とあるアパートの一室で起きた奇跡
森田碧
第1話
遺書を書き終えた。特に誰かに宛てたわけではなく、一つの儀式として、必要だと思ったから書いたに過ぎない。ボールペンを置き、丁寧に折り畳んで封筒に入れた。
次にホームセンターで購入した、太いロープを手に取る。部屋をぐるりと見回し、「失敗したなぁ」とひとりごちる。
ロープを引っ掛ける場所がなかったのだ。ロープを購入した帰り道で、そういえば引っ掛ける場所があっただろうか、とその時になって気づいた。
殺風景な狭い部屋には、テレビが一台、木製の背の低いテーブルが一卓、一人掛けの小さなソファーが一脚あるだけだった。
テレビ台には、伏せられた写真立てがある。もう何年も伏せたままだ。
深いため息をつき、目を瞑る。まぶたの裏には、喪った家族の姿があった。
両親が自ら命を絶って、今年で十年になる。
小学校の修学旅行が終わって家に帰ると、両親はすでにこの世にはいなかった。
遺書には一言、『彰、お前は生きろ』とだけ書かれていた。いくらあったのかは知らないが、両親には借金があったらしい。
それでも俺は父と母を恨んだことは一度もない。ただ、どうして俺を連れていってくれなかったのか、それだけが悲しかった。
両親の死後、俺は叔父夫婦に引き取られ、紆余曲折あったものの、なんとか今日まで生きてこれた。しかし、心に負った傷が癒えることはなかった。
『お前は生きろ』と遺書にあったので、とりあえず十年は生きてみた。しかし、これ以上生きても意味がないと最近思うようになった。
今日は両親の命日でもある。父と母が死んでちょうど十年。俺が旅立つ日として、これほど相応しい日は他にないだろう。
時刻は午前九時。死ぬ前に、どうしても行きたい場所がある。
俺が死を決意したのは、つい先週のことだった。その時にふと、最後にもう一度あの場所に行ってみようと、なんとなく思い立った。
スマホと財布だけポケットに入れて、俺は家を出た。
バスと電車を乗り継いで一時間。降りてからさらに三十分歩く。
懐かしい道だ。あのコンビニも、あの公園も、十年経っても変わらないままだ。
昔通っていた小学校の前を通り、住宅街に入る。この十年で、ずいぶん家が建った。
そして、ようやく目的のアパートが見えてきた。当時はぼろぼろのアパートだったが、リフォームされたのか外壁は綺麗に張り替えられている。
「懐かしいなぁ」と思わず声が漏れた。
自然と頰が緩み、優しい気持ちになる。
ここは、両親との思い出が詰まったアパート。
物心がついた頃から小学六年生になるまで過ごした、思い入れのあるアパートだ。
このアパートをひと目見るだけでよかった。死ぬ前に、最後にこの目に焼き付けておきたかった。それが済んだら、すぐに帰るつもりだった。
それなのにどうしてか、俺はアパートの古びた鉄階段を上がっていた。
カン、カン、カン、と、あの頃と変わらない甲高い音が響く。
ここまで来るつもりはなかった。何かに引き寄せられるように、俺は扉の前に立っていた。俺たち家族が住んでいた部屋の、扉の前に。
今はどんな人が住んでいるのだろう。しかし、さすがにこれ以上は踏み込めない。
踵を返し、階段を下ろうとしたところでガタンッという何かが倒れるような音が聞こえた。それは俺が昔住んでいた部屋から聞こえたようだった。
窓のカーテンの隙間から、中の様子が見えた。
次の瞬間、俺は走り出していた。男が部屋の中で首を吊っているのが見えたからだ。
ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。
もう二度と来ることはないと思っていたアパートの一室に、俺は実に十年ぶりに、奇妙な形で足を踏み入れることになった。
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