中編
エマが案内したのは、テンノージで一番大きい酒場であるトモエウドンだった。
ベアーと連れ立って中に入り、おぼつかない足取りでカウンターへと向かう。途中、杖の先をテーブルや椅子の脚にコツン、コツン、と鳴らすものだから、店内の客は二人に奇異な視線を注いでいた。
エマがカウンターに近づいた途端に「おぉ」と店主が声を上げた。普段なら寡黙な店主が驚くのは、後ろにいるベアーという男が並々ならぬ雰囲気があるのだと、エマは思った。
「こりゃあ随分と紳士なお方で……」と店主は微妙な言葉を述べた。
「よく言われるよ。それで。この店はネクタイがないとお断りなのかい?」
「いいや。払うもんさえ払ってくれりゃあ、なんでもいいさ」
店主の声はどこか愉快げであったので、エマはこれぞとばかりベアーを紹介することにした。
「こちらはベアーさん。ナラ州から来たんですって」
途端に嘲笑があちこちから沸き起こった。明らかに人を小ばかにする笑い声だった。悪意のある笑いはひとしきり続いたあと、初夏の雨ように小さく消えていく。不謹慎な笑みにショックを受けたエマだったが、なにも言い返さないベアーに疑問をぶつけた。
「ひどい。なんであなたが笑われるの?」
「実を言うと、おじさんは旅芸人のピエロなんだ。エマにこの姿を披露できなくて残念だぜ」
「ピエロ?」
聞き慣れない言葉に聞き返すエマ。
「知らないことは知らなくていいのさ。エマ、ありがとうさん。これは案内料だ。受け取ってくれ」
小さな手のひらに三枚の紙切れが落とされた。恐らく、お札に違いない。エマは「ありがとう、ベアーさん」とペコリと頭を下げると、杖先で床を鳴らしながら出口へとノロノロと向かっていく。
ベアーはエマが腰ほどの高さにある小さなスイングドアを押して消えていくのを見送ると、カウンターに上半身をもたれ、店主の背後に並べられたボトルの列を見つめる。
「お客さん、注文はどうするんだい?」と店主。「ここにサンオイルは置いてないよ」
「そうだな。ビーチで呑むには、刺激が多すぎるものばかりだ」
店主の皮肉に負けぬくらいの憎ったらしい笑みで返すベアー。
ガラリとスイングドアが開き、ヒールの高い靴特有の、心地よく鳴らすブーツステップがベアーに近づく。振り向けば、パールグリーンのドレスを身に纏った若い女が周囲の男の視線を攫いながら歩いていた。
この時代には貴重な整髪剤で髪をブロンドにし、パッチリとした目にはマスカラにアイシャドウをしている。随分と羽振りのいい女だ、とベアーは思った。
店主がベアーに耳打ちし、トモエウドンの隣にある娼婦館・ムクタマフィンガーXでたくさんの指名客を持つマリーだ、と説明する。
納得したベアーは、触れるくらいまで近づいてきたマリーをマジマジと見つめた。顔には笑顔が張り付いているが、その下にある困惑をベアーは見抜いていた。
「あたいはマリー。知らない顔ね。旅人かしら?」
頷くベアー。マリーは頭のてっぺんから爪先まで舐め回すようにベアーをジロジロと観察する。
「その……あなたはなんというか……」と言葉を探すマリーに、「ワイルド?」と誘導するベアー。
「そうね、ワイルドね」と苦笑するマリー。
「それで、ミスター・ワイルドさん。この街のことならよく知ってるわ」
「そうかい。俺はベアー・ギリアン。それじゃあ、アン・ハサウェイのスリーサイズを教えてくれるかな?」
「呆れた」
ベアーは店主にクニノチョーをボトルで頼むと、マリーもねだった。オオサカ州名物の清酒であり、日本中央部に住む者なら誰でも口にする酒だ。
ベアーは渡されたボトルをグラスに注ぎながら、周囲を見回す。店内は雨季の頃に似たジメッとした、気怠い空気がじわじわと侵食が始まる。
「辛気臭いなぁ。最近、葬式でもあったのかい?」
「葬式なんて年中よ。驚くこともないわ」
マリーのグラスに清酒を注ぐと、グラスの底同士をぶつける小さな乾杯をした。一口呑むとベアーはいう。
「そりゃあ葬儀屋もご苦労なこった。流行り病かい?」
「違うわ、殺しよ。気に食わない奴は、みんな殺されるわ」
「誰に?」
マリーは店内を注意深く見回した後、またベアーに顔を向ける。「あまり大きな声じゃいえないわ」と眉根を顰めてトーンを下げる。「カッツ・ファミリーよ」
「カッツ・ファミリー?」と怪訝な顔のベアー。
「知らないかしら? クーシ・カッツ率いるカッツ・ファミリー。この辺りじゃ、名前を口にするのも恐ろしいくらいよ」
「残念だけど、ここらの事はよく知らないんだ。なんだい、そいつらは?」
マリーは周囲に気を配りながら声を細めていう。
「三年前、奴らは突然やってきて、この町で我が物顔しだしたわ。昔からいた保安官を決闘と称して撃ち殺して、新しくきた保安官を金と密造ウヰスキーで買収したわ」
「そいつは羽振りが良いこった。エンマ様も、その死んだ保安官と一緒に天国で酔いつぶれてるね」
途端にマリーの目付きが鋭くなる。
「馬鹿を言うんじゃないよ。その保安官こそ、エマのお父さんなんだから」
「エマの?」
「そうよ。可哀想に、あの子の目の前で殺されたわ。まるで野良犬みたいにね」
「なるほどね」と呟き、凄みを効かせるマリーの視線など気にもせず、グラスの底に残った清酒の一気に喉に流した。
ベアーの態度に苛立ち、マリーが口を開いた時だった。外から飛び込んできた怒声が二人の会話を遮る。落雷のような、人を慄かせる怒りに満ちた声だ。
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