Once Upon a Time in Osaka -天王寺のガンマン-
兎ワンコ
前編
十四歳の時、エマの見える世界は不透明で不確実なものになっていた。
養父に連れ立って旧文明の廃棄場に行き、使える部品をかき集めていた。廃品回収で生計を立てている養父の仕事に興味を持てず、エマは山のように積まれたガラクタをいじくりまわしている時だった。突如機械の一つからオイルが噴出し、エマの目を襲った。水でも中々落ちないそのオイルは、僅か一週間でエマの視力のほとんどを奪った。
医者にかかろうにも、養父の家がひどく貧乏であったことや、町医者も除染出来るような薬剤を持っておらず、三日ほど目の痛みに苦しめられた。二日目の昼頃には自分の目玉をくり抜きたいと思うほどだった。
苦痛を
不便な生活が続き、やがてエマは視覚に頼ることはやめた。見えにくいのならば、いっそ見えなくていい。そう決めると、不思議なことに生活は変わった。
連なる四角いコンクリート山脈と、その下に暮らす人々や、彼らを理不尽に傷めつける独裁者たちも、遠い世界のように思えるのだ。まるで自分は世界から切り離されたようだと皮肉を思う。だが、過ぎ去る日々に身を重ねてくうちに、気持ちは随分と穏やかになった。
それまで野良仕事に連れ出す養父からも、あまり声が掛からなくなった。食べるものは以前より粗末になったが、手足を汚して働くことがなくなっただけでも気が休まった。代わりに、杖をついて町はずれに行き、ただぼうっとするのが日課になった。
遠出してきた商人や旅団の人に声を掛けられた。野良仕事をしなくなったおかげで、すっかりと柔らかくなった肌や、長く伸びた亜麻色の髪を褒め、「まるでお人形のようだ」と慕わしい言葉を投げかける。目が見えないことを話せば、憐れんでか、食べ物やおもちゃを貰ったりした。それが労働の対価に貰える賃金や食事の代わりだと思い、大いに喜んだ。
エマはここだけが一番に安心できる場所だと考え、なるべく居座るようにした。なぜなら、町の中に行けば行くほど、自分の居場所がないと悟ったからだ。
その日もエマは町外れの道端に座った。今日も取り立てて変わったことはない。行き交う人の音を聞くだけの日々。品を卸にくる商人だったり、この町を出ていく人であったりと様々である。
かつてここは賑やかな街で "天王寺"と書いてテンノージと呼ぶ、とエマは聞いたことがある。教えてくれたのは今は亡き実父のジョージ。ジョージは幼いエマに色んなことを聞かせてくれた。
ジョージの父。つまり、エマの祖父の若い頃はテンノージは食べる物や飲む物に困らず、"はつでんしょ"と呼ばれる巨大な電力を作る施設があったり、若者があの汚水に塗れて死者の川となったドウトンボリ川に飛び込む祭りなどがあったという。今では想像できないものばかりだ。祖父は繁栄していたころの旧文明の写真を集めたものがあると言っていたが、その場所を教える前にこの世からいなくなった。
亡くした父のことを反芻していると、吹き荒れる風に混ぜって、何かが聞こえた。
口笛だ。軽快で上機嫌なリズム。この世界の鬱屈など我関せずといった、能天気なメロディだ。
口笛は馬の蹄が鳴らす音とともにゆっくりと近づいてくる。目の前まで来たとき、エマは話しかけてみることにした。
「その口笛、とても素敵。なんて曲なの?」
馬の足音が停まった。ブルル、と馬が鼻を鳴らしながら身体を震わせる音が続く。エマは警戒することはなかった。こんな素敵な口笛を吹く者が、乱暴者であるはずがないと思ったからだ。
「"ロッコーオロシ"って曲だ。随分昔の、もう誰もが忘れちまった歌さ」
低く、砂をまぶしたような男の声だ。馬に乗ってるのはこの男だけで、それも歳はかなり上だ。恐らく、養父のヘンリーと同じくらいの歳だろう。
カチン、とアスファルトとブーツがぶつかり合う音。男が馬から降りたのだろう、とエマは考える。
足音を殺しているが、ゆっくりと近づいてくる気配をエマは感じ取った。これが初めてではない。エマを初めて見た者の中には、このように恐る恐ると近寄る者がいるのだ。
「君は……俺のことが見えているのかい?」
「見えていなくてもそこにいるのはわかるわ。いま、顔の前で手を振っているのもね」
エマは手をそっと顔の前にあげると、容易く男の手を捕まえた。エマは非常識だとわかっていたが、ゴツゴツとした掌を満遍なく揉みしだく。男は嫌がる素振りをしない。
「あなたは?」
「なーに、心配ない。フーテンのトラさんさ」
親指の腹と付け根が硬く、角張っていた。目が見えないからこそ、指先から伝わる感触を頼りにエマは深く思慮を巡らせる。そして、ひとつの答えを導く。
「おじさん、銃を撃つ人だね」
ヒュー、と口笛が鳴らされる。正解のようだ。だが、素直に喜べない。銃を撃つ人間は、大体撃つ標的がそれと決まっているからだ。
「大したお嬢さんだ。良い職人になれるぜ」
「おじさん、人を撃ったことはある?」物怖じせずに聞くエマ。
「いや、ないね。一度も」
即答だった。軽い口調だったのでエマはウソだと疑うが、どうにもこの男に悪人らしい気配を感じないのだ。エマは手を離し、尋ねてみる。
「おじさんの名前は?」
「クルマ・トラジローさ」
「ウソ。本当の名前を教えて」
嘘をついてるに違いない。エマは声に敏感なのだ。だが、人を撃ってないという答えは真実なのだという確証も得た。
「なんでもいい。だが、みんなは俺のことをこう呼ぶ。"ベアー"ってな」
「そう。ベアーさんね。私はエマ。宜しくね」
エマはペコリと頭を下げた。ベアーも「宜しくお嬢さん」と返す。
「エマ、俺は酒場を探しているんだ。ひどく喉が渇いてね」
「それなら知ってるわ。案内してあげる」
「ありがたい。ちゃんと飲める酒はあるのかい?」
ジョークだ。実にくだらないが、ここいらでこんなオマヌケな事を言う人はいない。エマはむしろ、この男が頼もしくさえ思えた。
杖を手に持ち、立ち上がると、酒場のある方に杖の先を向け、ゆっくりとした足取りで向かう。空いた左手は朽ち果てたコンクリートの壁に手を付き、老婆のように歩みを進める。ベアーはヒューと口笛を鳴らし、馬を呼び寄せた。パカラパカラと
「あなた、面白い人ね。どこから来たの?」
「ナラ州のヘグリシティさ。こう見えても旅人でね。……って、君には見えないか」
「見えなくてもいいわ。聴こえるもの、触れるものが全てだもん」
エマののろまな歩みに苛立つこともなく、ベアーという男は付き添った。それだけでも、エマは上機嫌になる理由には充分だった。なぜなら、久しぶりに仕事らしい仕事のように思えたからだ。
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