冬原地 4
白毛の土蜘蛛の背中が裂けて古い毛皮が脱ぎ捨てられた。
土蜘蛛が冒険者に迫る。アイラが盾を構えるが、想像していた衝撃は訪れない。
代わりに来たのは、腕、腕。
巨怪な猿の手が盾を掴んだ。
異形の土蜘蛛は、その触肢を失い、代わりに猿の腕を生やしていた。同じ白毛に覆われて覆い隠せないほどの違和感。虫に似つかわしくない筋骨隆々の風体は不気味で、しかし土蜘蛛の巨体相応に太く強靭だ。
土蜘蛛の選んだ成長ははっきりと仮想敵を意識している。人の似姿。道具を扱うこと。冒険者の怪力を。
アイラに似せた怪力が、鋼の大盾を振り回す。
「なッ――!?」
大盾ごと持ち上げられたアイラが宙を舞う。一周、二周と遠心力を稼いで、その軌道が水浸しの岩盤へと向きを変えた。
水面が爆ぜて、鋼の大盾が黒塗りの岩盤を粉砕する。
即席のクレーターにアイラの姿はない。直前に盾を手放して逃れていた。だがそれも鉛直に落ちるか斜めに落ちるかの違いだ。
水を切って、跳ねて、不随意に身体を打ちながら転がる。受け身など取れていない。肩の傷が開き、一直線に転々と赤く染めてゆく。
倒れていては身体が沈み切る水深、半身を庇って不格好に起き上がる。
(痛ッ――クソッ、不味い、不味い!)
盾を奪われ、アイラの思考がパニックに陥る。問題は竜の彫像だ。
一瞬だけ竜の彫像に視線を移す。大技の消耗のせいか今は沈黙しているようだった。あの彫像の振るう水流の尾は鋼の大盾でしか防げない。再起するまでに回収しなければ。
視線を土蜘蛛に戻す――土蜘蛛は大盾を振りかざしていた。
白毛に覆われた豪腕が、唸り、分厚い鉄塊を投擲する。
アイラの反応は一瞬だけ遅れてしまった。アイラ目掛けて飛翔する鉄塊。この足場では回避は間に合わない。受け止めるか? いや、不可能だ――
『――害する枝』
咄嗟に下した判断は、迎撃。
鳴動する長剣でもって飛来する大盾を下から振り抜く。アイラの目前まで差し迫った不滅の鋼盾を歪にたわませ、弾き返した。
大盾が高く高く打ち上がる。
代償に、長剣が砕け散る。
(大盾がねえ、長剣も使わされた、…)
アイラの膝が崩れる。竜の言葉の濫用による虚脱感。
何もかもが悪い方向へと転がっていく。
白毛の土蜘蛛がこの隙を見逃すはずはない。
一飛びで距離を詰め、その勢いを乗せて、巨拳がアイラを打ち据えた。
パンッ、と風船の割れるような音は、内臓の張り裂ける音だった。
アイラには嫌に長く感じられる一瞬、遅れて目に映る風景が引き伸ばされ、鈍い音を聞いて、自身が砲丸にでもなったかのように――ブッ飛ばされた。
飛翔。
「がッ――はッ――――」
青白色の氷の天蓋に叩きつけられた。眼下、水浸しの岩盤は遠く隔絶されている。パラパラと氷の欠片が先に降り落ちる。それを跳ね除けて白い巨体が飛来した。
天蓋が揺さぶられる。
一息に天蓋まで跳躍してきた土蜘蛛は逆さまに張り付いてアイラに跨った。
反転した天地、浮かび上がるアイラの身体に猿手の拳骨が振り下ろされる。一撃ごとに骨肉を粉砕する連打が滝のように、重力すら正さんと執拗に浴びせられる。
土蜘蛛の背後で白光が閃いた。とうとう竜の彫像は再起して、反射する流水の鞭が空気を切って迫る。
奔流が氷の天蓋を裂く。たちどころに切り刻まれた氷塊が、がらがらと音を立てて崩落してゆく。跳び移って逃げる土蜘蛛の手にアイラがしがみついていた。
冒険者の意識は既に朦朧として、自身の五体が繋がっているかどうかさえ定かでなかった。全身の痛覚が錯乱して冷たく融けているかのようだ。身じろぎもできず、ただ経験と本能だけが白毛を握り締めさせていた。それも薄弱な力しかない。
土蜘蛛が腕を振り回す。それだけでアイラの指は白毛から引き剥がされ、離されていった。放物線を描いて力無く落下してゆく。
重力に従い落ちる。
輝かしい竜の彫造の目と鼻の先を通り抜ける。彫像は気付かない。もはやアイラには関心がないかのようだった。
土蜘蛛は足元に転がる鋼の盾をつまみ上げて、見つめた後、乱雑に放り投げた。鉄塊は水溜りを何度か跳ね、転がって沈む。
巨獣どもの足元に小さな水飛沫が生じた。
(――――)
倒れている。力を込めるが、抜けてゆく。
穴の空いた風船に空気を吹き入れている。
…。
……。
…………。
「――――アイラさん!」
制帽を被った男、冬原地のトランスポーター、この最下層部までアイラに同行してきた案内人が現れた。ポーター・マス。男は自分の荷物もかなぐり捨ててアイラの荷物を背負ってきている。
ポーターは想像を絶する光景に立ち震えた。
晶石柱の下、白毛の土蜘蛛と竜の彫像とが所狭しと暴れまわる光景を見た。破壊の跡がそこかしこにあり、その一つ一つが自分よりずっと大きく、今も作られ続けている。
その足元で、ぼろぼろの冒険者が立ち上がろうとしているのだ。
全身が濡れていて、血と脂汗と雪融け水とが互い違いに押し流そうとしている。脱臼が見て取れる。それなのに片膝に手を突いて支えようというのだから、ずるりと崩れ、よろめいたアイラに男が肩を貸す。首に回した腕が不自然に曲がった。
「撤退しましょう」
「できねえ」
うわ言のようにアイラが言う。
「あの土蜘蛛は、…」
血と歯を吐く。
「ここで倒さねえと、…。来たときより、ずっと強くなってんだ。今に竜みてえな彫像を食らって、晶石柱まで倒しちまって、そしたら、…。手遅れになる」
アイラの息は荒く、焼けたように熱い。かえって体温は恐ろしく冷たい。
折れた腕に添え木を縛り付けて骨の代わりにする。手の触れた皮下が不規則にうねっている。極度の自己再生。死に瀕している証左だった。
アイラが言う。
「ポーター。お前は私より強いか?」
「……いいえ、ですが」
「なら、冬原地のどこを探したって、いねえだろうな」
強心薬を打ち込んだ。冒険者の携帯する薬としては鎮痛薬の次にありふれているが、静穏な冬原地では扱い方を知っている者も少ない。極寒のために外敵は近寄らず、戦い方を知るものなど稀少だ。
「誰に助けてもらうってんだ。それまでに、冬原地はどうなる?」
アイラが言う。
「……生まれ故郷じゃ誰よりも腕っ節が強かったんだ。冒険者になって、名声を得た。ついてこれねえ仲間がボロボロ死んでった」
理由もなく未知に挑むことはできない。危険な依頼を請け負うのが常だ。薬草を求め未踏の絶境に入った。民草を喰らう魔獣を討ちにも行った。怪物相手に退けなかったことは一度や二度の話ではない。
誰かの命が懸かっている。だから命を懸けて冒険に臨むのだ。
「一番過酷な冒険を託されてきた」
関節を嵌め直す。
「私が、世界最高の冒険者だ!」
首に掛けた鎖をアイラの指が辿る。殆どがひしゃげた鎖の先、ひび割れたガラスの円盤、冒険者の象徴たる単眼のゴーグルに触れる。表面は手袋越しにも伝わるほど傷だらけだ。
すべての冒険者が、困難な冒険のたびに繰り返してきたルーティン。
「これが、すべての冒険者のまなざしだ」
アイラの双眸が光を灯す。
「信じろ」
ポーターは瞑目して、制帽を目深に被り直す。
次に見開いた目は、同じ光を灯している。
「――――三、二、一、で飛び出してください」
「ハン、行きそうになったよ」
「軽口はいいから」
アイラが獰猛な笑みを取り戻す。
「三、二、…」
一は数えない。
弾かれたように飛び出す。
ポーターが小銃を取り出し構えて撃つ。
全ての所作が淀みなく一瞬の内に行われた。照準は正確。狂いなく竜の彫像の頭部を撃ち抜いている。
ボルトを引いて薬莢を吐き出す。明滅する白煙、燃え尽きた精錬宝石が甘く臭う。
土蜘蛛、彫像の注意をポーターが一身に集めた。
(せいぜい僕は早撃ちが特技の人間だ――戦えるわけじゃない)
教範通りの射撃姿勢。無防備だ。逃げ腰になるのを勇気だけで堪え、待つ。
僅か一秒。その間にアイラは100ftも駆けている。
アイラの手が木蝋のテクスチャに触れる。
岩盤に突き刺さる、半ばで噛み砕かれた槍。そのところどころに嵌め込まれた無色透明の結晶片が、アイラの指の間で整然と輝線を放つ。
晶石柱、規格外の宝石が生み出した竜の彫像。その彫像が形成した宝石細工の槍。
宝石は人の手にあれば魔術の媒介として使われる。
握り締め、駆け抜けながらその槍を引きずり出す。アイラの手に収まってちょうど身の丈に合った長さだ。
「ポーター!」
銃声が応える。土蜘蛛の眼が撃ち抜かれ、アイラを叩き潰そうとしていた腕が目算を外す。
この隙にもう100ft。
背中を追う水流の尾から逃げてアイラが滑り込む。遂に追いつかれ奔流を浴びたと思われたその時、岩礁に砕かれる波のように水流が散る。
鋼の大盾が掲げられている。
彫像が咆哮する。溢れる水流が渦を巻き、その中軸がアイラを指す。
同時に土蜘蛛が握り拳を構え、視線をポーターに向けた。
『害する枝によって拭い去る』
『害する枝』
竜の言葉が交差する。投じられた槍、横薙ぎの槍が一点で激突、せめぎ合う。
槍を握る腕が千切れそうだ。比して拙いアイラの詠唱。魔術の出力には歴然の差がある。
(あァそれが! 何だッてんだ!)
握る手の腱を鋼になるまで引き絞り、爆発的な膂力、全身全霊の気迫をもって押し返す。
他方、土蜘蛛が跳ねてポーターに迫る。
「――――っ!」
一度目の突進は、真横に飛び込んで回避した。転んだポーターの直上で恐ろしい風切り音を唸らせて蹄の列が掠めてゆく。避けられたのはただの偶然だ。次はない。
立ち上がる間もなく土蜘蛛は反転して、二度目の突進の構えを見せた。
ポーターの身体が硬直する。
白毛の巨体が水面を蹴り、ポーターを轢き殺さんというその瞬間、打ち返された槍が土蜘蛛を射抜いた。
土蜘蛛の身体がくの字に折れて、弾かれる。
再びポーターのすぐ側を大質量の塊が掠めていった。
烈風を浴びてへたり込み、心臓をバクバクと言わせながら、アイラを真似て、獰猛な笑みを作ってみせる。
当のアイラは槍で地面を突いて体重を預ける。宝石細工の槍は健在。玉のような脂汗を拭って「もう一回は使えるな」と嘯いた。
横腹の潰れた白毛の土蜘蛛がアンバランスに立ち上がる。
竜の彫像はアイラ同様に消耗と虚脱に苛まれている。
四者損耗。
「耐えろよポッター。こっからがラストスパート、最後まで踏ん張った奴の勝ちだ」
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