第2話
助ける義理はなかった。しかし、気づけば無意識に身体が動いていた、という他ない。俺たち家族の思い出が詰まったこの部屋に、これ以上悲しみを増やすな、という思いがどこかにあったのかもしれない。
薄汚れた畳の上に横たわる男を、俺は荒い呼吸のまま見下ろしていた。
十数秒前、俺は部屋に入るとすぐに小柄な男の身体を持ち上げ、ロープを首から外し、畳に叩きつけるように男を放り投げた。火事場の馬鹿力とはまさにこのことだ。
男は意識はないが、死んではいないようだった。短い髪の毛は薄く、脂ぎっている。首には薄っすらとロープの痕がついている。なんでこんなやつ助けちまったんだろう、と改めて自分の行為を悔いた。
どっと疲れが押し寄せてきた。畳に膝をつき、呼吸を整える。
首を巡らせ、ゆっくりと室内を見回す。カーテンや家具などは当然ながらあの頃とは違うが、やはりどこか懐かしさを感じる。遠い日の記憶が、ふいに頭の中で再生される。
この部屋で父と母と過ごした温かい記憶が、次々と蘇る。ぐっと涙を堪えた。
「おい、おっさん。大丈夫か?」
我に返り、男に声をかけてみたが反応はない。とりあえずロープだけは回収しようと思い立ち上がると、ふとガラス製のテーブルの上に目が止まった。
『潰書』と書かれた封筒が置いてあった。おそらく、遺書と書きたかったのだろう。
読んでもバチは当たらないだろうと思い、封筒に手を伸ばした。
中から便箋を取り出し、四つ折りにされたそれを広げる。汚い字で書かれた『潰書』には、こう書かれていた。
『親父、お袋、姉貴、勝手なことをしてごめんなさい。生きることに疲れました。
八年間付き合っていた恋人に振られました。彼女なしでは、生きてはいけません。もちろん、死にたい理由はそれだけではありません。最近、幽霊に取り憑かれたかもしれないのです。もしかしたら、お迎えが来たのかもしれません。それに幽霊だけではなく、ネズミもたまに出ます。もううんざりです。
それから、仕事も上手くいきません。とりあえず十年は頑張ってみたけど、無理でした。俺には才能がなく、かといって今さら転職する気にもなれません。面接もかったるいし、職場の人間関係とかサービス残業、重労働低賃金、考えただけで嫌になります。
増税や老後の年金問題など、お先真っ暗なこの国で、これ以上生きる意味なんてあるのでしょうか。俺はないと思います。だから潔く、人生の幕を閉じようと思いました。
以下、家族以外は読まないでほしい。
俺が死んだ後、アパートの引き払いだとか携帯の解約だとか、いろいろ世話かけると思うけどよろしく頼むよ。
潰書と一緒に通帳と印鑑も置いておくから、俺の葬式の費用に使ってくれ。それから、俺の友達には病死したと伝えてくれ。自殺したなんて、かっこ悪いしな。それと姉貴、借りてた三万円返せそうにない。悪いな。以上』
彼の『潰書』とやらを読み終えて、ビリビリに破り捨てたい感情に駆られた。なんて自分勝手な言い分なのだろう。要するに彼は、長年交際していた恋人に振られて生きる希望を失ったのだ。それを全て社会のせいにしている。自分の不甲斐なさを棚に上げ、幽霊だとかネズミだとか税金だとか、訳の分からない言い訳をして逃げているだけだ。
ふつふつと怒りが込み上げてきた。こいつは死を軽く考えている。俺がどんなに悩み、もがき、苦しみ、死を決断したと思ってる。ふざけるな。こいつの十年と俺の十年では、重さが違う。
テーブルの上に通帳と印鑑が置いてあった。なんの躊躇いもなく、俺は通帳を手に取り開いた。
残高二千八百円。やっぱりこいつ……。
他人の俺がこれだけ憤慨しているのだ。彼の家族がこれを読んだとしたら、悲しみよりも怒りのほうが勝るだろう。
テーブルの上には財布も置かれていた。薄っぺらい黒の二つ折りの財布を手に取り、中身を確認する。
所持金は三百五十二円。免許証によると、名前は黒河敦、三十歳。俺の八つ年上だ。いい年した大人のくせに、どうしようもない奴だ。
財布をテーブルに放り投げ、どうしたものかと考えていると黒河敦が目を覚ました。
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