8.火禍による2名の死、ならびに別の2名の死

 翌日のこと。私の住むアパートで火災があった。2階の角部屋に、母と子の2人暮らしの家庭があった。母親は見た目が30くらい、かなりの美人。子どもは2,3歳くらいだろうか、母親と違い、あまり外見的に恵まれているとは思えなかった。子どもを見るたび私は、この子どもは父親似なのだろうなと、一人合点していた。その子どもが、昼寝をする母親の横でライターをいじくり、家を燃やしたのである。

 私は外出していた。パチンコを打ち、小勝ちした。ルンルン気分。遂にツキが巡ってきたぞ。意気軒高としてアパートに帰ると、建物の周りに人だかりができ、我が愛しの住処が部分焼けしているのを目撃した。母子の部屋の部分だけが、真っ黒になっていた。

 哀れなことに母子は焼死した。しかし、事態はこれだけでは収まらなかった。検分のためアパートを回っていた警察と消防と大家が、別の2部屋でも住人が死亡しているのを発見したのである。彼らは火禍に巻き込まれたわけではなかった。母子の斜め下の部屋には70くらいの老人が住んでいたが、その老人が湯舟で溺死していた。もうひとつの部屋では20代の男が住んでいたが、その男は縊死している姿を発見された。どうやら、前の晩に首を吊ったらしい。

「今日は別の場所で過ごしてください」

 警官に言われた。いくら住人であろうと、事態がこう凄惨であれば自由な出入りは叶わないらしい。私は警官が監視する中、自室から貴重品や私物を数点、それから件の仏像を持ち出した。ネットカフェに泊ることにした。

 この時の私は、アパートの惨劇と仏像との関連を考えないでもなかった。だが、身の回りで起きたばかりの悲劇を、オカルトと結びつけるのは不謹慎である。私は直ぐに反省した。

 人間には、まったく関係のない物事同士を偶然によって結びつけるつける癖がある。たとえば、風よ吹けと念じた直後に風が吹いたとする。すると、祈念が通じたから風が吹いたのだと早合点する。実際には、祈りと風には何の関係もない。ただ、タイミングが合っただけの話。第一、そんなに都合よく人間の願いが叶えられていたら、今頃、地球上から人間は消え去っていただろう。人間は凄惨言語に絶するようなことを、お互いに対して願い合っているものである。

 私はギャンブル好きということもあって、よく験を担ぐ。それをして勝つこともあれば、負けることもある。そして大抵の場合、験を担いで勝ったパターンのことだけを記憶する。そのせいで、験を担げば勝率が上がる等、愚かな勘違いをする。こうした自覚がありながら、私はこの泥沼の思考パターンから抜け出せない。

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