第3話
「いてて……」
首元を押さえながら、黒河は辛そうに身体を起こした。すぐに俺に気づき、「誰ですか?」と一瞬身構えた。
「外から首を吊ってるのが見えたから、部屋に入ってあんたを助けた。鍵、開いてたから」
一息に言うと、黒河は顔をしかめた。
「余計なことしないでくれよ。俺は死ぬつもりなんだからさ。悪いけど、帰ってくれるかな」
「ふざけんなよ、おっさん。女に振られたくらいで死ぬなんて、何考えてんだよ」
「……読んだのか、遺書を。勝手に読むなんてどうかしてる」
黒河はテーブルの上に視線を移した。どうかしてるのはお前のほうだろう、という言葉を飲み込んだ。
「遺書というか、潰書なら読んだよ。どうしようもねえ潰書だったよ」
「かいしょ?」
俺はため息をついた。なんでこんなことになってしまったのか、自分の運のなさを嘆いた。
「とにかく、そんなくだらない理由で死ぬのはやめろよ。人生のどん底を経験したこともないくせに、あんたみたいに命を軽く考えてる奴を見てると腹が立つんだよ」
「……まるでどん底を経験したような言い方だね」
「したよ。落ちるとこまで落ちた」
両親が自殺し、叔父夫婦に引き取られた。俺はそこで厄介者として扱われた。あの家に、俺の居場所はなかった。
中学の頃に少年院に入ったこともある。同じクラスの奴に両親がいないことを指摘され、腹が立って殴ってやった。止めに入った教師も殴り、そのまま三ヶ月間少年院に入った。
高校は行かなかった。半年間バイトをして金を貯め、十六歳で叔父夫婦の家を出た。
両親を失ってから、俺は孤独な人生を歩んできた。仕事は続かないし女も寄り付かない。友達と呼べる奴だって一人もいない。これほどのどん底を味わっていない奴は、自ら死ぬ権利なんてないのだ。少なくとも俺は認めない。
「遺書にも書いたけど、死にたい理由は彼女に振られたことだけじゃないんだ。いろいろと、疲れたんだよ」
「仕事がどうだとか、くだらないことを長々と書いてあったな。あんた、なんの仕事してんだよ」
「一応、お笑い芸人やってます」
「芸人?」
俺が問いかけると、「売れない芸人だけどねぇ」と黒河は照れ臭そうに笑う。いちいち腹が立つ。
「芸人って東京とか大阪にしかいないと思ってた。こんなところにもいるんだな」
「よく言われるけど、地方にも意外といるんだよ。近くに養成所もあるんだ」
「知らねえよそんなこと」
強めに言い返すと、黒河は黙り込んだ。このまま帰ったらこいつはまた首を吊るに決まっている。助けたいだとか、生きてほしいだとか、そんなことは微塵も思っていない。ただ、死にたいならそれなりの労苦を経験してから死ね、と思った。この男はまだ、到底死に値しない。もう少し話を聞いて死んでもよし! と俺が判断したら何も言わず帰ることにした。
「十年間芸人やったけど、売れないから嫌になって死にたいわけか」
「まあ、それも理由のひとつではあるね。コンビも解散しちゃって、今はピンでやってるんだけど、全然上手くいかないんだ」
「あんた、芸名は?」
俺はお笑いなんてくだらない番組は基本観ない。けれど有名な芸人なら何人か分かる。知ってる名前が出たらたいしたもんだ、と試しに訊いてみた。
「ガム……シャラ男……です」
「なんだそれ。ふざけてんのか」
「……すみません」
黒河は申し訳なさそうに顔を伏せた。小柄な身体が、さらに一回り小さくなったような気がする。
「あんたの仕事は人を笑顔にする仕事なんじゃねえのかよ。いるのか知らねえけど、ファンが悲しむんじゃねえのかよ」
「ファンなら、少しだけいます」
黒河は力なく言うと、おもむろに立ち上がりカラーボックスの中から封筒を四枚取り出し、テーブルの上に置いた。
俺は封筒の中から便箋を取り出した。それはファンレターらしく、彼を応援する言葉が綴られていた。
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