第35話 夏の大三角形
俺は山下に喉を掴まれ、呼吸が出来ない苦しさで手足をバタバタさせてもがいていた。
山下は俺の首根っこを掴んだまま、俺の身体をゆっくりと持ち上げる。俺の足が地面から浮き上がり、全体重が首に集中する。
「ぐぇぇ、やめ・・ろ・・ぐぅぅぇぇぇぇ」
山下がニヤニヤしながら顔を近づけてくる。カッと見開いたヤツの目は今にも顔から落ちそうなほど飛び出しており、黒目と一緒に白目に這っている毛細血管がグリグリ動いていた。
グチュッと言う音と共に俺の首筋の皮膚を突き破って山下の中指と親指が体内に侵入してくる。山下が手に力を込めると残りの指も皮膚を破り、俺の首の肉を引き裂いてゆく。
首の動脈が破れ、俺の血が噴水のように前方へ噴き出して山下の顔を真っ赤に染めた。
なぜか不思議と痛みは無かったが、気道を潰された俺は声を出すことすら出来ず、心臓の脈動に合わせてピューピューと噴き出す血が、鬼のような形相の山下の顔に当たってポタポタと落ちるのを見ているだけだった。
もうやめてくれ!やめてくれ!やめてくれ!頼むからやめてくれ!
ついに山下の指が俺の頸椎の骨に達し、パキッ!と言う音と共に視界が真っ白になった。
「うわあぁぁぁぁぁぁ!」
俺は自分の叫び声で目を覚ました。
ガバッと上体を起こすと全身にびっしょりと汗をかいている。汗で湿ったシャツが身体に張り付き、心臓の動機も早くなっていた。
あの山下の一件以来、こんな夢をしょっちゅう見るようになった。
これがPTSDと言うヤツなのか?
俺はこんな悪夢に一生付き纏われる運命なのか?
あの時、俺は山下を殺す必要があったのか?殺さなくても他に方法があったんじゃないか?あいつはこの異界の地で、誰にも祈って貰うこと無く、苦しみながら死んでいった。
俺が殺したんだ。あいつは死ななくても良かったかもしれないのに、俺が殺したんだ・・・
山下の夢を見た後は、毎回激しい自己嫌悪に苛まれる。
「もう今夜は眠れないな・・・」
俺は汗で濡れたシャツを脱いで新しいシャツに着替えると屋上へ向かった。
悪夢の後はいつも決まって屋上で気分転換する事にしている。部屋の中に居ると息が詰まりそうで、どうしても夢の事を考えてしまうからだ。
暗い階段を昇って屋上のドアを開けると、星空が頭の上いっぱいに広がっていた。夏の夜風が心地良く、少し気分が楽になった。
右端の給水塔の先にある屋上の手すりの所に人影が見える。誰だろう?こんな時間に・・・近づいて行くと、凛子が手すりに頬杖をついてちょっと前のめりになって立っている。
「凛子、こんなトコで何してんの?」
「わっ!飯田っち!びっくりさせないでよ!」
「あーごめんごめん、でも珍しいな、凛子がこんな時間に屋上に居るなんて」
「珍しいって・・・じゃあ飯田っちはいつもこんな時間に屋上へ出てるの?」
「ああ、まあね、眠れない時とか」
「ふーん」
「凛子、どうかしたの?」
「え?別に・・・何でもないけどさ、アタシだって気分転換に屋上へ出る事くらいあるよ。で、飯田っちはなんで?」
「オレ?ああ・・・俺も気分転換かな」
午前2時、電気の無いこの世界は、薄暗い光を放つ力素街灯が道路わきに設置されている。この辺りは田舎なので力素街灯の数も少なく、満天の星空が頭上でキラキラ光っている。
俺はいつものように屋上のコンクリートの床の上に寝転んだ。
「凛子、そんなトコで立ってないでさ、こうして寝転ぶと星が良く見えるよ」
俺が誘うと凛子も俺の横に寝転んだ。
「わぁー!星がいっぱいだ!」
「だろ?ここは奥多摩の田舎だから星がよく見える!」
そういえば美月と初めて話し込んだ時も、こうして寝転がって星を見たんだ。
「ねえ飯田っち、こっちの世界も星とかって同じなのかな?星座とかあるのかな?」
「あー、そうだなぁ、今は8月だから・・・・・えーと、あそこに明るい星が3つあるの見える?天の川を挟んで3つ・・・結ぶと三角形に見えるヤツ、あれが夏の大三角形だな、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガだっけ?」
「あー見える見える!」
「あの天の川を挟んで両側にあるのがアルタイルとベガ。アルタイルってのがひこ星で、ベガがおりひめだな。七夕の」
「へぇー、飯田っちってそんなことも詳しいんだねぇ、こんな事言って女の子口説くんでしょ!」
「はぁ?これくらい誰でも知ってるだろ?小学校の時に習ったじゃん」
「そんな昔の事覚えてないよ、アタシ運動ばっかしてたし」
「ははは、そうか・・・でもさ、七夕の話ってさ、ちょっと可哀そうだと思わないか?だってさ、1年に1回、7月7日にしか会えないんだよ、しかも雨が降ったらまた1年待たなきゃならない、また雨が降ったらまた待って、しかも7月7日ってまだ梅雨じゃん。これってかなり無理ゲーじゃね?」
「うん、・・・でもさ、1年に1回、絶対にチャンスがやって来るんだよ、その年がダメでも次の年にまた絶対にチャンスが来るんでしょ?」
「まぁ、そうだね」
「私達って・・・今度あの空母が動かなかったら、たぶんもう他の手は無いんでしょ? しかも無事にあの空母に入れるかどうかさえ分からないじゃん!電磁波何とかって言う機械が動かなかったら?・・・こっちの方がめっちゃ無理ゲーだよ。考えると不安でツラくてさ・・・」
確かに凛子の言うと通りだ。マスターキーが手に入ったって無事に帰れる確証なんてどこにも無い。
「凛子、俺だってそう思うよ。あの空母に入る事が出来るのか?入ったとして電磁波発生装置は動くのか?動いたとしても、ちゃんと元の世界に帰れるのか・・・きっと皆が疑問に思っていると思うんだ。でもそれを疑ったら、俺達に残された僅かな希望を疑ったら、何を支えにしてこの変ちくりんな世界で生きて行けばいい?だからさ、俺は諦めない。絶対に諦めない。もし空母がダメだったとしても、他の手を考える。無理かもしれないけど、分からんけど、希望を捨てちゃダメなんだ。もしこのまま帰る手段が見つからなくてさ、歳とって爺さんになっちゃってもさ、俺は死ぬ間際まで帰る手段を探してやる!」
「うん・・・そうだね、飯田っちの言う通りだね。私も分かってるんだ、望みは薄いかもしれないけどそれを信じなきゃダメだって。信じてるから飯田っちも美月もあんなにボロボロになっても耐えられたんだよね。でもさ、やっぱり不安なんだなあ・・・私、弱いオンナだからさー、えへへ」
「凛子ってさ、いつも明るく振舞って皆を元気にしてくれるじゃん、あれで俺達がどれだけ救われてるか・・・皆もきっと感謝してると思うんだ。でもさ、ツラい時は無理しないで誰かに頼っていいと思うよ。俺でもいいし、美月でもいいし、田島さんだって川村さんだって。あ、俺はダメか、俺もツラくなって今日ここへ来ちゃったしな、ははは」
「うん・・・飯田っち、アリガトね。ちょっと元気が出てきたかな・・・そうだね、美月とかだったらいいかもね、あの子ってホント不思議な子だよね。普段はちょっと天然入ってポワ~ンとしてるのに、何か起きると突然魔法が掛ったように強くなっちゃうの」
「うん・・・実はあの時、美月が監禁されてた部屋に俺が助けに行った時、ちょっとヤバい事があってね、イイ歳して俺泣いたんだ・・・そりゃもう自分でもビックリするくらい、子供みたいにわんわん泣いた・・・でもその時に美月が俺を膝枕してくれてさ、まるで母親みたいに慰めてくれたんだ。自分は酷い拷問を受けて爪まで剥がされて殺される寸前だったのに。あの時、俺が山下を殺して部屋の中は血の海でさ、普通だったら正気じゃいられないと思う。でも美月は優しかった・・・何て言うんだろ?圧倒的な優しさだった」
「そうかぁ、そんな事があったんだ・・・美月ってそんな酷い拷問されたんだね。あの子聞いても何にも言わないから・・・可哀そうに・・・ツラかっただろうな、私だったら絶対に耐えられないな」
「だよな、俺だって耐えられないと思う・・・」
「で、飯田っちは美月のそんなとこに惚れたんだ!うーん、分かる分かる、私が男だったら間違いなく惚れる!おまけに美月って超かわいいし、おっぱいおっきいし」
「いや、別にそう言うワケじゃないけどさ・・・まぁ、おっぱいはおっきいかもしれんけど・・・」
「やっぱりおっぱい見てたのか!」
「あ。いや、別にそう言うわけじゃ・・・」
「何をいまさら・・・皆気づいてるし!」
「えっ!?おっぱいの事?」
「おっぱいじゃない!アンタはアホか!?そりゃ気づくよ!飯田っちと言い、美月と言い・・・キミらほんとに鈍感だな!」
「美月と一緒にするなよ、俺あんなに天然入ってないぞ!」
「あーーっ、飯田っち、美月のこと天然って言った!」
「凛子だってさっき美月のこと ”天然入ってポワーンとしてる” って言ったじゃんか!」
「言ってない」
「いやいやいや、言ったじゃん!天然入ってポワーンとしてるって、さっき言ったじゃん!」
「言ってない」
「言ったでしょ!何でそんな3歳児みたいなウソつくの!」
「言ってないでしゅ」
「3歳児かよ!」
「このタレ、カニに付けて食べると美味いなあ・・・」
「三杯酢かよ!」
「この蒸した鶏肉がゴマダレとよく合って実に美味い・・・」
「バンバンジーかよ!」
「突っ込んでくれてありがとう」
「どういたしまして」
いつもの凛子が戻ってきたようで、俺はちょっと嬉しくなった。
皆の前で明るく振舞っている裏で、凛子も本当は不安で仕方なかったんだ。
「あのさ、話は変わるけど、凛子って彼氏いるの?もちろん元の世界でだけど」
「な、何をいきなり・・・あ、ひょっとして美月とアタシ、二股掛けようとしてるの?」
「アホか!そんなワケ無いだろ!ただの興味本位」
「なーんだ、つまんないの。うーん、彼氏ねぇ、居たことは居たけど・・・あれは彼氏って言うのかなあ?」
「何で?彼氏は彼氏でしょうが」
「うーん、何と言ったらいいか・・・私ってねダメ男に惹かれちゃうのよ、なぜか今まで付き合ったオトコ、全員ダメ男」
「その彼氏ってさ、どこらへんがダメ男なの?」
「一応会社員だったんだけどさ、バカだから仕事できなくてしょっちゅう転職しててね、失業保険が出るとパチンコ行って1日で全部使っちゃったり、浮気なんて日常茶飯事。私のアパートに転がり込んで来たんだけど、家賃も食費もみんな私持ち。おまけにお小遣いまであげたりして」
「それは彼氏ではなくて”ヒモ”と呼ぶのでは?」
「そうだよね、ヒモだよね。でね、その小遣いで浮気されて頭に来て、着替えとかカバンに入れて部屋を飛び出したらここに転送されちゃった!あはは」
「でもさ、何でそんなダメなヤツに惹かれるの?ダメだと分かったら別れちゃえばいいじゃん」
「そうなんだけどね、これが不思議と別れられないんだなあ・・・ダメな男ってさ、何かこう、本能をくすぐるんだよね、私が助けてやらなきゃ!みたいな。私さ、ダメ男とばっかり付き合ったからさ、初対面で”あ、こいつダメ男だ”って分かるの」
「あのさ、ひょっとして俺と初めて会った時、ダメ男の香りしたでしょ」
「うんうん、した!ちょっとだけど、した!」
「そうだよな・・・俺ってさ、仕事できないダメダメサラリーマンなんだよね、同期は皆出世して役付きになってるのに、俺だけ未だにヒラ。後輩に仕事のミスを指摘される事なんてしょっちゅうでさ、情けないよ」
「やっぱりダメ男だったのね!やっぱりなあ・・・実はね、飯田っちが来た時、私飯田っちのコト”ちょっといいかも”って思ってたんだな、そうか、あれはダメ男臭のせいだったのね!」
「いや、そんなふうに告られても全然嬉しくない・・・」
「でもさ、今の飯田っちはビルからビルへスパイダーマンみたいに飛び移ったり、単身敵地に乗り込んで姫様を救出したり、もはやスーパーヒーローじゃん!全然ダメじゃないじゃん、なんか逆につまんない」
「じゃあさ、もし俺が輸血も整形もしないで前のダメ男のままだったら、凛子俺と付き合う?」
「うーん、そうだなあ・・・私と付き合うにはダメ度が足りないな、うん、全然足りない。だって飯田っちって基本クソ真面目じゃん。もうそれだけで減点だね。私が今まで付き合った男って、もうホントにダメだから、クズofクズだから、私くらいになるとそこら辺に居る ”にわかダメ男” なんかじゃ満足しないからね。私はダメ男と付き合うプロだから。これからは凛子じゃなくて ”坂口プロ” って呼んでください」
「すいません、ちょっと何言ってんのかわかんない」
「私も何言ってんのかよくわかんない」
「そう言えばさ、今日皆で美月の部屋で飲んだじゃん、俺はすごく楽しかったんだ。凛子はどうだった?」
「うんうん、私も楽しかった!あんなに打ち解けて話したのって初めてじゃないかな?特にヨッシーの件!びっくりしたねー!」
「ああ、あの清楚なお姉さまがGLだったとはねぇ。きっと吉野さんに告白して玉砕した男、いっぱい居るんだろうなあ・・・」
「だよね、ヨッシーと言い、美月と言い、美人でいいなぁ・・・ホント、羨ましいよ・・・私なんかただの運動バカだしなぁ・・・」
「そんな事無いよ、凛子だって結構イイ線行ってると思うぞ。背ぇ高いしスタイルだってめちゃめちゃいいじゃん!モデルさんかと思ったぞ!」
「何いきなりおだててるのさ!あはは、アリガト!・・・・・つーかさ、飯田っち、今アタシの胸のトコ、シャツの隙間から見たでしょ!見たでしょ!ぜってー見た!このスケベ!田島二号!」
バレてましたか。
「スンマセン、つい目が行っちゃいました」
「あはは、いいよいいよ、見られるウチが花ってね~。でもさ、私もそろそろイイ歳だしなぁ・・・ねぇ、飯田っちてさ、結婚願望とかあるの?」
「結婚?うーん、まぁイイ人が居ればしたいけどさ、こればっかりはねぇ・・・俺、ダメリーマンだからさ、俺と結婚したら奥さんが可哀そうだよ」
「飯田っち、今のキミはもう昔のキミじゃないんだよ!外見はもちろんだけど、中身だってなかなかイイ男だぞ!自信持ちなさい!」
「そうかなぁ?自分では別に昔と変わってないと思うけどなあ」
「それは本当の自分を知らなかっただけさ!灯台下暗し、ってね」
凛子にそう言われてハッとした。
何をやってもダメダメだった俺が、この世界に来てから何だか分からないうちにゴタゴタに巻き込まれ、気が付いたら顔が変わって身体もスーパーマンみたいになってしまった。でもそのおかげで俺は皆から必要とされている。こんな俺なのに、いい歳して自分のこづかいの管理さえできないダメダメな俺なのに、ほんの少しかもしれないけれど皆の力になっている気がする。
もしかすると俺はこの世界に転送されて来てラッキーだったんじゃないか?
凛子が言うように、本当の自分を知らなかったのは俺自身なんじゃないか?
「おやおや、お二人ともこんなところで何してるんですか?」
いきなり左手の方から人の声。俺と凛子は一瞬ギクッとした。恐る恐る声がした方を見ると院長先生がニコニコしながらこちらに歩いて来る。
「あっ、院長先生!」
「ビックリさせちゃいましたかね?ごめんなさいね」
「いえいえ、でも院長先生こそこんな時間に・・・何かあったんですか?」
「ワタシは毎朝4時起きですからね、今日はたまたま屋上に来てみたんですよ。お二人はなぜここに?」
「自分達もたまたま・・・ちょっと寝付けなくて屋上に来てみたら凛子もたまたま同じように眠れなかったみたいで・・・たまたまこうして話してたんです、ははは、たまたま・・・」
何で言い訳みたいに言ってるんだ、俺。
「あはは、そうなんですね、まぁ最近は色々大変だったみたいですから、眠れないこともあるでしょうね。横に座ってもいいですかね?」
「あ、はい、どうぞどうぞ」
院長先生はニコニコしながら凛子の横に体育座りで腰をおろした。
そう言えば院長先生とちゃんと話した事ってなかったな。俺はいつも疑問に思っている事を聞いてみることにした。
「あの、院長先生、先生はどうして自分達を匿って、衣食住の世話までしてくれて・・・あの・・・何でそこまでしてくれるんですか?」
「ああ、その事ね、まあ確かにちょっと不思議に思うかもしれないですよね、うんうん。一番の理由はね、僕の奥さんが皆さんと同じように他の世界から転送されてきた人間だってことなんですけどね、それ以外にもちょっとね」
院長先生は体育座りからあぐらに態勢を直し、俺と凛子の方に向き直った。
「この世界の事、お二人がどれだけご存じかは知らないので分からない時は言ってくださいね。あのですね、この世界は、この世界の日本はあなた方が居た世界の日本と同じ資本主義国家なんですが、それは建前みたいなもので、実際はソ連の傀儡国家みたいなものなんですよ、この世界では第二次大戦でアメリカが負けて、共産主義が世の中を牛耳っていましてね、共産主義者は口では立派な事ばかり言いますが、実際は酷いモンですよ。この日本だって実権を握っているのは日本軍ですからね、その日本軍はソ連軍の日本駐屯地みたいなもんですから、実際はソ連、いやソ連軍がこの国を動かしているようなもんです。軍も役人たちも汚職だらけで私腹を肥やすのに一生懸命ですよ。私ね、川村さんやウチの奥さんからあなた達の世界の日本の事を聞いて羨ましくて仕方ないですよ」
「いや、私達の世界の日本だって、色々問題ばかりですよ」
「でもですね、この世界のこの国は、見た目は皆穏やかに暮らしてますが、心の中は全然穏やかじゃないですよ。そちらの世界の日本では健康保険ってありますよね?」
「はい、ありますよ。状況によっていろいろですが、普通の会社勤めしてる人だったら、医療費は約3割負担ですね。もちろん毎月のお給料から天引きされてますが」
「こっちではね、医療費全額タダなんですよ」
「えっ!タダなんですか!?全額?」
「はい、タダです。建前上は」
「タテマエ?何でですか?」
「例えば風邪をひいて病院に行きますよね、ウチみたいな一般的な病院の場合だと、診察料と薬代含めて3000円くらいの医療費が掛るんですね、でも国から医療費として支給されるのはわずか300円ほど、残りは患者さんや我々病院側が負担するんですよ。これが風邪だったらまだ良いのですが、骨折でもガンでも一律300円。おかしいでしょ」
「は?だって医療費がタダって事は国が全額負担してくれるんじゃないんですか?」
「いや、本当は国から、全額じゃないですが恐らく9割くらいは出てるはずなんですがね、その大部分は役人がかすめ取っちゃうんですよ、で、その金は半分くらいが役人のフトコロに入って、半分はソ連へ行くらしいです」
「はぁ?そんな体のいいマネロンみたいな・・・国民は黙って見てるんですか?選挙だってあるでしょう?」
「選挙なんてカタチだけですよ、共産主義の傀儡政権ですからね。今の総理大臣なんてもう20年も総理大臣やってますよ!」
「なんか、あの、大変ですね・・・」
「飯田さん、このカード、見たことありますか?」
院長先生はポケットから定期入れのような物を取り出すと、その中に入っている水色のカードを俺達に見せてくれた。
「これね、国民全員が持ってるんですけどね、これ持ってないと病院はもちろん、交通機関も利用できないし商店で物を買う事もできないんですよ。でね、体制に抵抗すると政府にこのカードを取り上げられちゃうの。このカード持ってないと普通の生活が出来なくなっちゃうんですよ、この国では。これ以外にも色々あるんですけどね・・・国は国民をあの手この手で縛り付けてるんですよ、こんなこと、絶対に間違ってますよね?飯田さんもそう思うでしょう?」
「そうですね、酷いですね・・・」
「あなた達が乗って来たあの、何て言うんでしたっけ?大きな船、あれってものすごい兵器なんでしょ?あれがね、この国の政府が使えるようになったら大変な事になりますよ、また大きな戦争が起こって、かならず共産国が勝ちますよ。そしたら僕らの暮らしは絶対に今より酷い事になりますよ。そんな事は絶対にさせちゃあいかんです・・・・・一昨年、前の奥さんとの間に出来た娘に子供が生まれましてね、僕もね、おじいちゃんになっちゃったんですがね、あの子が成長して大人になった時、今より酷いこの国を見せたくないんです。だからあの船を取り戻してください。絶対に軍の手に渡さないでください、もしかしたらこの国の、この世界の未来が変わるかもしれないんです!だからね、だから私に出来る事だったら何でも協力しますよ!」
いつもは優しい笑顔を絶やさない院長先生が、この時は真剣な目つきで俺と凛子を見つめながら語ってくれた。
”この国の未来がかかっている”
そうかもしれない。あの空母はこちらの世界には存在しない技術がてんこ盛りだ。拳銃でさえこちらの銃とは桁違いのパワーがある。もし俺達の兵器が軍の手に渡り、奴らが使えるようになったら、きっとこの世界は赤一色になってしまうだろう。そして一番苦しむのは、何の罪もない普通の人々だ。
「あはは、ごめんなさいね、なんか大げさに語っちゃったね、爺さんの独り言だと思って気にしないでくださいね。私はね、あなた達が好きなんですよ。だたそれだけです。じゃあ、私はいつもの散歩に行きますね、よっこらしょっと・・・」
院長先生はちょっとつらそうに腰を上げると、階段の方へ歩いて行った。
「飯田っち・・・」
「ん?」
「私さぁ、今の院長先生のハナシ聞いて、ちょっと自分が恥ずかしくなっちゃったよ。私達さ、元の世界に帰ろうって皆で頑張ってるじゃん。でもそれって自分が帰りたいから、自分の為にって思ってたんだよね。でもさ、私達のやってる事って、きっとこの国の人達のためでもあるんだよね。決して自分だけの問題じゃなかったんだなって」
そうだな。
もしあの空母が転送されて来なかったら、院長先生が危惧する未来は訪れないはずだ。
自衛隊とアメリカ軍の実験云々はさておき、この責任はあちらの世界から来た俺達全員が背負うべきモノなのかもしれない。
あの空母は俺達の世界のものなのだから。
「凛子・・・俺達って、思ったより重い物を背負っていたんだな」
「うん、そうだね・・・」
頭上では明るく輝く夏の大三角形が俺達を見下ろしていた。
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