第9話 康士郎くんの頬をずっと舐めたくて

 ここでも犬プレイするのかよおおおおおおっ!


 散々人をドキドキさせておいて締めが『お手』とか。

 締めのせいで全部台無しだわ。


 俺は『お手』中の優花の手をどかし、自らの左手を自由にする。

 直後、優花が俺の左腕のあたりを突っついてきた。

 こっちを向けということらしい。


「何だよ……?」

「むーっ……」


 優花は頬をぷくーっと膨らまし、『お手』を中断させられた不満を覗かせる。


 そんな顔してももう『お手』はさせないからな? ちょっと可愛いけど。


 ●●●


「康士郎くん。さっきの映画、楽しめましたか?」

「楽しめたよ。終盤は感動の連続だったし、ヒロインが死ぬシーンはものすごく涙出そうになったよ」


 映画鑑賞後、俺と優花は映画館近くの喫茶店に立ち寄り、パンケーキを食べながら映画の感想を話していた。


「私もヒロインが死ぬシーンは感動しました。お互いに告白して思いを確かめ合う、とても幸せな時間が描かれたあとでしたから」

「だよな。幸せな描写との落差が激しくて、心を揺さぶられたよ」


 クライマックスのシーンを思い返しながら、俺達は感想を述べ合う。


「あの、康士郎くん。さっきの映画のシーンの中で、康士郎くんと再現したいシーンがあるんですが」

「再現したいシーン?」


 反対側の席にいた優花は俺が座る席へと移動し、はじっこに腰掛ける。それからちょっとずつ俺のほうに接近してきた。

 優花が再現したいシーンってなんだろう? 主人公とヒロインのシーンのどこかだとは思うが。


 そういや、ヒロインが死ぬ間際、主人公はヒロインとキスしていたな。

 もしかして、優花が再現したいのってあのキスシーン?

 いやいやいや、そんな都合のいいことが起こるわけないだろ。


「それじゃあ、再現を始めますね。康士郎くんは、その場でじっとしていて下さい」


 ほんのりと頬を赤らめ、優花は緊張した面持ちになる。

 そのまま優花は、俺の顔に口元を近付けてきた。


 なっ、なんか優花の表情がすごくいかにもな感じなんだけど。

 まさか、本当に優花が再現したいのはキスシーン……?

 ままま待って! 優花とキっ、キスできたら嬉しいけど、まだ心の準備が──。


「ぺろっ」

「ひゃあっ! って、あれ……?」


 今のは、キスじゃないな。なんかこう、舌でなめられた感じっていうか?


「優花。今って、どのシーン再現した?」

「ヒロインのお姉さんが、飼い犬のジョンにほっぺたを舐められるシーンです」

「ああ、はいはい。って、どのシーンだよ!」

「覚えてないんですか!? 中盤にあったじゃないですか! あのシーンは私の飼い主なら覚えておくべき超重要なシーンです。それを忘れるなんて、それでも康士郎くんは私の飼い主ですか!?」

「なんで俺が怒られなきゃならないんだ!」


 そもそも、ヒロインのお姉さんが飼い犬に頬を舐められるのが超重要シーンっておかしいだろう。

 俺達が観ていたのは泣ける恋愛映画なんだよ? メインは主人公とヒロインの切ない恋愛模様なんだよ? ヒロインのお姉さんとその飼い犬のシーンなんて本質と全く関係ないだろうが。


 クライマックスのとき寝ていて、重要シーンを観ておらず怒られる。

 これはわかる。

 さして重要じゃないシーンのことを忘れてて怒られる。

 これは意味わからん。


「ジョンがヒロインのお姉さんと戯れるシーンを観て、私思ったんです。なんて美しい光景なんだろうって。映画が終わってから、康士郎くんの頬をずっと舐めたくて。もう、我慢できなくなったんです」

「ふーん、そう……」

「あれ? 何だか機嫌悪くなってません? どうしてですか?」

「どうしてだろうねえ」


 優花の様子を見てキスされると思い込んだ俺にも問題があった。それは認める。

 けど明らかにキスするような雰囲気出しておいて違いましたはないだろう……。

 そりゃテンションも下がるってもんだよ。

 キスされるかもって思っていたときの俺のドキドキを返して欲しい。


「あっ。わかりました。一回しか舐められなくて物足りなかったから、機嫌が悪くなったんですね?」

「違うわ! 俺は優花に舌で舐められることを欲しがってなどいない!」

「心配しなくても大丈夫ですよ。このあともたーっくさん、康士郎くんの頬を舐めてあげますから!」

「おい。なんでまた顔近付けてきてるの? もういいから。一回で十分だから!」


 優花の接近を止めようと俺は必死で声を上げる。

 しかし優花は俺の制止を完全に無視し、再び舌を出して俺の頬を舐め回していく。


「ぺろっ……んっ……ちゅるっ……」

「ひょあっ……! やっ、やめろ……やめろって……!」

「ああ……。康士郎くんのほっぺたを舐めた感触……とても美味しいですう……! んんっ……ちゅぱ……じゅる……」

「だから舐めるのやめろって! さっきから優花の唾液が頬に張り付いて若干気持ち悪いんだよ! あと俺の頬は食い物扱いするな!」

「酷いこと言わないで下さい。私は目一杯愛情表現しながら、康士郎くんに甘えているだけです。犬がご主人様のほっぺたを舐めるのは、立派な愛情表現なんですよ?」

「俺達は人間同士なんだ。犬がするような愛情表現じゃなくて、人間らしい愛情表現をしてくれよ」


 俺の腕に手を回してきてくっついてきたのは、まだよかった。あれなら恋人同士でやることもあると思うし。


 でも映画館での『お手』と今の頬ペロペロはだめだって。奇をてらいすぎだし、優花が犬プレイしたいだけじゃないか。

 普通の愛情表現でいいんだよ、普通の愛情表現で。


「ほっぺたを舐めるのはやめません。だって私は、康士郎くんの犬ですから! 犬が犬らしく飼い主に甘えることのどこに問題があるでしょうか?」

「問題ありだよ。むしろ問題しかないよ」

「細かいことはどうだっていいじゃないですか。それより、もっと康士郎くんのほっぺたの感触を味わわせて下さい! まだまだ物足りません!」

「だからもうペロペロするのはやめろ! こっち来るな!」


 再び舌を出し俺の頬を蹂躙しようとする優花。もはや俺には、優花の舌が獲物を捕食するカメレオンの舌に見える。

 とそのとき、近くを通った女性店員が俺達に対し、気まずそうな表情で言った。


「お客様。他の方々のご迷惑になりますので、お静かにして下さい」

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