第2話 頼られるのはやぶさかではない

 席替えから一週間が経った。


「おはよう」


 と低めのテンションで教室に入った強は、教室扉の端っこに足の小指をしたたかにぶつけて悶絶していた。


「保健室まで連れていくのはやぶさかではないわ」


 慌てて梨代が強に駆け寄って話しかけると、「藪坂だけど……」と小さな声で言った。

 結局、梨代に肩を貸してもらって強は保健室に運ばれた。


「強くはぶつけているけど、特に異常はないみたいよ」


 保健教諭が言ったので、シップだけ貼ってもらって教室に戻った。


 教室に戻ると授業が始まっていたので、二人は早速授業の準備を始めた。

 しかし、強は今日も教科書を忘れた。今度は数学の教科書だ。机の中を何度確認しても、鞄の中を確認しても、あるはずの教科書は見つからない。


「あの……」


 声を絞り出すように呟いた強に、藪坂梨代は既に慣れた様子で教科書を差し出していた。


「また忘れたの? まあ、教科書をみせるのはやぶさかではないわ」


 いつもの調子で梨代は「藪坂だけど……」と小声で付け加える。

 その言葉には非難の色はなく、むしろ少し困ったような、でも優しい響きがあった。


「すみません……」


 強が謝ろうと頭を下げた瞬間、今度はしたたかに額をぶつけた。そのときの衝撃で、今度は消しゴムを床に落としてしまう。それを拾おうとして、さらに鉛筆まで転がり落ちた。


 教室に小さな笑い声が広がる。


「落ちた鉛筆を拾うのも……」


 梨代は自然な仕草で床に落ちた文具を拾い上げた。その動作には無駄がなく、まるでずっとそうしてきたかのような慣れた感じがあった。

 強には、梨代が鉛筆を拾いながら言った言葉の続きが気になった。やはり、「やぶさかではないわ」なのだろうかと。


「ありがとう……ごめんね、いつも」

「気にしないで。代わりに、今度は忘れ物しないように気を付けてね」


 梨代の言葉に、強は必死に頷いた。でも、彼は知っていた。明日も、明後日も、きっと何かを忘れてしまうだろう。それが自分なのだ。


 なんで、こんなに不器用でどん臭いんだろう――強は自分を情けなく感じた。


 放課後、強は一人で教室に残っていた。明日こそは忘れ物をしないよう、カバンの中身を何度も確認している。


「まだいたの?」


 突然声をかけられ、強は思わずカバンを落としてしまった。振り向くと、そこには掃除当番を終えた梨代が立っていた。


「藪坂さん……」

「カバンの中身、確認してるの?」


 梨代は強の隣の席に腰かけた。夕暮れの教室で、二人は妙に距離が近く感じられた。


「うん。でも、きっと明日も何か忘れちゃうと思う」


 強は正直に答えた。梨代は少し考えるような表情を見せ、それから小さく息をついた。


「最近ね、少し疲れてきたの」


 その言葉に、強の心臓が痛むように締め付けられた。


「やっぱり、迷惑だよね。ごめん……」

「違うの」


 梨代は首を横に振った。


「あなたが必要以上に気を遣っているのが、見ていて疲れるの」


 強は驚いて梨代を見た。


「私は頼られるの、好きだから。下高君に頼られるのはやぶさかではないというか……。気にせず、もっと自然に、普通に……ね?」

 その言葉は、梨代が自分のことをよく見ていることを感じさせ、強の心に深く沁みていった。


「はい……これからは、もう少し……」


 言葉の最後を濁しながら、強は微かに顔を赤らめた。


 梨代は立ち上がり、カバンを手に取った。夕日に照らされた横顔が、やけに綺麗に見えた。


(藪坂じゃないんだけどね……)


 今日も心の中でそうつぶやきながら、梨代は教室を後にした。その背中を見送りながら、強は不思議な気持ちに包まれていた。


 自分の不器用さは変わらない。でも、それを受け入れてくれる人が、こんなに近くにいるということ。その事実が、強の心に小さな、でも確かな変化をもたらし始めていた。

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