ柱に直撃し、史季は鼻血を舞い散らせながらも仰臥する。


「折角上手くいきそうだったってのに邪魔しやがってッ!! 覚悟はできてるんだろうなぁッ!? あぁッ!?」


 凄みながらも立ち上がる川藤をよそに、取り巻きの一人が史季を見て片眉を上げた。


「おいおい! パーカー被ってたからわかんなかったけど、こいつ折節じゃねぇか!」

「はぁッ!?」


 川藤はますますブチギレた声を上げながらも、涙目になって鼻を押さえている史季の手を力尽くでどかし、襟首を掴んで強引に立ち上がらせる。

 鼻血を流しているせいか、史季の顔を間近でマジマジと睨んでもまだピンとこなかったらしく、乱雑にパーカーのフードを脱がし……そこでようやく気づく。


「マジで折節じゃねえかッ!!」


 突き飛ばされ、史季は再び地面に仰臥する。

 鼻にツンとくる痛みと血臭のせいか、起き上がる気力すら湧いてこなかった。


 だけど、女の子を逃がすことはできた。

 それだけで充分だと思った。思うことにした。

 でないと、これから自分の身に降りかかる災厄に立ち向かえる気がしなかったから。


「こいつは落とし前をつけてやらねえとな……もう少し行ったところに駐車場があったはずだ。このグズ、そこに連れてくぞ」


 取り巻きの二人は揃って首肯を返すと、二人がかりで史季を立ち上がらせて歩き出す。

 二人に続く形で、川藤も唾を吐き捨ててから歩き出した。


 史季を連れ去っていく三人の背中を、


「先輩……早く出てぇ……」


 大通りに逃げたはずの女の子が、建物の陰からこっそりと見張っていた。

〝先輩〟なる人物に電話をかけているのか、スマホを耳にあてながら。

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