13.還ってきた仏像

 何度も書いているが、「ひょっとしたら」という気持ちはあっても、現代人としての理性、合理主義を持ち合わせていた私は、仏像とその呪いに対して半信半疑のままであった。

 ただ、「ひょっとしたら」という一縷の考えは、私に恐怖を抱かせた。

 仏像を預かった当初は「呪いが本当だとしても、クソみたいな人生だし死んでもOK。その上、心霊体験もできるからラッキー」という気持ちでいたが、自分の死の可能性というのを、あくまで漠然とした不安のレベルではあっても、面前に突きつけられてみると、やはり恐ろしさを抱いた。その恐怖を克服しようとして、私は必要以上、それまで以上に、理屈っぽい考え方をしてみた。

 これまでに起きた悲劇、惨劇はすべて偶然。世に存在する各々の事物は、偶然によって希望あるいは恐怖の原因になる。良いことがあった時、近くにあった物はラッキーアイテムになるし、その逆もしかり。私のアパートで起きた惨事も、たまたま近くに謂れのある仏像があっただけ。双方とも、ともに独立した無関係のものである。

 サワベも桜木も、この仏像が呪われていると思うからこそ、自己暗示状態になり、狂気へと陥ったのだ。サワベの自然死も、おそらくヒステリー状態になって体に負担が掛ったのだろう。サワベは高齢だった。さもありなん。桜木も、ありもしない呪いを仏像に見出して、言い方が悪いが自爆したのである。彼が話した仏像の逸話、そこで亡くなった人々も、何かしら仏像に関する四方山話を聞いていたに違いない。結句、思い込みから破滅したのである。もしくは、桜木がまったくの法螺話をしたのだ。

 身の裡の葛藤はさておいて、私自身には直截的な危害が降りかからなかったのは事実である。というわけで、私にとって仏像は、呪物という先入観を捨ててしまえば、ただの置物に過ぎなかった。だから部屋の風景のひとつとして、仏像は落ち着いてもよかったハズであった。

 ただ、人間心理というのは複雑なものだ。

 私は仏像へ「ひょっとしたら」という恐れを抱いていた一方で、仮に仏像が本物だとして、何故、おれには何事も起きないのだという不満も抱いた。これまで心霊現象を求めて悪戦苦闘し、何ら結果が実らなかったのと同じく、この仏像の件でも、私は肩透かしを喰らうのではないか。本当に何も起きない、それらしい現象もゼロだったら良かった。この仏像の件で質が悪いのは、周りでは「ひょっとしたら」という事件が立て続けに起きながら、私には何も起きないという""焦らし""を私が受けている点だった。

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