冬原地

霜路

冬原地 1

 冬の竜があれば冬となる。

 他の竜は寒さを嫌うから、そのまします地はとこしえに流動せず、氷雪だけが積もり、重苦しい静寂に呑まれている。元は山脈だったというが、雪の重みで圧し潰され、氷の下に沈んでいる。地上は見渡す限りの氷原だった――かつての山頂が海に浮かぶ島々のように点在し、その周りに人々が基地を築いて暮らしている。冬が緩むこの時期には隊商が行き交い、ここでは得られない食料や生活必需品を外からかき集める。

 冬原地で生まれ育ったトランスポーターも、外から招かれた冒険者も、この氷原の下にが空いているなど思いもしていなかった。


 深さ5000ft、最下層部。

 

 冒険者、革鎧の上に防寒着を重ねて着膨れした女は、厚い手袋で鉛筆を握るのに苦労しながら、目の前の光景を汚い字でノートに書き留める。

「足元は黒く凍結した岩盤、頭上は一面青白色の氷塊、空間の高さは8ft以上、奥深くに向かうにつれ広がっているようだ、…」

「ここの記録はきっと持ち出せないと思いますが」

「あンの御老公どもへ土産にするんだよ。自分たちが知ってる分には構わないんだろ?」

 冒険者の女はふんぞり返って顎髭を撫でる真似をし、低く作った声で「我々はァ正確な判断をもって民を導くためにィ」…

 制帽を被ったトランスポーターの男は笑う気になれなかった。天井と床だけで挟まれた、壁も柱も見当たらない空間にいるのだ。いつ天井が迫ってくるか気が気でない。

 小銃の負い紐を神経質に直すのを見て、冒険者が肩をすくめる。

「んな気張ってたって、いざって時まで保たねえぞ」


 彼らは埋没した山脈内部の坑道を下った奥深く、山体の外に出た、つまり山麓にあたる位置にいる。冬原地の底というべき場所だ。地盤そのものが沈降しているため、山を下ったという気はせず、ただ地下に潜っているという感覚だった。

 冬原地の坑夫がこの深くまで来ることはない。坑夫が活動できるのは坑道が整備された範囲まで。人の手が及ぶのを拒んだ危険地帯は封印されていた。

 トランスポーターの男もこの光景を見るのは初めてだった。一世代以上に渡って誰も踏み入ったことがない。誰も道案内などできないのだから、せめて一番使える者を案内人として連れて行け、と寄越されたのだ。


 男は地図に書き加えて測量を終える。その間に冒険者も手なりで地図を描いていたようだった。見比べると、目分量と勘で線を引いただけのそれは正確だったことがわかる。かけた手間が虚しくもなるが、いずれ手順の裏付けがない地図を頼りに帰還するなどと考えれば測量を辞めるわけにもいかない。


 荷物をまとめ、前進し、足を止めて地図を書き足す。

 何度か繰り返し、深部へ行くにつれ、次第に氷塊の天井は高くなっていった。ランタンの灯は薄ぼんやりとしか返らない。

 代わりに、夜空のように暗い足場にぽつぽつと星明かりがちらつくようになった。


「宝石か?」

 冒険者の女がしゃがんで黒岩を改める。

 手をかざすと、ポップコーンが弾けるように、矮小な無色透明の四面体が湧いて空気中を漂った。宝石に似ているが希薄だ。

「四面体、四面体……。砂粒程度しか残ってねえな」

 触れれば容易く崩れるほどに脆い。

 もしもレンズ豆ほどの大きさの宝石が埋まっていれば、棘や杭の形を取っていただろう。召喚物の複雑性は宝石の質を示す。四面体は最低限度の立体の形。まともに機能していない。


 宝石は形ある魔力の結晶だ。だから魂と似ている。生者が魔術を用いるように、あるいは加工した宝石が魔術の媒介になるように、天然の宝石鉱床も召喚物を生み出して自衛しているはずだった。


 凍りついた岩の表面を撫でる。この場所にも、広く齧り取られた跡があった。

「食い跡はあるな」

「なぜ根こそぎ食われていないんでしょう。それとも、食われてから新たに成長した? そんなはずは」

「この時期に宝石は育たねえって話だろ。それに食い跡はどんどん大きくなってる。ここが最新だ」

 トランスポーターが地図に標記した数字を冒険者が指で辿る。彼らが追ってきた道のりだ。彼女の言う通り、痕跡は大きさを増しながら深部へ向かっている。

「身体が成長しすぎて小さい宝石は食いこぼしちまうわけだ。顎の大きさからすると、頭はこれくらいか?」

 冒険者が傍らに置いたバックパックを指す。それの高さは長身の彼女の肩ほどまである。トランスポーターにとっては嫌な想像だった。 それからどれほど成長している?


「……ん?」

 次の移動の準備をした矢先に、周辺が急にざわめき立った。煙かもやのように鉱床の至るところから無数に無色透明な結晶片が湧き上がる。

 そして、深層からの暴風圧に吹き飛ばされた。


「伏せろ!」

 ランタンが粉砕された。にも関わらず辺りは晴天下のように明るくなっている。岩盤に生じたひび割れ、霧散した魔力の残滓が鮮明に照らされる。


 冒険者は咄嗟にバックパックを盾にして堪えていた。だが反響する轟音までは防げず、鼓膜がびりびりと痛みを訴えている。その背後で庇われた男は転倒し、苦しげにこめかみを抑えた。

「大丈夫か?」

「少し……動けそうにありません」

 トランスポーターは脳を揺さぶられ、意識は保っているが歯を食いしばってようやくという体だ。平衡感覚を失って立つこともままならない。


「ここじゃ発破作業でもやってんのか」

「いえ、おそらく……宝石の免疫反応です」

「あのポップコーンが弾けるみてぇなのが?」

 記憶を辿る。確かに宝石から召喚物が湧き出る際には衝撃が生じる。100lbの宝石塊を踏んでしまった経験があるが、その時でさえ風船が割れる程度しか感じなかった。

 二人して深層を見やる。この先に、途方も無いものがある。

 

「……この規模の免疫反応ということは、もう晶石柱まで辿り着かれてしまったはずです。僕は置いて先に行ってください」

 呻きながら深層を指す。

「……冬原地をお願いします」

「わかった」

 冒険者は短槍を取り出して男の傍らに突き刺した。途端にその場に居難い不快感が漂う。短槍に刻まれた符文は 『害する息吹』、獣避けの効果を持つ。この場においては気付けの意味もあった。


 冒険者がバックパックを縛り上げていたベルトを解く。一塊だった鞄が数個の小包に解体される。食料と調理器具、折り畳まれたテント、登攀具一式、医療鞄、汎用の儀仗、…。最後に残ったのはフレーム代わりにしていた分厚い鋼の大盾だった。冒険者はそれを片手で持ち上げる。

「荷物はここに捨てとく。万が一って時は使える物だけ拾って撤退してくれ」

 冒険者の装備は左手の大盾と腰に提げた三本の長剣のみとなった。「回復したら追ってこいよ」と言い残して深層へ駆ける。


 ほどなく、最深部、極寒、光源の御前に辿り着き、冒険者は息を呑んだ。


 そこは野原のようだった。

 足元にあるのは霜だ。見通せる限りの岩盤を霜の薄片が覆っている。踏みつけても砕けない。霊性の霧をたたえ、しなやかにそよぐ。頭上は高くに青白色の氷の天蓋が見える。中天に向かうにつれ高く、向こうの端は霞んでいる。まさに地上と空のミニチュアだった。


 中心には一本の柱が屹立している。それは天を衝く高塔に似て、全体が眩く白光を放つ晶石の柱であり、霜の岩盤から氷塊の天蓋までを繋ぎ止めている。天蓋とは冬原地の氷原に他ならない。この晶石柱が、冬原地をたった一本で衝き支えている。


 その晶石の柱に、一筋の亀裂が走っている。亀裂の中心は抉られ、麻痺しているかのようにバチバチと明滅し、存在の危機を訴える。


 晶石柱の足元には一匹の蜘蛛がうずくまっていた。それが遠目にも見て取れる。全身灰白色の毛で覆われた、四対八本の脚をそなえる巨体。正しく巨体だ。あれが虫だと知らなければ白亜の神殿とでも見紛うだろう。あるいはそれは異形で、歩脚の先は馬の蹄、口元には虎の顎をそなえている。白毛、巨躯、異形の土蜘蛛。


 うずくまる土蜘蛛の周りには明滅する大小の破片が散らばっていた。

(召喚物は見当たらねえ……まさか、もう食われた後なのか!?)


 土蜘蛛はしばらく身動ぎせずにじっとしていたが、やがて背中が裂け、ずるり、と同じ姿形が這い出てくる。無防備な外殻は冷気に呑まれるより早く成熟し、全身を覆う白毛は霜のようだ。

 白毛の土蜘蛛が、極寒を意に介さず伸びをする。それから、一跳びで軽々と氷の天蓋まで浮き上がると、逆さになって張り付き、支配者然としてこの空間を睥睨する。


 冬原地の鉱床を食い荒らし、いずれ氷原の支柱を倒すと恐れられ、今やそれを成しうるまでに成長した怪物。

 その怪物を、冒険者が討たなければならない。


 怪物の八個の眼が冒険者の姿を捉えた。

 かつて巨人の遺骸から涌き出た虫の類は、この世の死体と魂を貪り食らう責務を負っている。

 白毛の土蜘蛛の本能が、眼下の人間、大盾を携えた冒険者、その匂い立つ魂を獲物と認識する。


 一瞬、天蓋が跳ね上がったかのように錯覚する。それは白毛の土蜘蛛が八本の脚全てで蹴った反動だ。

 次の瞬間、白毛の巨躯が冒険者に衝突する。


 衝撃。


 さながら隕石の衝突だった。周囲一帯が薙ぎ倒され、黒色の岩盤がばきばきと割れ、捲れ上がってクレーターを形作る。

 砂塵の煙が立ち込めて、晴れる。

 クレーターの中心にあるのは白毛の土蜘蛛の巨体。標的だった大盾はその下敷きになっていた。


 土蜘蛛は無傷。だがその巨体が不安定に揺れた。接地していない。岩盤との間に、ちょうど人一人分の間隙が空いている。


 今度は、跳ね上がる分厚い鉄塊が土蜘蛛の顎を圧し潰した。


 土蜘蛛の巨体が宙に浮く。

 八個の眼が再び獲物の姿を捉える。冒険者の行動は単純、鋼の大盾ごと土蜘蛛を投げ飛ばしたのだ。ぎらついた視線が土蜘蛛に返る。そして、一本目の長剣を引き抜き、眼前まで一歩で踏み込んで、

『害する枝――』


 長剣は空を切る。

 土蜘蛛は咄嗟に空中で飛び退いていた。切っ先の先が眼を掠め、――爆風が土蜘蛛の顔を抉った。拳大の焼き焦げた爪痕が刻まれる。長剣の軌跡、岩盤のクレーターから土蜘蛛の頭を通って一様に抉り取られている。

 黒煙をたなびかせて土蜘蛛が後退する。焦げ付く空気の臭い、鳴動する長剣の危険を察知し、冒険者から距離を取る。

 距離を置いて冒険者と土蜘蛛が正対する。


 白毛の土蜘蛛は目の前の冒険者への認識を改めた。体格は違えど対等。獲物ではなく、速やかに排除するべき外敵とみなす。

「上等だ――やろうか、土蜘蛛」

 対する冒険者、アイラ・スレートは、気管支を上る血を吐き捨て、しかし牙を見せて獰猛に笑った。彼女もまた怪物だ。

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