冬原地 3

 この精緻な竜の彫像は、冬原地を衝き支える晶石柱の召喚物で、精霊の類だろう。ならばその存在意義は晶石柱を守ることのはずだ。

 しかし白毛の土蜘蛛を襲わない。あの傷ついた宝石を脅かしているのは土蜘蛛なのにも関わらず。


「痛ッてえ……」

 ズキと肩の傷が痛み、冒険者、アイラは顔をしかめた。鋏角に深々と裂かれた傷口には、筋肉はおろか骨の断面まで見えている。気合で補っていた握力はもうない。この極寒、冷水を浴びたことによる体力の消耗は気力までも失わせる。

 まずは回復が必要だ。普段の自己再生は追いついていない。


 彼女の怪力と頑健さは、年月を掛けて骨身に刻み込んだ魔術に下支えされている。武器や道具に竜の言葉を彫刻するのと同じ話だ。その魔術は本物の竜の言葉と比べれば些細で稚拙だが、幾重にも重ね合わせることで、常人離れした身体能力を得るに至っている。

 その一つ、再生力賦活の魔術を、アイラは改めて唱え――ようとした。


 瞬間、水流の尾が叩きつけられる。


「――ッぶねえ!」

 間一髪のところで大盾で体を庇う。直撃すれば抵抗の余地なく命を奪う奔流。この鋼の盾だけがアイラの頼りだ。

 一度後退しつつ、今度こそ回復を。呪文が口をついて出ようとしたとき、またしても未然に背筋に嫌なものを感じて踏み止まる。背後を掠めるように尾が通過する。


 回復できない。狙い澄ましたかのように、魔術の行使が咎められている。

 無機質な彫像の顔から読み取れる態度は、威嚇、警告の類。

 アイラには思い至るものがあった。

「竜の言葉、か……?」


 竜にとって、竜の言葉とは版図の宣言に他ならない。そこが縄張りだと言えば、そこはその竜に住みよい土地へと書き換えられる。

 竜の縄張りにずけずけと踏み入り、紛いなりにも竜の言葉を唱えようとするアイラは、縄張りを侵略せんとする慮外者に違いなかった。

 あるいはアイラの身体に刻まれた竜の言葉がそれを助長しているかもしれない。


「竜の敵たれるは竜のみである……って聞くが、私は竜じゃねえんだぞ」

 冷や汗が垂れる。

 本物の竜であれば万に一つの勝ち筋もなかった。冒険者に伝わる大原則。あれがそうではないと信じるしかない。

 翻って、虫の類は、本物の竜であれば歯牙にも掛けない存在だろう。だが竜の似姿の結晶は、白毛の土蜘蛛にとっては垂涎の捕食対象だった。


 裏付けるように、土蜘蛛が宙に浮かぶ竜へと飛び掛かって、硬い首へと組み付いた。竜の彫像は鬱陶しげに水流の身体を捩り、結晶の上半身を振り回して剥がす。

 奔流は土蜘蛛の身体を容易く抉り取った。だが切った側から再生する。組み付いた隙に齧り取った結晶が上質な滋養になっている。虫どもの栄養として、あれはアイラの与えた簡素なデコイの比ではない。

 再生する。アイラが付けた傷も、元の木阿弥となっていた。


 竜の彫像がアイラを睨む。依然としてアイラだけを敵視している。協力の余地はない。あくまで土蜘蛛の討伐を目指すとしても、竜の彫像は避けて通れない障害になる。

(かといって、先に彫像を砕いたとして、だ)

 それは土蜘蛛に餌を与えるだけだ。

(傷の再生に充ててる間はまだいいんだ――これ以上に成長したら、もう手に負えねえ)

 堂々巡り。


 二体の相手、長剣はアイラの手元に一つ、土蜘蛛の頭胸部に未だ残っているのが一つ。

「上等だ……!」

 大盾を握り締める。

 盾を前に掲げ、前進の構え。


 まずは自身の回復。それは変わらない。

『拭い去る蜜』

 アイラの詠唱。心臓が跳ねる。血が煌々と燃え、傷口に溢れ出て形を成す。だが再生を実感する暇はない。


 果たして彫像の振るう水流の尾は、大盾を回り込んで迫ってきていた。アイラを背後から襲う。

 織り込み済みだ。アイラは大盾を飛び越えて、背中で盾を支えて水流を受ける。勢いを止めず、むしろ勢いを借りて、愚直に距離を詰め、一直線に彫像の頭を目指す。


 彫像の直下、アイラが剣を抜く素振りを見せると、竜の彫像は一層高く浮かび上がった。ここからは届かない。だが第三者がいる。


 アイラと彫像のやり取りの間に、白毛の土蜘蛛は天蓋まで跳ねていた。竜の彫像が浮かび上がると同時、土蜘蛛は天蓋を蹴り、反転、隕石のように彫像目掛け急降下する。


 竜を模した結晶が、大質量の塊に弾かれ、水浸しの岩盤に衝突。飛沫が舞い上がる。

 ガラスの破片のように四散する――破片は空中でピタリと停止し、磁石のように結合しながら元の形へと遡行する。かちあい、すり減りながらの再構築。細かいひびは元通りにはならない。加えて土蜘蛛の顎が破片を捕まえている。


 あの破片を呑ませるわけにはいかない。

 アイラは彫像にまたがる土蜘蛛へと走って飛び蹴りを仕掛けた。土蜘蛛はたまらず破片を吐き出し、その隙に彫像が形を取り戻す。水流の尾。アイラは盾に隠れてやり過ごせ、土蜘蛛は至近の奔流に削り取られる。


 彫像を封殺しながら土蜘蛛の消耗を図る。土蜘蛛と挟撃しつつ彫像を守る。

 もう一度――アイラが走り出そうとした矢先、今度は一呼吸早く土蜘蛛が動いていた。目標はアイラ。

 最初にも見せた隕石のような急降下。大盾を掲げて真っ向から受け止め、クレーターを作り、――間髪入れず、足を止めたアイラに横薙ぎの水流が迫る。

「チィッ!」

 急いで土蜘蛛を投げ飛ばして盾を構え直す。だがそのせいで踏ん張りが効かない。奔流の勢いに押され、脚が浮き、蹴られたボールのように弾き飛ばされる。


 飛んで、200ft。

(クソッ……離された!)

 バシャバシャと冷水を掻いて停止した。ここは水深が深く脚を取られる。走って戻るにも手間だ。

 土蜘蛛の突進の予備動作。

「ッ!」

 ガアンと鐘を撞く音を響かせ、砲弾のように飛来した白い巨体を弾く。大盾を握る手の麻痺を振り切って背後に回った土蜘蛛を追う。

 土蜘蛛の引いてきた糸を掴むが、手応えがない。糸の先は煙を吐いて切られている。土蜘蛛は既に遠く。

 虎視眈々と土蜘蛛が突進の構えを取る――来ない――アイラの直感が盾を竜の彫像へと向けさせた。直後に雪解け水の散弾が大盾を打つ。


 彫像と土蜘蛛の攻撃が入り乱れる乱戦。だが竜の彫像がアイラだけを狙う前提がある以上、白毛の土蜘蛛が譲歩するだけである種の連携が生まれてしまう。

 アイラだけが共通の敵。

「虫のがずっと賢いだろうがよ……!」

 彫像の態度にアイラが毒づく。

 

 防戦一方の中、息継ぐ間も惜しんで走る。

(連携させてたら敵わねえ。彫像の攻撃を逸らすなら……土蜘蛛を彫像にぶつけるとこからだ)

 攻撃の間隙を探す。

 震脚、足場を蹴り砕いて水飛沫に隠れる。白毛をやり過ごして三歩。逆巻く奔流を躱し、蹴り砕いた岩盤の破片を投じる。右眼にひびを入れ、走る。

 再び、彫像の足元に辿り着く。混戦に戻す。


 彫像の尾が引かれた後、土蜘蛛の突進が予見できるとき、直線上に彫像が挟まる位置、…。誘導する。

(――来た)

 飛来する巨体が彫像の頭部に接触した。彫像の顔の半分が砕け散り、一方の土蜘蛛は体勢を崩して地面に激突する。これで彫像の注意が土蜘蛛に逸れる。アイラだけが行動可能な猶予が生まれた。


 土蜘蛛はアイラと彫像の間。隙を見せている。この状況ならば、決着まで持ち込める。

(ここで叩く!)

 土蜘蛛を追ってアイラが剣を取る。

『害する枝』

 長剣の鳴動。

 狂乱する竜の彫像が呼応して、土蜘蛛ごと奔流で貫こうとする。

 挟撃する格好。いずれかが通れば致命傷。避けなければ死ぬ――そう言わしめるため、アイラもまた退くことができない。だが。


 挟撃とは到底いえない、ばらけた攻撃。竜の彫像が早い。

 土蜘蛛を抉った水流がアイラを呑む寸前、限界まで引きつけても、アイラの剣は土蜘蛛から遠い。

「――――ッ」

 すんでの所で体幹を折って水流の直撃は免れたが、長剣は引き下げざるを得ない。長剣に込められた魔力が立ち消える。

 この隙に土蜘蛛が逃れる。


(タイミングが取れねえ……!)

 彫像はアイラの魔術の行使を殆ど予期している。おそらく魔力の昂りのような予兆を捉えているのだろうが、そのせいで動き出しは極端に早い。アイラもその程度は織り込んでいるつもりだったが、アイラ自身の動きが追いついていない。疲労のせいだ。

「ゲホッ……。ハァ、ハァ……」

 中々息が整わない。喉から吐き出した息が熔けた鉛のようだ。

 本来人には見合わない竜の言葉は、その切れ端を口にするだけで重度の負担となる。一度の戦闘での想定は三回。長剣の数もそれに合わせている。この戦闘では既に四回唱えた。


「つっても削れてはいるんだ――出し惜しみなんざしてられねえ」

 光明は見えている。

 ここまでして、やっと土蜘蛛の体力を削れている。牽制だろうと全力でなければ致命的な脅威たりえない。ならば底の底まで力を絞り出して闘うしかないのだ。

「あァ、上等だ……やってやる」

 自分を鼓舞し、また二体の相手へと――



 浮遊する無色透明の彫像は一際神々しく、白光が眩く、片目を欠いていた。


 竜の彫像から伸びる水流が、空中の一点で蛇のとぐろのように渦巻いている。渦は細く凝縮し、その中軸に、煌々と燃える一筋の輝線が溢れ出る。その形は槍だ。煮え滾り、鳴動し、空気を焦がす。


 槍の穂先がアイラへと向けられ、そして、投じられた。


「ッッッッ!」

 決死の反応。衝動的に大盾を構えていた。金属塊がアイラの視線を遮るのと全くの同時、輝線の槍が突き刺さる。

 空気の突き破られる轟音。

 槍は。鋼の大盾に突き当たってなお直線に進むのをやめない。アイラが押し返す。押し返せない。莫大な力が槍に纏っている。

「がァッ――――!」

 莫大な暴力を前に、悪足搔きのように抵抗する。たわむ鋼板に額まで押し付け、必死、全身全霊での盾の堅持。

 ジリ、ジリ、と槍の切っ先が鋼の大盾に沈み込む。貫通まで残り幾ばくか。


 遂に槍の軌道が逸れる。

 盾の表面を滑り、不滅の鋼盾に切痕を残して、輝線の槍がアイラの傍らをすり抜けた。背後で閃光が迸り、そして爆裂する。


 じっとりと重たい水煙が爆風と綯い交ぜになって吹きすさび、それから雨のように降る。暴風に晒されたアイラが水溜りを転がる。


 クレーターの中心に突き刺さった槍は冷めて輝きを失い、木蝋のような地肌を現している。その所々に明滅する無色透明の破片が埋没している。元は彫像の片目にあったもの。

 水煙が揺れる。

 ――異形の虎の顎が現れた。


 白毛、巨躯、馬の蹄と虎の顎とをそなえた異形の土蜘蛛。

 虫の類は魔力を食らい糧とする。

(クソ、クソッ、クソッ――――)

 アイラが駆けて手を伸ばすが、間に合わない。

 そして、槍が噛み砕かれた。

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