第54話 呼び名

 翌日。普段とそう変わらない時刻に目を覚ます。

 昨日は遅くまでアンナと話をしていたため、起きるのも遅くなってしまうかと思っていたが、早起きがすっかり習慣になっているらしい。

 自室を出るが、アンナの様子はまだ見えない。

 アンナもいつも相当早起きではあるが、昨日の件もあり、今日は少し遅れているようだ。


 外に出て、軽い運動から始める。

 今日も恐らくアンナとの話を長く行う事になると思うため、出来る時にやってしまおう。

 昨日の話で自分の正体やら本心を打ち明け、心がすっきりしているためか身体も軽い。

 

 調子が良いまま数十分程トレーニングを続け、離れの中に戻る。

 浴室で身体を流す時間を考慮すれば、アンナも目を覚ましているだろう。


 

 目を覚ましたアンナが急いで朝食を作ってくれたため、現在は共に食堂に居る。

 いつも通りアンナの料理はとても美味しいが、そのアンナの様子は少しだけ不自然だ。

 別に暗い雰囲気という訳では無いが、何処か悩んでいるような印象を受ける。

 と、そんな事を考えているとアンナが口を開く。


「………あの、昨日は申し訳ありませんでした。貴方がラース様では無いということを知ってから、よく考えると、とても馴れ馴れしい態度を取ってしまって………」


 と、伏せ目がちに告げてくる。

 その言葉でアンナが何を悩んでいるのかは分かった。

 

 確かに、これまでの一月の間のアンナと昨日のアンナは大分印象が異なっていた。

 俺としては全く問題無いが、これまでとの態度が違っていたとアンナ自身後になって気付き、そこを気にしていたのだろう。


「いや、全然問題は無いよ。寧ろ、アンナが素の性格を見せてくれたのなら、俺は嬉しかったかな」


 アンナを心配させないために柔らかい表情を心掛ける。

 それがどれ程効果があったかは分からないが、アンナは幾分か安心した様子ではあった。

 そして、


「……………宜しいのでしょうか?」


 と、最終確認のように尋ねてくる。


「俺としても、本当に気楽に接してくれた方が有難いから。これまでのことは一度忘れて、昨日のような感じで大丈夫だよ」


 そもそも前世の俺、水無瀬令人は別に偉い立場でも何でも無い。

 現在の身体であるラースが伯爵令息ということで貴族扱いにも少しは慣れているが、本音を言えばそういった扱いは気疲れしてしまう。

 必要な場面では相応の振る舞いをすべきだが、そうでないのなら、お互い気楽で居た方が良いに決まっている。

 


 俺の様子から、それが嘘偽りの無い本音だと分かったのか、


「………はい。では、改めてよろしくお願いしますね」


 と、柔らかな笑みを向けてくれた。




 朝食を食べ終わり、そのまま食堂でアンナとの話を続ける。

 すると、アンナがふいに尋ねてくる。

 

「ずっと思っていたんですが、貴方の事は何と呼んだら良いでしょうか?」


 確かに、それは俺も思っていた事だ。

 昨日の一件以来、アンナは俺のことをずっと"貴方"と呼んでいる。

 そろそろちゃんとした呼び名を決めた方が良いだろう。


「そうだね。人前では、今まで通りラースと呼んでくれれば良いけど………」


 と、俺がそう告げると、アンナが少し顔を強張らせる。

 そして、


「…………ということは、これからもラース様として振る舞う、ということでしょうか?」


 と、尋ねてくる。

 そういえば、自分の中では完結していたけれど、アンナにはまだ伝えていなかった。


「ごめん、先に伝えておくべきだったね。アンナの言う通り、俺はこの世界でこれからもラースとして生きていくよ」


 俺の考えを伝えると、アンナは少しだけ驚いた表情になりつつも、それでも納得した様子を見せる。

 だが、心配してくれているのか、不安げな顔で問いかけてくる。

 

「…………大丈夫、ですか?」


 昨日の一件もあって、あまり得意げに言えることでは無いが、俺の中ではもう納得して決めていることなので、心配はいらない。


「大丈夫だよ。強がりなんかじゃなく、本当に納得していることだから。………それに、俺にはアンナがいるからね」


「~~~~~ッ//」


 心からの思いを告げると、アンナは肩をビクッと震わせ、顔を伏せてしまう。

 素直な感情とはいえ、あまりにストレートに告げるのは確かに気恥ずかしいものがあっただろうか。

 

 まあとにかく、本当の自分で居られる存在というのは、それだけ有難いものということだ。


 

 アンナは気持ちを落ち着けるように数秒経ってから、顔を上げる。

 尚も、俺と目が合うと顔を逸らしてしまった。


 昨日の話の方が色々と語ってしまった気がするが、あの時はお互いに気分が高まっていたため、こういう状況で言うのは、また違うのかもしれない。 


 と、それはともかくアンナは受け答え自体はしっかりと行ってくれた。


「そっ、そうですか。分かりました。では、私も公の場ではラース様として接しますね」

 

 何やら妙な出来事もあったけれど、理解してくれたのなら何よりだ。

 とはいえ、元々の本題は俺の呼び名についてだったので、これで終わりではない。


「それで呼び名に関してだけど、別に二人の時もラースと呼んでくれても構わないけど、……別人なのにそのままというのも少しおかしいかな」


 別人だと分かっているのに、ラースと呼び続けるのも違和感があるだろう。

 そう思って告げると、アンナも同意見だったようで、


「そうですね。その、私も出来れば本当の名前でお呼びしたいかな、と」

 

 両の指先を突き合せつつ、伺うようにそう告げる。


 アンナもそう思っているのなら、話は早い。

 

「なら、二人で居る時はそう呼んでくれれば大丈夫だよ」


「分かりました。…………ミナセ様、レイト様、どちらにしましょうか」

 

 俺の言葉に答えた後、悩むように小さな声で俺の名前を呼ぶアンナ。

 と、そこで告げておかなければいけないことに気付く。


「そういえば、俺の居た世界とこの世界では名前と名字、家名の順序が逆だから、レイトが名前でミナセが家名だよ」


 こういった所にも世界間の違いは表れる。

 とはいえ、地球でも日本以外の国ではファーストネームが名前で、ラストネームが名字、またミドルネームの存在などといったように違いはあるので、そこまで驚くことでも無い。


「あっ、そうなんですね。ではレイト・ミナセ様ですか」


「アンナが構わないのなら、レイトと名前で呼んでくれて良いよ」


 悩んでいる様子だったので、後押しするようにそう告げると、アンナは何処か嬉しそうに、


「そ、そうですね!では、レイト様と」


 と、俺の名前を告げる。

 それ自体は問題無いのだが、せっかくならもう少し砕けた呼び名にしたいと思う。


「別に、様付けも要らないよ」


「えっ。………ですが、流石にそれは」


 全く構わないのだが、アンナとしては少し抵抗があるようだ。


「昨日も軽く説明したけど、家名はあるけど、俺は前の世界で別に貴族では無いから。ただの平民だったし、様付けされる方が違和感がある、というより落ち着かないかな」


 この世界では家名の存在は貴族の証だ。

 しかし、現代日本では貴族なんて存在は居ないし、政治的・社会的に上位の立場ならともかく、ただの学生であった俺が様付けなんて正直やめて欲しいとすら思う。

 特に、令人と呼ばれる時には。


「というより、昨日はさん付けで呼んでくれてなかったかな?」


「あっ、あの時はその、雰囲気というか。自然とそう呼んでしまったというか………」


 若干口籠もりながら、そう弁明するアンナ。

 そもそも何も悪いことでは無いので、後ろめたく思う必要など無いのだが。


「まあとにかく、様付けなんてせずに、砕けた呼び方にして貰った方が俺は嬉しいよ」


「わ、分かりました。それでは、レイトさんで」


 別に呼び捨てでも良いのだが、これ以上は無理強いも出来ない。

 公私の場、それぞれでの呼び名が定まっただけで良しとしよう。


 だが、



「(レイトさん、……レイトさん、……ふふっ)」



 ぎりぎり聞こえる程の声量で俺の名前を嬉しそうに呟くアンナの姿が良く分からず、印象的だった。

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