ラくなきジれんまオとことヲんな

Tsuyoshi

第1話佐藤と美加

 真夜中の山中。木に吊るされたロープに月明りが照らす。木の下には古いラジオが捨て置かれていた。土埃で薄汚れている。

 生気を失った少女が果物ナイフを片手に山の中を徘徊していた。その瞳には光が無く、焦点の合わない目で静かに暗い木々の間を歩く。

 ふと、少女は一本の木の前で立ち止まった。月明りに妖しく照らされたモノに惹かれたのか、少女はその場から動かなかった。彼女は無気力で不気味な表情のまま黙って俯いた。



 翌朝、オフィス街の一角にあるビル。入口の看板には手を取り合うイメージのロゴと「わかちあい生命」と書かれている。

 営業課のオフィス内では、簾(すだれ)のような髪型をした中年男性の黒崎が営業課の社員達の前に立って朝礼をしていた。彼の背後には営業成績が棒線で表されたグラフが貼られていた。

 黒崎はこの課の課長で、営業成績の良い社員を表彰していた。機嫌良くその社員の肩を叩きながら、他社員に見習うようにと話をする。


「次、佐藤」


 黒崎は佐藤という名前を不機嫌で怒号に近い声で呼んだ。営業成績のグラフの下には名前が書かれており、佐藤の棒線だけ、周りに比べて著しく短い。

 呼ばれた佐藤は見るからに気弱そうな三十半ばといった瘦せ型の男だった。彼は怯えるような震えた声で返事をし、社員達の前に出る。


「佐藤・・・・・・何で呼ばれたか分かってるよな⁉」

「はい・・・・・・・・・」


 佐藤は俯きがちな姿勢で弱々しく返す。


「何だ、その態度は‼ お前舐めてんのか⁉」

「い、いえ・・・・・・黒崎課長。そんな事は・・・・・・」


 佐藤の態度が気に喰わないのか、黒崎の圧が更に強くなる。


「そんなとこで突っ立ってないで、さっさと謝れよ!」


 黒崎は佐藤の肩を掴み、強く下に押しやる。佐藤もなすがままに正座をさせられる。


「・・・・・・も、申し訳ありませんでした!」


 佐藤は正座のまま頭を下げて、震える声を張り上げて謝罪の言葉を口にした。

 しかし、黒崎は気に入らないのか、


「お前、もっと他に言う事ないのか。え? それに、何だ。それで謝ってるつもりか。いい歳して謝罪の仕方も分からんのか、お前は」


 黒崎は佐藤の腕を掴んで、彼の手の平を床につける。彼の暴言や行動に、佐藤は顔がカーっと熱くなり、動悸が激しくなる。身体の震えが止まらなかった。


「・・・・・・・・・い、いつも、皆様の足を引っ張ってしまって、申し訳ありませんでした! 私はっ、皆さまの、おか、お陰で、生活させて頂いております!」


 興奮にも似た緊張状態のせいで上手く呂律が回らない。それでも佐藤は自分自身を卑下しながら、周りの社員達に謝罪の言葉を絞り出す。


「お前さぁ・・・・・・違うだろ? ご! め! ん! な! さ! い! だろ」


 黒崎はそんな佐藤に追い打ちをするように叱責しながら、土下座する佐藤の髪を掴んで、六度、床に彼の額をぶつけ続けた。


「ノ・・・・・・ノルマ、を・・・・・・達成出来なくて、ごめんなさい!」


 佐藤は唇を噛み締める。頭が真っ白になり、心臓が更に速くなるのを感じた。彼はこの屈辱に震えながら、謝罪と自身を卑下する言葉を吐き続けた。


「おい、お前。いつまでそうやって仕事サボってるつもりだ?」

「え・・・・・・」

『・・・・・・・・・・・・』


 そんな黒崎の口振りに社員達は理不尽と感じながらも、誰も何も言わない。ノルマを達成出来なければ、自分も同じ目に遭うからだ。

 佐藤はその理不尽な言葉に対して、苛立ちと安堵が入り混じった感情を抱えながら、自分のデスクに戻ろうと立ち上がった。


「佐藤。お前の携帯出せ。社用じゃなくてお前のだ」


 黒崎が社員達の前で佐藤にプライベート用のスマートフォンを出すように要求した。


「・・・・・・はい・・・・・・」


 佐藤は上司に言われるまま、渋々スマホを出す。それを見た黒崎は、佐藤に電話帳のページを表示させ、その中にある家族や友人、恩師にさえも営業をかけるように指示をした。


「お客サマはたくさんいるじゃないか・・・・・・お前、こいつらから契約取ってこい」

「い、いえ・・・・・・それは」


 それには当然、嫌がる佐藤だったが、


「ああ? 今日中に残りのノルマを達成出来るのか?」


 と、黒崎が鼻では笑いながら佐藤に憎たらしい邪悪な笑みで問いかける。佐藤はそれに対して何も言えず、ただ俯き震える事しか出来なかった。



 佐藤は外回りをする為に会社を出る。


「こんにちは。わたくし、わかちあい生命の『サトウ』と申します。本日は保険の・・・・・・」


 住宅地を訪れ、個人相手で営業をかけるが、保険の営業と言うだけで断られる。

 何度も何度も・・・・・・しかし、少しでも契約を取って売り上げ伸ばさなければ、また黒崎の酷いパワハラが待っているのが容易に想像できた。

 佐藤はついに自分のスマホを取り出し、震える指で友人に営業の電話をかける。


「・・・・・・もしもし、久しぶり」


 最初は何気ない会話を切り出すが、終始隠し切れない震える佐藤の声に、友人からは何度も心配された。彼はその度に、大丈夫と取り繕おうとする。世間話を続け、友人の様子の頃合いを見て、突然本題を切り出した。しかし、彼のあまりにも不自然な切り出し方に、


「あぁ、そういう事ね。あれか、ノルマってやつか。そういう事する奴だと思わなかったわ」


 佐藤に嫌味を言って電話を切る。


「・・・・・・・・・僕だって、こんな事・・・・・・したくないよ」


 佐藤は深い溜め息をついて、スマホを仕舞おうとする。しかしポケットにスマホを入れる瞬間、佐藤の脳裏に黒崎の顔がちらつく。足が、身体が、ガクガクと震え始め、手が痺れたような感覚に襲われて、思わずスマホを落としてしまう。

 彼は上司への恐怖に怯えながら、割れてしまった画面に別の友人の番号を表示させ、発信アイコンを躊躇いがちにタップする。


『お掛けになった電話番号への通話はお繋ぎ出来ません』


 どうやら着信拒否をされていたようで、無機質なアナウンスが流れてくる。思ってもみなかった音声に耳を疑い、佐藤は何度も掛け直してみた。しかし、何度も同じ音声が流れてくる。

 親しかった人から拒絶されたように、彼の心は音を立てて割れていく気がしていた。


「・・・・・・そうだね。逆の立場だったら僕も・・・・・・ああ。そうだ、あの伯母さんなら・・・・・・」


 家族や親戚は流石に巻き込みたくなかったが、彼は断腸の思いで親戚の伯母に連絡をする。

 最初は彼の近況を聞かれるような会話だったが、佐藤が電話の目的を話し始めると和やかな空気は一変して、伯母が急によそよそしい態度を取り始める。

 結局、やんわりとだが断られてしまう結果となった。

 気付けばすっかり日も暮れてしまい、辺りは薄暗くなっていた。結局、その日取れた契約は一つもなかった。このまま会社に戻るのが怖いと、佐藤の足は無意識に駅に向かっていた。



 佐藤はベンチに腰かけ、無気力な顔でぼうっと向かいのホームの先を見つめていた。

 日々溜まり続ける疲労。日常的な睡眠不足。上司からの度重なるパワハラ。ノルマの重圧。



『夜中までオフィスのデスクで契約プランを作り直していた日々・・・・・・。

 外回りの営業をあくせくとこなしては、人に頭を下げていた日々・・・・・・。

 資料や報告書の羅列した文字が頭を駆け巡るような、佐藤の脳内でグルグル、ぐちゃぐちゃとそれらの記憶と感情が混じり合う。

 薄暗い部屋へ帰宅する彼を、温かく迎えてくれる家族はいなかった。』



 そして、佐藤の中で何かがプツリと音を立てた。


『・・・・・・まもなく電車がまいります。白線の内側におさがり下さい』


 佐藤は不意に立ち上がり、フラフラと歩き出す。目は虚ろとしており、彼の耳には周りの音が遠く感じる。電車待ちをしている人達が佐藤を見て何か話している。でも彼にとっては遠い声、はっきり聞こえない雑音だった。

 ホームの異変に気付いた電車が警笛を鳴らす。

 しかし彼はそれすら聞こえていない様子で、白線を越える。

 耳をつんざくようなブレーキの金属音が構内に響く。


(これで楽になれる・・・・・・・・・)


 佐藤の体が線路上に飛び出そうになった瞬間、急に誰かに手を引かれ、生に引き戻される。彼を引っ張った手の主は、女装をした中年男性だった。彼の表情は驚いているような、怒っているような顔をしていた。


「・・・・・・・・・‼ ・・・・・・・・・‼」


 女装の中年男性は佐藤の両肩を掴んで、彼の目をしっかり見据えて怒っていた。しかし茫然自失になっている佐藤には、彼が何を言っていたのか理解出来なかった。

 佐藤は彼の手をほどき、無言のまま駅のホームを去っていった。

 あてもなく夜の街を歩いて行く佐藤。

 この日、佐藤は会社にも自宅にも戻る事はなかった。

 夜の繁華街を歩く佐藤の後ろ姿は、どんどん人気(ひとけ)の無い方へ向かって行く。



 街には無いキーンとした肌寒い空気、枯れ葉を踏む音、湿った土のにおい。

 木々が生い茂り、月の光もあまり届かない山中で、佐藤はあてもなく彷徨っていた。

 ふと、古いラジオとロープが掛かった木が月明りに照らされているのが彼の目に入る。まるで何かに導かれるように、佐藤は木に近づく。そのまま縄に手を伸ばそうとした。

 その時、背後から自分に近づく足音があることに気が付いた。佐藤はゆっくりと振り返る。

 彼の背後には、血に塗れた果物ナイフを持った少女が立っていた。

 少女を見ると、髪は脂ぎってボサボサ、服も薄汚れて、痩せこけていた。枯れ木のような細い腕には、赤い横筋があり、そこから痛々しく血が流れてポタポタと落ちていた。


「・・・・・・ねぇ、私と一緒に死んでくれる?」


 少女がか細い声で佐藤に声を掛けた。


「・・・・・・・・・君は?」

「・・・・・・美加・・・・・・・・・」


 二人の傍(かたわ)らで、古いラジオが小さくジジッと音を立てて電源が入った。



 空が白む早朝。サラリーマンの男が大きな欠伸をしながら歩いている。これから会社へ向かう彼は耳にワイヤレスイヤホンを着けて音楽を聴いている。

 突然、ブチッと音を立てて、それまで流れていた軽快な音楽が消えた。


「あれ、電池切れかな?」


 と片方のイヤホンを外して、バッテリー切れを疑うも、特に故障している訳でもなく、目立った異常はない。彼は訝(いぶか)しげな顔をして、もう片方も外そうとした時、耳に残るイヤホンから何かが聴こえてきた。


『い、ぎ・・・・・・ぐ・・・・・・が・・・・・・』


 男女ともつかない不気味なしゃがれ声で、人生を絶望した独り言のようなものが聞こえてくる。誰かに対する恨み辛みが聴こえてきたかと思うと、今度は急に沈黙が訪れた。

 しかし、声が聞こえていないだけで、風や草木の擦れる環境音は聴こえており、イヤホンの電源が落ちていない事が窺える。


「え? 一体何だったん・・・・・・」


 男がそう言いかけた時、彼の声に被せて、


『もう嫌だああああああああああああああああああ‼』


 突然、濁音にまみれた絶叫が彼の耳をつんざいた。


「うわっ!」


 男は不気味な絶叫に驚いて、耳のイヤホンを地面に勢いよく叩きつけた。アスファルトにカンッと音を立てて、地面を転がる。イヤホンからは苦しみ悶え、後悔する声が聞こえていた。


『あああぁあぐぁ・・・・・・ううああああ! イヤダあ、やっばり死にたくないいいいいい! イダイイダイイダイイダイ・・・・・・! たす・・・・・・助け・・・・・・だずげ』


 声の主が助けを求めている途中で、ブツッと音を立てて・・・・・・再び軽快な音楽が聴こえてきた。男は戦慄した表情で地面を転がるイヤホンを懐疑的に見つめていた。



 同時刻、駅のホームでは会社員や学生達がひしめき合っている。大勢の人の中には、イヤホンやヘッドホンを着けて音楽や動画を視聴する人も多く見られた。

 そんな人達にも先程のサラリーマンの時と同じような障害が起きていた。


「何この声? お前らも聞こえる?」

「え? 何が?」

「なんかさっきからじいさんみたいな声が聞こえるんだよ」

「俺も聴こえる・・・・・・あっ、声変わった」


 奇妙な会話が聴こえてくる。どうやらそれはワイヤレスのブルートゥースがついた物だけのようだった。彼らの耳に届いていたのは、はじめは老人の声だったのだが、途中で急に若い男女の話し声に切り替わる。まるでラジオのCMが途切れて、放送が始まるかのように。

 ひたすらに重たい空気の中、長い間を開けながら、男女が交互に呟く。内容も聞き取れるか聞き取れないようなか細い声で、ボソボソと何かを喋っていた。



 その頃、佐藤の勤める会社では、佐藤が無断欠勤をしている事に上司の黒崎は憤慨していた。彼の携帯に何度も電話するが、佐藤は全く通話に出ない。


「っの野郎! ふざけやがって!」


 彼がしつこく連絡するのには理由があった。今日は佐藤が受け持つ商談があり、その資料を彼が持っているからだ。佐藤に対する心配など微塵もしていない。黒崎は佐藤の安否よりも、商談をまとめる為の資料の方が重要なのだ。



 山奥では、木に背もたれて佐藤と美加が虚ろな目をして座っていた。

 佐藤のスマホがずっと鳴っている。古いラジオも同調するように小さな信号が点滅している。


「・・・・・・・・・でないの?」


 美加が少し怪訝(けげん)そうに眉をひそめて、佐藤に問いかける。佐藤はそれに答えるように無言で着信を拒否した。


「・・・・・・・・・・・・」

「アタシさ・・・・・・サルミアクチーってレストランで働いてたんだけど、仕事辞めたんだ」


 美加は突然、自分の事を佐藤に話し始めた。なんで話し始めたのか、美加自身にも分からなかったが、きっとただ吐き出したかったのだろう。


「・・・・・・レストランってさ、カッコイイとか華やかなイメージがあって。アタシもさ、子供の頃から憧れてて・・・・・・でも、いざ自分がその業界に入ってみたらさ・・・・・・」


 彼女は自分の受けて来た仕打ちを語り出す。飲食店の社員だった彼女は、中年の女性店長からの陰湿ないじめや、パワハラを受けてきた事を吐き出した。


「なにがアットホームな職場よ・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・開店二時間前から閉店二時間後までの勤務に加え、短い休憩時間中ですら何かしらの業務をやらされる。休みも週休一日と半日。もともと長い拘束時間のせいで半休でも普通に一日出ているようなものだったわ。残りの一日も・・・・・・他のスタッフ達の急な休みや、予想していた人員で回せない場合にも駆り出されたりした・・・・・・振替休日も無かった」

「・・・・・・そうなんだ」

「やりがい? そんなものあるわけない・・・・・・あのババア。アタシが配膳中に足を掛けてわざと料理を落とさせて客の前で叱責したり、適当な引き継ぎや、前任がミスしたまま引き継がせて尻拭いをさせるなんてのもあった。些細なミスで人格を否定するような暴言を他のスタッフ達の前で言われた」

「・・・・・・・・・・・・」

「故意でなくても、壊れた備品があれば弁償代として給料から天引きされた・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・つらいね」

「・・・・・・業務の役割もかなり曖昧だった。社員の業務でもアルバイトやパートに仕事を割り振り、ちゃんとキッチンやホールで人員を分けているのに、最終的にどちらもやらせるように指示される。私のような社員にも、フツウの社員業務の他に店長業務を丸投げされ、こなせなかったら損失が出たと文句をつけられた・・・・・・他のスタッフの前でも土下座を強要された。殴る蹴る等の暴力もあった。酷い時は後頭部を踏みつけられたりもした・・・・・・」


 美加は身を震わせて膝を抱えて顔を埋めた。

 美加の脳裏に病院で医師に診断された事が回想される。

 ヘルニア直前の腰痛。ストレスによる胃潰瘍。睡眠不足による睡眠障害。そして鬱病・・・・・・。


「・・・・・・若い男のスタッフとか、部長とかには良い顔する癖に・・・・・・若い女は気に喰わないのか、あのマネージャーのクソババアは・・・・・・・・・アタシを何度も何度もっ・・・・・・‼」


 語るうちに再び憎悪が生まれ、美加の体が小刻みに震え始めた。


「・・・・・・うあああああああああああっ‼」

「・・・・・・・・・・・・‼」

「嫌だ嫌だ嫌だ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ‼」


 突発的に発狂して立ち上がり、佐藤の目の前で美加は持っていたナイフで自身の腕に新しく赤線を深く引いた。


「・・・・・・・・・・・・うぅっ」


 傷の痛みや、そこから流れる血で生を実感しているのか。美加は徐々に落ち着きを取り戻していった。



 繁華街のとあるオカマバーでは、五木が開店準備をしていた。店内はアニメやゲームのキャラクターのポスターやフィギュアが壁やカウンターテーブルに飾られている。

 五木はこのオタク向けオカマバーのママで、営業前に簡単な料理の仕込みや、氷のカット、清掃等を一人でしている。他のスタッフが来る前に全部済ませるのだ。今日はカラオケ設備の点検と修理でメンテナンス業者の田中を呼んでいた。


「少し劣化が見られましたが、これぐらいなら問題ないですね」

「田中ちゃん、いつもありがとねー。そうそう、それで、さっきの話だけどね」

「あぁ、駅で飛び込みしようとした人がいたんですよね? 大変でしたね・・・・・・」


 田中がカラオケ機器やスピーカーの電源を落として、五木の方に振り向く。


「そうなのよー、ほんとびっくりしたわよ! ホームに引き戻した後もぼーっとしててね。あれは人生に絶望したって顔だったわ。あの後、何も言わないでどっか行っちゃったけど、大丈夫だったのかしら、あの人」

『ザッ、ザザッ・・・・・・僕は・・・・・・課長が・・・・・・』


 突然、店内のBGM用のスピーカーを通して、謎の声が流れ始めた。

 五木が田中の方を見ると、田中は首を横に振る。


『・・・・・・アタシの・・・・・下して・・・・・・ザザッ』


 田中と五木がスピーカーの電源を見る。すると、先程の点検の際に田中が消していたはずの電源が点いていた。


「やだ、なにこれ。気持ち悪い」


 気味悪がりながら、五木が電源を切る。しかし電源を落とした傍からすぐに点く。そして再び鬱々とした声が再び流れ始めた。


「キャッ! なによ、これ。一体どうなってるの?」

「・・・・・・わかりません。でも何か話してませんか?」


 田中に言われ、五木が耳を澄ませてスピーカーの音をよく聴いてみると、男女の会話のようだった。しかし、痴情(ちじょう)のもつれとか、そういう雰囲気ではない。


『・・・・・・辞めたんなら、もういいじゃないか。僕は・・・・・・逃げたんだ』

『辞めても、辞めなくても・・・・・・・・・壊れてしまえば一緒よ』



 森の中で、佐藤は美加の手首から流れる血を無気力な目で、ただ呆然と眺めていた。


「・・・・・・壊れていまえば一緒・・・・・・・・・か」


 彼女の先程の言葉が、佐藤の中にすとんと落ちてきた。

 美加の言葉を受けて、彼の中でも一つの結論に達した。

 佐藤は膝に手を当て立ち上がり、木にかかっているロープに向かってよろめき躓きながら歩いていった。そんな彼の様子を美加は無気力な目で見ていた。

 佐藤は黙ったまま、ロープに手をかける。

 前の使用者は多分小柄な人だったのだろう。佐藤が背伸びしただけで、首に縄をかける事が出来る。ぐいっと無理矢理、首に縄をかけて足から力を抜く。佐藤の首にグッと食い込んだ。


「・・・・・・・・・ぐっ。・・・・・・・・・グググ・・・・・・カッ・・・・・・・・・かひゅっ・・・・・・・・・」


 だが、しっかりと頸動脈に縄が締まっておらず、気道を塞いでいるだけで、ただただ苦しいだけだった。苦しさで悶える佐藤は声も出せず、辛うじて息を漏らすだけだった。



 佐藤の苦しむ様子が音となり、イヤホンやスピーカーを通じて、様々な人の耳に強制的に届けられる。それを耳にした者の中には、突然の怪奇現象を気味悪がる者や生々しい息遣いに嫌悪感を抱く者、人の死の瞬間だと興奮を覚える者さえもいた。

 この佐藤の苦痛に悶える声は、スピーカー越しに五木や田中の耳にも届いていた。   一連の流れを聞いていた二人は、これはただ事じゃないと判断した。


「ちょっと! 田中ちゃん、コレどこから流れてるか分からないの⁉」

「調べてみます!」


 田中は自身のタブレットとノートパソコンを開いて原因を探る。その間にもスピーカーから男の苦悶の音が流れていた。


「まだわからないの⁉ 早くしないとホントに死んじゃうわ!」


 五木がパソコンとタブレットを操作する田中を急かす。画面には難しいワードやよく分からない数字が並んでいる。


「・・・・・・原因がわかりました!」


 それまで集中していた田中が声を発した。


「さすが田中ちゃん!」

「・・・・・・・・・ただ、信じられない話かもしれませんが、何かがブルートゥースを搭載した機器をジャックしています」

「どういう事?」


 五木が訝しげな顔で尋ねる。


「・・・・・・正確には、スマホや音楽機器からブルートゥースに送られる周波を遮断して、何かが自身の周波を強制的に受信させていると言った方が正しいですね」


 田中は周波数をジャックしている原因の物がある場所の位置を逆探知で調べ始めた。今度は地図のような画面に切り替わる。田中は立ち上がり、タブレットを片手にその場で時計回りにゆっくりと回転する。

 スピーカーからは、山中と思われる音が鳴っていた。虫の鳴き声、枯れ葉ごと土を蹴る音。それに合わせて、漏れる吐息の風切り音。軋む縄や枝の音。何かを引っ掻くような音。しかしそれは徐々に、少しずつ、弱くなっていく。


「ママ! 発信源の位置がある程度分かりました!」


 田中が場所を推測した。ジャック周波の方向、環境音から、出所が車ならそう遠くない山の中であろう事が分かった。



 森の中では、地面に落ちた佐藤のスマホが鳴っている。


「ゲホッ、ゲホッ・・・・・・ゴホッ! オエッ、ゴボッ」


 スマホの近くには切れた縄の端・・・・・・その側で大の字に倒れて、咳込んでいる佐藤がいた。彼の鬱血した紫の顔が、徐々に赤みに変わっていき、吐瀉物(としゃぶつ)も咳と一緒に吐き出す。

 その間も彼のスマホはずっと鳴り続けていた。美加は少々鬱陶(うっとう)しそうに顔をしかめて耳を塞いでいる。佐藤は回らない頭のまま、顔を横に向けてスマホを見やる。そこには母と表示されていた。力無く寝返りを打つように、スマホの画面をタップする。


「やっと繋がった! アンタ、一体何してるの!」


 触るところを間違えて、通話がスピーカーモードになっているようだった。佐藤の母親の声が静かな山中に響く。


「アンタの勤めてるわかちあい生命の課長さんから、アンタが無断欠勤していて連絡が取れないって電話があったわよ! せっかく苦労して、叔父さんのツテで入れたんじゃない・・・・・・会社に迷惑かけちゃダメじゃない!」

「・・・・・・・・・・・・」


 母親の言葉で佐藤の脳裏に、人を見下すような厭(いや)らしい笑みを浮かべた黒崎の顔がよぎる。佐藤の母親は彼を咎(とが)めるような話を続けていた。しかし、佐藤は途中から母親が何を言っているのか理解出来ない、いや、言葉そのものが理解出来ない状況に陥(おちい)ってしまっていた。

 ただ分かるのは自分の頬を涙が伝っている事だけだった。ずっと言葉すら発する事が出来ないでいた。最後に帰る事の出来る居場所すら、音を立てて瓦解(がかい)した気がした。


「もしもし、聞いてるの? 返事しなさい!」

「・・・・・・・・・・・・」


 佐藤は母親の言葉に、何か答えようと口を開けるが、言葉が出ない。


「か・・・・・・・・・母さん・・・・・・・・・ごめんなさい」


 掠れるような、絞り出すような声で佐藤は母に返事をする。

 この会話も当然、多くの他人達の耳にも届いていた。煽(あお)るような他人事を呟いていた者も、気持ち悪がっていた者も、気が付けば皆、この二人の会話を黙って聴きいっていた。


「・・・・・・なんかアンタ、声が変だけど風邪でもひいて」


 母親が話している途中だったが、佐藤の震えた指は、通話終了を押した。

 それから虚ろな瞳で佐藤は美加を見上げた。


「・・・・・・そのナイフ、貸してくれないか?」


 美加は佐藤に無言でナイフを渡す。佐藤は少女からナイフを受け取ると、その場に座った。それは、まるであの時の屈辱と土下座させられた悔しさを体現したかのような正座だった。

 佐藤はナイフを逆手に握り直し、左手を柄尻に添え、しっかりと握り締め・・・・・・そのまま両手を高く上げた。恐怖で刃先が震えていた。

 しかし、黒崎の顔、姿、声、自分への仕打ち。それらが佐藤の脳裏にフラッシュバックした。



 ・・・・・・・・・ザシュッ!



 佐藤は自分の腹にナイフを突き立てていた。


「黒崎課長はっ! アイツは! 僕を、何度も! 何度も!」


 服越しに肉を裂く音を立てながら、ナイフを引き抜き、再び突き刺した。

 耐え難い激しい痛み、口の中に広がる鉄の味が滲み出てくる。


『何だ、その態度は‼ お前舐めてんのか⁉』


 何度も切腹する佐藤の心には、黒崎への恨み辛みが支配していた。


『ご! め! ん! な! さ! い! だろ』


 彼の心を抉(えぐ)った言葉が反芻(はんすう)される。涙もいつしか血涙(けつるい)に変わり、腹部にはおびただしい血が流れ、土汚れた白いワイシャツが憎悪の深紅に滲んでいく。


「うぐっ・・・・・・グググ・・・・・・ゲホッ」


 血に染まり、徐々に弱っていきながらも、痛みに悶えながら腹部に刃を突き立てる佐藤の様子を間近で見ている美加にも、心境の変化があった。

 彼の鬼気迫る姿に、美加も次第に恐怖に変わったのだ。


「い・・・・・・嫌っ! もうやめなよっ! ねぇって!」


 気が付けば自身を取り乱しながら、蹲(うずくま)る佐藤の体を支えるように押さえていた。

 佐藤はそんな美加の言葉に応える事無く、六度目の切腹で意識を失ったのか、そのまま前のめりに倒れ込んだ・・・・・・。



 佐藤と美加の様子を耳にしていた人達は、ただただ黙って息を呑んでいた。


『・・・・・・こにいるの・・・・・・ん事しなさーい!』


 そこに甲高い男性の声が混じり始めた。踏む足音も。その音声は徐々に明瞭(めいりょう)になっていく。



 遂に現場に五木と田中が到着した。そこで二人が目にしたのは、ぐったりと前屈みで蹲る佐藤と、両手が血に汚れながら彼にしがみつく美加だった。

 少女は二人に気付き、次第にその張りつめた頬に溢れてくる涙を伝って緊張が緩んでいくように顔を震わせ、


「・・・・・・・・・助けて」


 と、弱々しくも、悲痛の声で訴えた。

 五木も少女の訴えに形容しがたい表情を浮かべ、小走りで美加に寄り添う。

 そして彼女を優しく、強く抱き締め、


「あなたは一人じゃないのよ・・・・・・・・・あなた達は、一人じゃないんだから!」


 勇気づけるように、美加と佐藤に何度も何度も言葉をかけた。

 自分とは何の関係もない赤の他人である五木の温かさに触れた美加は、寄り添うようにその身を預けて泣いた。佐藤の震えた指先は、射した光へ向かおうとしていた。



 わかちあい生命の部長室では、黒崎が上司の部長に叱責されていた。佐藤が不在で資料も用意出来ず、商談が成り立たなかったからだ。黒崎は90度に腰を曲げ、ひたすら謝罪を続ける。


「申し訳ありませんでした!」

「なんで、こんな事になったのか、説明してもらおうか?」


 部長は威圧感のある低い声で、課長の後頭部をポンポンと軽く手を置く。


「は、はい! ぶ、部下が商談に使う資料を管理しておりましたので・・・・・・」

「君がその資料を管理していれば良かったんじゃないのか? 君の管理責任能力はどうなっているのかね」

「・・・・・・・・・・・・」

「黙ってちゃ、分からんよ、黒崎君」


 再度、黒崎の後頭部を軽く叩く。


「わ、私の管理が至りませんでした・・・・・・申し訳ございません」

「私が聞きたいのはそういう事じゃないよ。黒崎課長・・・・・・この責任はどう取るつもりかね」

「そ、それは・・・・・・」

「君は言われないと分からない程、要領が悪いのかね」


 直接的な痛みは感じないが、黒崎にとって部長の手は非常に重く感じる。彼を否定する言葉に、黒崎自身も拳を震わせていた。



『この世の社会は病んでいる』



 夜の繁華街で賑わう社会人たち。

 路地裏で蹲っている浮浪者・・・・・・。

 虚ろ目な黒崎が風俗店へと赴き、憂(う)さを晴らすかのように通されたベビー室で赤ちゃんプレイをしていた。


「あら、いつもより機嫌が悪いでちゅねぇ~」

「だぁ・・・・・・だぁ~」


 嬢に甘える赤ちゃん返りした黒崎。

 けたたましいサイレンを発しながら救急車が夜の街を駆け抜けていく。



『それでも人間は、社会的な生き物なのだ』



 月明りに照らされた木の下で、孤独な古いラジオの信号が妖しく点滅していた・・・・・・。

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