冬原地 2
晶石柱の下、冒険者と土蜘蛛が向かい合い、彼我の距離は30ftというところ。
冒険者、アイラ・スレートは鋼の大盾の裏で一度力を抜いて、長剣を握り直した。彼女の間合いに詰めるまで無用な消耗は避けなければならない。
アイラが一歩にじり寄ると、白毛巨躯の土蜘蛛は同じ距離だけ後退する。先に仕掛けられるのは土蜘蛛だ。
白毛の土蜘蛛が地面を蹴る。ぐんと加速し、――次の瞬間、砲弾の如く飛来する。
回避の時間は無い。冒険者は大盾を据えて防ぐ。
「重ッ……!」
大質量の衝突、土石流でも相手にしているような手応えに圧倒される。如何に彼女が怪力といえど絶対的な体重の差が存在する。到底受け止めきれるものではない。
後退する冒険者に、息つく間もなく土蜘蛛が追撃する。大盾が弾く。立て続けの突進、上から下への叩きつけ、割れた地盤ごと掬い上げるような低い突撃。足場を崩され、アイラは宙に放り出された。
撥ね飛ばされて無防備になった標的を抱きかかえるように、鎌のような鋏角の牙が背後から襲う。
アイラは重厚な盾を支軸にひらりと回転し、迫りくる牙を蹴って推力を得る。着地と同時、身体を折り畳んだ冒険者のすぐ近くを牙が掠めた。
そのままアイラが白毛の土蜘蛛の足下へと潜り込むが、しかし反撃の前に土蜘蛛は後方へと跳んで逃げた。仕切り直し。
「ふゥ……」
この隙に息を整える。
先の攻撃は彼女の防寒着を掠っていた。切り口は煙を上げ、内に着ていた革鎧が赤く爛れている。
標的の消耗を認めた土蜘蛛は、一連の行動が有効だったと判断し、再び繰り返す。
(見えた――突進の予備動作)
腹の糸疣を岩盤に打ち付けたのを見て、アイラは土蜘蛛の行動を既に予見できていると確信した。
(砲弾の速度だろうが、見えてんなら難しいことはねえ!)
身体を屈め、盾を後傾。
衝突の瞬間、力に逆らわず、全力で押し上げた。
土蜘蛛が後方へと跳ね飛ばされる。宙に浮くのは二度目。
土蜘蛛は空中で制動した。伸ばしてきた糸を脚で掴んでいる。この糸こそ空中機動の秘密。反転し、糸を手繰って来た道を引き返そうとする。
「動きが、単純ッなんだよ!」
空中に伸びる体躯相応に太い糸を掴み取る。
捕まえたという感触。そのまま豪腕で手繰り寄せ、冒険者と土蜘蛛が肉薄する。土蜘蛛がもがくが、しかし既にアイラの間合いだ。
アイラの鋭利な歯列から、唸り声に似た短い詠唱が漏れる。発するのは竜の言葉。それ自体が魔術。
『害する枝』
空気が焦げ付く。殺傷力を注ぎ込まれた長剣が張り裂けんばかりに鳴動する。握力による圧縮。煮え滾る刀身から輝線が迸り、荒れ狂うエネルギーが解放の時を待つ。
それをただ、全身全霊、爆発的な膂力で叩きつける。
閃光と轟音を伴う、比喩でない意味での爆発。粉砕の跡が視界を覆った。捲き上げられた砂礫がやがてパラパラと降り注ぎ、その向こうに巨体が転がり落ちる。
土蜘蛛は胸半ばまでに渡ってその右半分を喪失していた。同じ側の鋏角、触肢、脚二本がばらばらに遠くに落下する。炭化した断面を押し出すようにどろりとした体液が零れ落ち、地面に垂れて凍りついた。
しかし、死んではいない。
「……チッ」
断面の肉から沸騰するように泡がぼこぼこと現れて傷口を埋める。欠損はあるが、それすら修復可能な範疇だ。土蜘蛛は残った脚だけで立ち上がった。
「一発で仕留めるつもりだったんだがな」
直撃すれば木っ端微塵にしていたはずだ。だが力の乗り切る直前に、ほんの僅かに逸らされた。僅かに真芯を捉えられなかっただけで、破壊力が半分以下に減衰している。あの白毛のせいか。
麻痺する冒険者の手から、短くなった残骸が落ちる。彼女の膂力に通常の武器は耐えられない。全力を挙げるべき相手に対して剣は使い捨てだ。残り二本。
土蜘蛛の全身を覆う白毛は、織布のようにしなやかで、浅い角度で切り込めば容易に衝撃を逃されてしまう。
故にアイラが狙うのは肉の露わになった切断面。長剣を突き刺して内側から鋸を引くように裂けば確実だ。
対して土蜘蛛は同じ理屈で傷のある半身をかばい、防御に徹する構えを取った。
虫の類は霊魂、ひいては魔力を糧にする。彼らの肉体はその目的に適い、魔力さえ摂取すれば速やかに機能を再生できる。
「回復されたくはねえ、が……」
更に悪いことに、ここが冬の竜の居所に近いのも土蜘蛛に利する。
(古竜のプレッシャーってやつか? あの晶石柱の周りが特に濃い)
アイラが最下層部まで降りてきてからずっと感じていた怖気。冬の竜の吐息が漂うこの空間では、虫にとっては呼吸だけでも少しずつ魔力を取り込める。事実上のタイムリミットが存在する。
膠着は望ましくない。
アイラが動く。
アイラは懐から紙巻煙草に似た包紙を数本取出し、端部の封を歯で噛み切った。収められているのは血肉を混ぜた宝石屑。彼女の呼気に触れて燃えるように赤熱する。
「三、ニ、…」
それを、土蜘蛛の目の前にばらまく。
投げつけられた紙片は空中で煙を発し、パチパチと音をたてながら弾けた。
赤い煙が宙を漂う。それは霧散せず、淡く光を放ち、アイラの脈拍に合わせ揺れ動く。簡素なデコイ。だが虫の類にはてきめんに効く。
土蜘蛛はデコイに釘付けになっている。無害なそれは抗いがたい芳醇な霊魂の香りを放っているからだ。土蜘蛛は本能に逆らえない。その向こうで冒険者が駆けていようと、この赤煙に食らい付いて魔力を濾し取ることを何より優先してしまう。
赤い煙を裂いて、長剣が突き出される。
土蜘蛛の半身、剥き出しの断面へと剣が迫る。その側面が叩かれた。白毛に覆われた触肢が剣を払い除ける。
両者が激突する。
土蜘蛛にとって回復が間に合えば先のダメージを帳消しにもできる状況。アイラの狙い通り、至近の間合に入っても後退せずむしろ距離を更に詰めてくる。
密着し、取っ組み合い。
体重差は数十倍。だが押されたのは白毛の巨体の方だ。
「がっぷり組んで押し合うンならッ! 私のが強えッ!」
怪力が跳ね除けられて再び長剣の間合。鋭利な切っ先が組織を抉り取った。
一度後退した土蜘蛛が弾むように至近に戻る。赤いデコイを挟んでさながらチェーンデスマッチだ。だがそのデコイも少しずつ食われている。
この間にも傷口は沸騰したかのように泡立って再生しつつある。執拗に傷を攻めて、少しでも回復を鈍らせ、好機を探す。
大盾を構えて至近に踏み込み、剥き出しの断面への刺突。土蜘蛛は身体をよじって受け流すが、その隙にアイラが大盾でぶん殴り、抑え込みながら更に一歩前へ。続けざまにもう一度剣を振るう。肉を掠めるというところで土蜘蛛が頭を振り上げてそれを弾いた。アイラは土蜘蛛の身体を駆け登り、剣を逆さに抱いて脳天へと落下する。
断面に切先が沈んだ。まだ浅いか。土蜘蛛の牙がアイラに迫る。
(引くか、押すか――)
迷わず、アイラは剣を押し込むことを選択した。同時に鋭利な牙がアイラの肩に深々と斬り込んだ。強毒が血を焼いて激痛が襲う。それでも退かない。もっと深く刺せば差し引きは黒字だ。歯を食いしばり、剣を押し込み続け、絶対に逃れられないように。
間に合った。後は内側から裂いてゆけば決着する。アイラが剣を握る手に力を込め、もう一度、竜の言葉を唱えようとする。
その瞬間、どこからか、途方も無い怖気がアイラを襲った。
時間が凍りついたような感覚。
周囲は明るさを増していた。
この空間の光源、中央に屹立する晶石柱は一層まばゆく輝き、白光は岩を焦がさんばかりに熱を帯びている。
水が滴っている。
無色透明な立方体が、空中でゆっくりと回転していた。頭上を覆うほどの嵩があって音も気配もなく、霧を吸い込み、希薄な水滴を垂らしている。
カチリ、と。
不釣り合いに軽妙な音が唐突に鳴った。回転する無色透明の結晶が、彫刻されたかのように隅角を削り落とされている。
カチリと音の度に彫刻が進む。
これらは一瞬の出来事だ。
瞬く間に無色透明の彫像は変貌を遂げていた。それは精巧に彫られた蜥蜴の胸像だ。獰猛な眼、厚い鱗、顎には無数の鋭い牙を、眦の後ろに捻じくれた角を――
宝石に似ていて希薄。召喚物。かつて見たことのない異常な複雑性。アイラの脳裏に不吉な考えが渦巻く。
彫像が口を開く。鋭利な歯列から、低い唸り声に似た詠唱が漏れ出る。それ自体が魔術。
竜の言葉。
『遂に雪融けが訪れる』
彫像が白光を放ち、結晶の身体から水の奔流が溢れ出た。それは尾だ。一本の鞭のような、しなやかな水流の尾が、霜に覆われた岩盤を打つ。岩盤は抵抗なく切り裂かれた――抉り取られた――水流と化した。水流の尾が通過した物体全て、白い霜も黒い岩盤も全てが、砂糖が溶けるかのように透明な水に転じて、奔流の一部となった。
その水流の尾が、横薙ぎに振るわれる。岩盤を撫で、侵食して勢いを増しながら、地上の一切を無慈悲に洗い流す
奔流が激突し、水飛沫が上がり、波が通過して、…。
辺り一面は雪解け水の冷たい水溜りとなっていた。
冬の竜があれば冬となるように、竜は自身の言葉でもって自然環境を自身の棲家へと作り変える。冒険者の間で伝わる強化の魔術ではない、真正な竜の言葉。
一変したこの様相はまさに竜の爪痕に違いない。この空間、雪解け水を湛えた地上と空のミニチュアは今や竜をかたどる彫像の版図だった。
大盾と、その影となっていた一筋の領域を除いて。
「――ぷはッ」
水溜まりの浮島になった細い陸地の片端で、ずぶ濡れの冒険者は重くなった防寒着を脱ぎ捨てた。水を吸った革鎧もいらない。首に掛けた鎖が鈍く鳴る。
彼女が手に構えるのはこの世に二つとない不滅の鋼盾。理屈上では竜の息吹にも耐えると謳われていたが、実証したのは初めてだ。
決死の思いで盾の後ろに隠れたが、元いた場所から随分押し流された。
土蜘蛛は跳んで逃げていて、今、飛沫を上げながら着地した。
冷たい水が体力を奪う。
討伐すべき白毛の土蜘蛛。
乱入した無色透明の竜の彫像。
敵は増えた。
殊更厄介なことがあった。
竜の彫像は、殺意の籠もった眼差しで、アイラだけを睨みつけているのだ。
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