第53話 これまでと、これから
この世界で感じていた辛さや苦しみを残らず吐き出した俺の心は、驚く程にすっきりとしていた。
知らず知らず精神的に擦り減っていたのだろう。
けれど、この瞬間にようやく本音を話すことが出来たおかげで、これからはもう大丈夫だと心から思える。
とはいえ、
「ごめん、アンナ。みっともない所を見せてしまって」
目の前で散々喚き散らしてしまった事に対する羞恥もあるが、それ以上に申し訳無い気持ちが強い。
そう思って、アンナに謝罪すると、
「謝られることなんてありませんよ。寧ろ私は嬉しかったです。本音を話せる相手だと思って貰えたのなら」
と、柔らかな笑みを浮かべながら告げてくる。
確かに、それについては間違いない。
今日までは例えアンナが相手でも、こんな事を言おうとは思わなかった。
けれど、今では寄りかかって良い相手なのだと、自然と感じる。
アンナに支えられてばかりで、申し訳無い気持ちは未だ確かにある。
だが、アンナ曰く自分を大切にして欲しいとの事なので、少し位頼っても良いのだろう。
「……俺は本当に、アンナに支えられてばかりだね。………でも、ありがとう」
少しの申し訳なさとそれ以上の感謝を込めて、アンナに言葉を送る。
すると、
「当然ですよ、私は貴方の専属メイドですから。それに、きっとお互い様です。私も貴方に数えきれない程支えられていますから。こちらこそ、ありがとうございます」
と、そんなことを言ってくれる。
アンナはもう、飾らない自分で居られる掛け替えの無い存在だ。
なら、難しく考える必要は無いのかもしれない。
これからも互いに支え合っていけば、それで良い。
「あ、それと、…………これからも宜しくお願いします」
どうやらアンナも同じことを思ったのか、はにかみながら、そう告げてくる。
そんな言葉を受け、俺は、
「ああ、勿論。こちらこそ」
自然と口角が上がりつつ、そう答えた。
これからもよろしく、ということで良い雰囲気になったところで申し訳無いのだが、一先ず告げなければいけないことがある。
「アンナ、…………そろそろ手を」
そう、先程手を握られてから今まで、アンナは俺の手を取ったままである。
そうなると必然、お互いの距離も中々に近いものになっている。
勿論決して不快な訳ではないが、この時間に俺の自室でとなると、あまり宜しくないものがある。
そう思って、アンナに告げると、
「あっ、……も、申し訳ありません!」
顔を赤らめながら、勢いよく手を離した。
そして落ち着きなく、俺の手と自分の手を交互にちらちらと見ている。
そんな反応を可愛らしく思いながらも、俺はこれから何を話そうかと考えていた。
先程から思っていた通り、アンナとはまだまだ話さなくてはいけないことが多く残っている。
とはいえ、時間も時間なので特に重要なことだけでも話そうと考える。
そして、
「…………アンナ、一つ大切な話があるんだけど、良いかな?」
先程まで空気が弛緩していたが、俺の雰囲気から真剣なものだと悟ったのか、アンナも表情を引き締める。
一先ず、今の時点で伝えなければいけないこととして、
「色々と話さないといけないことはあるけど、その、ラースのことは俺にもどうしたら良いのか分かっていなくて………」
先程も軽く話しはしたが、改めてラースのことを告げる。
すると、アンナは少し表情を暗くして、
「そう、ですね。ラース様の人格がどうなってしまったのかは、分かるはずもありませんからね」
と、告げる。
俺がどうしてラースになったのかも分からない現状では、ラースの人格がどうなったかは尚更理解出来るはずもない。
「………アンナは、ラースのことをやっぱり大切に思っていたのかな?」
先程の会話でもラースのことを尋ねてきたし、そうだろうと思って尋ねる。
しかし、アンナからの返答は少し予想外のものだった。
「どう、なんでしょう。拾って頂いた恩がありますし、人柄としても嫌いという訳では無かったので、長年仕えてきましたが。………それでも、ラース様の人格が消えたかもしれないということを聞いて、少なからずショックを受けたので、自分で思っている以上に大切だったのかもしれません」
その答えは俺からしたら少し意外なものだった。
アンナはラースのことを、純粋に心から大切に感じているのかと思っていた。
けれど、先程の会話で分かったことだが、アンナにも目上の存在に対するものと素の性格とで少し違いがあるのなら、今まで感じてきたイメージと全く同じではないのかもしれない。
と、それはともかく、
「俺が転生した原因が分かったりすれば、ラースがどうなったのかも分かるかもしれないけど、現状ではどうすることも出来ない、かな」
「そう、ですね。………それでも、冷たい言い方になるかもしれませんが、ラース様にお仕えした数年間も決して悪いものでは無かったですが、私は貴方と共にいたこの一ヶ月が何よりも幸せだと感じました。だから、貴方と出会えたことは、私にとって奇跡のようなもので、それ自体は決して否定したくはありません。心から嬉しく思っています」
と、そんなことを言うアンナ。
そもそも俺も、酷い悪童であったラースのことは嫌いという訳では無いが、好ましいとも思えない。
他者を見下し、己が一番だというラースの考えは理解出来ないし、良い人間だとは思えない。
きっとアンナにとっても難しい存在なんだろう。
拾われた恩や長年共に居たことで情はあるが、ラースに向ける感情はあくまでそういったもの。
それを冷たいとは思わない。
人間の感情は好きと嫌いだけで表せるものではないし、複雑な感情があって然るべきだ。
「ラース・フェルディア様という方にお仕えしていたことは、決して忘れません。それでも、私の目の前にいるのは紛れも無く貴方であって、これからは貴方の専属メイドとして、生きていきたいと思っています」
と、そう告げるアンナ。
どちらを選ぶとか、そういう話では無い。
事実として、ラース・フェルディアの人格は消え、今は水無瀬令人の人格が存在している。
そしてアンナは、自分で言うのは恥ずかしいが、俺の事を大切に思ってくれている。
アンナがそれで納得しているのなら、俺がこれ以上とやかく言うことでは無いのかもしれない。
そして、アンナの言葉を聞いて俺も考えたことがある。
この世界に、ラースの身体に転生してから思ったこと。
今の自分がラースなのか、令人なのか。
あの時はすぐには決められなかったけれど、今なら胸を張って言える。
やはり俺は、水無瀬令人だ。
身体がラースのものであろうと、水無瀬令人の肉体が死んでしまっていたとしても、俺という心は決して死んでいない。
けれど、ラース・フェルディアであったことを忘れるつもりも、ラースであったことから逃げるつもりもない。
俺はこれからもラースとして生きるし、関わった多くの人のためにも、ラースとして立派に成長すると決めている。
それが、この世界で確かに存在していたラースのために、俺に出来ることだと思うから。
「………俺も、この身体がラースであったことを忘れるつもりは無いよ。俺の心は水無瀬令人だけど、ラースであったことを無くすことはしない」
結局の所、今までと大きく変わったということはない。
これからも表面上はラースとして生きていくし、ラースとしての贖罪は続けていく。
辛いことも苦しいこともあるけれど、一度決めたことを投げ出すつもりは無い。
それに、大切な存在がちゃんと見ていてくれるなら、そのことについてはもう迷ったりはしない。
やるべきことは変わらない。
けれど、決意はより確たるものになった。
俺は水無瀬令人であり、この世界ではラース・フェルディアとして生きていく。
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