後編
十二月中旬。ここ数日大雨が続いていた。
屋根を叩く音が部屋に鳴り響く。
あれから三浦さんから手紙は届いていない。
あの日、冬華はすぐに手紙を書いた。日付と時間、待ち合わせ場所に間違いはなかったか。三浦さんは来ていたのか。興奮していて、筆跡は荒れていたが気にしなかった。
毎朝、ポストの中は確認している。三浦さんの身に何かあったのではないかと心配になり、何通も手紙を送った。事故にあったのかもしれないし、ポストを利用できない都合があるのかもしれない。こちらとは違う世界なのだから、戦争が起きてしまっているなんてことだって考えられる。
三浦冬華は、別世界の自分なのだ。
年が明け、冬が去り、やがて春がきた。
冬華は三年生になった。ポストのチェックはいまだに欠かしていなかった。
しかし、もはや期待はしておらず、惰性で続けているような状態であった。
受験の準備が忙しくなったことで、いつしか手紙も書かなくなっていた。
いつぞやの昼食時に、菜摘にポストのことを話してみたことがあった。
菜摘は「なにそれウケる」とだけ言い、冬華も合わせて「ウケるでしょ」とおどけてみせた。
夏が過ぎ、秋がきて、十二月は記録的な大雪となった。
滅多に降らない地域だったので冬華ははしゃいだ。彼氏も一緒だった。菜摘の紹介で出会った、二つ隣の町に住む同い年の男だ。
野球部の彼氏は、雪玉を見事な投球フォームで遠くまで放った。雪玉は知らない家の窓にあたり、二人で慌てて逃げた。雪に足をとられて大変だった。
受験を控え、お互いにナーバスになっているころ、彼氏と喧嘩別れした。
冬華は菜摘に泣きついた。未練があるわけではないが、結果的に冬華が振られる形となってしまい、それが悔しかったのだ。
大学は同じ市内のところを受験した。菜摘も一緒だった。
冬華はファミリーレストランでバイトをして、職場の先輩にアタックされ付き合ったが、二ヶ月もすると相手の浮気が原因で別れた。
菜摘は文芸サークルに入り、そこでの仲間と過ごす時間が多くなり、冬華とはあまり会わなくなった。
冬華も新しく始めた居酒屋のバイトで知り合った仲間たちと楽しくやっていた。
菜摘とは誕生日にプレゼントを送り合ったり、困った時に助け合ったりと、これまで通り仲は良かった。ただ、お互いに居場所が見つかっただけだった。
その後、冬華はアパレル業界へ就職するが、同性の先輩によるいわゆるイジメにあい、一年で退職した。
転職先のセキュリティ会社では直属の上司からセクハラを受け、ここも直ぐに辞めた。
冬華は地元を離れたくなった。この地は冬華にとってよくないものが渦巻いている。そう考えるようになった。
それから両親の了解を得て、東京で一人暮らしを始めた。郊外なので比較的家賃は安く、コーヒーショップのバイトの給料でなんとか生活出来ていた。
春、冬華は二十六歳になっていた。
六畳一間のアパート。冬華は四回目のスヌーズで目を覚ますと、トイレと洗顔を済まし、白湯で喉を潤す。
テレビを付け、朝のニュースを聞き流しながら、携帯を片手に賞味期限ぎりぎりの菓子パンを齧る。
そして着替えに入る前に、部屋の隅に置かれたアンティークポストを開ける。
中身が何もないことを確認することで、冬華の変わらない一日が始まる。
冬華がポストを開けなかった日は、旅行等の例外を除けば一日たりともなかった。
染み付いたルーティーン。日常となった非日常。
冬華はこの異常からの脱却を望んでいた。
今の暮らしに満足していた。コーヒーショップのバイトにも慣れ、恵まれた仲間に囲まれ、仕事に楽しさを見出している。
しかしどこにいても、何をしていても、冬華の心の奥底に根をはるポストが、 冬華を非日常へと引きずり込む。
自分だけが異常と共にある。分かち合える人は居ない。冬華は孤独を感じていた。
ポストを捨てようと考えたこともあった。
しかしこの異常を知って手放すのは、少々危険に感じてもいた。
もし誰かが、ポストのカラクリに気づいて、自分と同じような体験をしたとしたらどうなるだろうか。
多分、冬華は運が良かった方なのだろう。別世界の自分が常識人でいたのだから。
仮に別世界の自分が、この異常を利用した犯罪を企んでいたら? その結果、 誰かに不幸があったら?
ポストを使った者としての責任がある。
無作為に、これを手放すわけにはいかなかった。
今となっては相談できる相手も居ない。その現実が、冬華を思い悩ませていた。
・
八月。盆に有給を取って冬華は実家に帰省した。
正月にも実家に顔を出していたので、ご無沙汰というわけではなかったのだが、電車の車窓から見える景色を見ていると、ふと涙が出た。
それが何を意味するものなのか、冬華自身にもわからなかった。人気の少ない車内で、向かいのお婆さんが心配そうに見ていた。
冬華は気恥ずかしくなり、隣の車両へ移動すると、涙を悟られないようにドアに向かい合うように立っていた。
やがて駅に着くと、父が車で迎えに来てくれていた。
近づいてくる冬華に、気づかないフリをして待っているのが父らしく、思わず笑みがこぼれた。
「迎え、ありがとね。元気してた? はいコレ」
駅前のコンビニで買ったコーヒーを父に渡す。
「ん。そっちは? 都会は疲れるだろう」
「都内っていっても田舎の方だからね。こことそんなに変わんないよ。でも楽しくやってる」
「そうか。ならよかったよ」
「ってかなにこのノリ。なんかドラマみたい」
一度やってみたかったんだと続ける父の言葉で、車内に花が咲いたようだった。
冬華はサイドミラーに写る自分の顔を見て、なるほどねと微笑んだ。
夕食は、特別豪勢なわけではなく普段通りだった。
母は、いつものご飯の方がいいでしょうと気を利かせたように言っていたが、 面倒臭がりな性格なのでその真意はわからなかった。
家族三人、もちろん話題は冬華の今の生活についてだった。
仕事、人間関係、その他色々なことを聞かれた。元々、逃げるようにして東京へ出たので仕方がなかった。冬華は、心配させないように上手く嘘を交えながら近況を報告した。今の生活は気に入っているが、当然嫌なことだってある。 全て言う必要はないし、さっきの父の様子から、冬華の思っている以上に心配されているみたいだった。
一通りの近況報告を済ませると、母が思い出したように言った。
「そういえば、引越しのときに持っていったポストまだ飾ってるの? 随分気に入ってたわよね」
その言葉は冬華の胸をちくりと刺す。
「うん、正直気に入ってたんだけど、最近部屋狭くなってきて、ちょっと邪魔…かも」
ポストのことを話したところでじゃあ捨てたら? と言われるのがオチだ。無意味
な会話だった。
それなのに冬華は話題に乗った。まるで何かを期待するように。
「もう頂いてから大分経つしなあ。捨ててもいいが…。うん、一応北野さんに断りを入れておくか」
「北野さん?」
聞きなれない名前だった。
「ポストをくれた骨董品屋の主人だよ。仕事の関係で知り合ったんだが、ちょっと気難しい人だからな、捨てるにも一言伝えておかないとどうしてもな。うーん、本当にいらないんだな?」
どういう経緯で知り合ったのかは話さなかったが、あまり深い関係ではないようだった。
だからこそ、ポストの処分に困っていたのだろうが。
しかしポストを捨てるのはマズイ。
「私は、もう必要ないから。でも、捨てるんじゃなくて引き取ってもらうように頼んで欲しいな」
――必要ないから。自分で口に出すと、何だか三浦さんを見捨てたような気がして罪悪感を覚えた。それでも、先に見捨てたのは三浦さんの方だ。冬華は自分に言い聞かせた。
「わかった。今日は遅いから明日連絡してみるよ」
北野さんとやらはよっぽど癖のある相手なのか、父の気は重そうであった。
その後は母とテレビを見ながらダラダラ過ごした。
父は会社から持ち帰った仕事があるらしく自室に戻って行った。
ソファーに寝そべり、携帯を弄っていると実家に帰ってきたという実感が沸いた。
日付けが変わる頃に、冬華も自室に戻った。
部屋の中央に布団が敷いてあった。母が事前に用意してくれたものだ。実家に帰るといつもこうしてくれていた。
他には何もなかった。東京へ引っ越すとき家具は処分していた。もちろん三浦さんの手紙は持ち出してあった。
この部屋に一人でいるとどうしてもポストのあった場所へと視線が流れてしまう。
九年前、初めてポストを部屋に運んだときのことを思い出す。
「三浦さん…。どうしてるのかな」
ついに明日にはポストの処分が決まるのかと思うと、これまで考えないようにしてきたことが湯水の如く溢れ出てきた。
最後に手紙を送ったのは受験前だった。最後に書いた内容は覚えている。
"もう一度、三浦さんと繋がりたい。会ってみたいです。いつまでも待っています"
筆跡は震えていた。不安だった。よく覚えている。
布団を被り、目を瞑ると、先程の夕食の会話を思い出していた。
――北野さんか。骨董品屋さん。ポストの持ち主。他にも不思議な力をもつモノが売ってたりするのかな。超常現象。異常。非日常。
途端に冬華は飛び起きた。
そうだ、なぜ気が付かなかったのだろう。北野さんはあのポストの持ち主だ。 確証はないが、あの現象について知っているかもしれないじゃないか。
九年。九年も何をしていたのだ私は。
もしかしたら北野さんに問えば、三浦さん――別世界の私のこともわかるかもしれないじゃないか。
気が付けば冬華は部屋を飛び出していた。両親の寝室へ行き、イビキをかく父を揺すり起こした。
「お父さん、お父さん、起きて」
「…お、冬華? なんだよ、慌てて」
「明日、北野さんには私が電話で話す。絶対だよ、勝手に電話しないで」
「急に。なんだ。別に構わないけど…」
どうして? と聞き返される前に「約束ね、おやすみ!」と一方的に会話を終わらせて部屋を出た。
父も遅くまで仕事をしていて疲れていたのだろう、扉越しに「おやすみ~」と間延びした声が聞こえた。
・
翌日、冬華は父が起きてくるのを居間で待っていた。
昨晩は北野さんにどう切り出そうか考えていて、ろくに眠れなかった。
まぶたが重く、気を抜くと眠ってしまいそうであったが父が起きてくるのを気配で察すると眠気は吹き飛んだ。
「おはよう冬華。もう起きてたのか」
父は大きくあくびをする。昨日の約束を覚えていないみたいだ。
「お父さん、北野さんの番号教えて。自分の携帯からかけるから」
冬華がそう言うと、父は「ああ」と思い出したように返事をした。
携帯を出すと、冬華に渡した。
「自分の携帯でかけるから。番号だけもらうね」
「…そういえば何で冬華がかけるんだ? 知らないだろうから言っておくが、変な人だぞ」
願ったり叶ったりだ。あんなもの扱っているのだから変に決まっている。
「気に入ってたからね。あのポスト。愛着あるんだよ」
「そうか。まあ助かるけどな。父さんあの人苦手でなあ。なんにせよ、対応を間違えるなよ」
冬華は父が会社に行くのを見届けると、すぐに部屋に戻った。
携帯を開き、発信ボタンを押そうとするが、手が震えてなかなか押せなかった。
一言。一言伝えればわかるはず。
意を決して、電話をかける。
コール音が続く。二回、三回、北野さんは出ない。
四回、五回、留守電にも繋がらない。
忙しいのかも、と一旦通話を終了しようとしたそのとき、コール音が途絶えた。
「北野です」
しゃがれた、低い男性の声が電話越しに聞こえる。
随分と高齢な印象を受けた。
「あ、もしもし、島村と言います。えっと、島村晴彦の娘です」
不意打ちをくらい、声が上擦ってしまう。
北野はあ~とか、う~んとか唸るような声を上げている。心当たりを探しているのだろう。
「あの、もう何年も前になるんですけど、以前父がそちらで英国製のアンティークポストを譲っていただいたのですが、覚えていらっしゃいますか?」
待っていても思い出しそうになかったので冬華から切り出した。
浅い関係であるのなら、北野の年齢を考えると覚えていなくてもおかしくはない。
ひょっとしたらポストのことも忘れているのではないだろうか、そう冬華が考えていると北野は言った。
「ポスト。ああ、あれか。思い出した。随分前にあげたなあ。晴彦、ああ、あいつか」
ボソボソと呟く声がどうにも不気味であったが、思い出してくれたみたいだ。
「そのポスト、今は娘の私が譲り受けていて、その、出来たらお返ししたいなと思って連絡しました」
「んん。そうか。構わんよ。お嬢ちゃん、名前は?」
「冬華です。ありがとうございます。それで、えっと」
――あのポスト、使いました。冬華はそう続けようとした。
しかし先に切り出したのは北野だった。
「冬華ちゃん、あれを使ったのか?」
ドクン。
心臓が大きく脈を打った。
またもや不意打ちであった。
使ったのか? それはあの現象を体験したのか? と言っているのだ。
北野は間違いなくポストのことを知っている。
それがわかると、冬華の緊張は解けていた。
「はい。使いました。それで、いくつか聞きたいことがあるんです。よければ実際お会いして」
「そうか、だろうな。構わんよ。いつでも来なさい」
北野の声のトーンは常に一定だった。まるで冬華がこうして連絡をしてくるのを事前に知っていたかのように落ち着き払っていた。
「ご迷惑でなければ、すぐにでも」
「うむ、くるといい」
「では、後ほどお伺いします」
冬華は電話を切ると、放心していた。
自分と、三浦さん以外にポストを知る者が存在する。
もしかすると、また三浦さんと繋がれるかも知れない。もう一人の自分と。
――別世界の島村冬華と。
冬華は心の奥底にかかっていたモヤが晴れていくのを感じた。闇の中に根付いたポストに、一筋の光が差し込んだ。
だが全てを照らすには至らない。
そう、これから北野に会い話を聞くまでは。
そうだ、ほうけている場合ではない。早く、会いに行かねば。早く、確かめなければ。
はやる気持ちを抑えられない。冬華はすぐに外出の準備をする。
母に出かける旨を伝え、車の鍵を借りると外へ飛び出した。
母用の軽自動車に乗り込みエンジンをかけたところで冬華はピタリと停止する。
「わたし、北野さんのお店の場所知らないじゃん…」
・
父に連絡して教えてもらった北野の店は、同じ市内にあった。
昔、よく母に連れていってもらった馴染みのある商店街の、小さな婦人服店の横の路地を入った先にある雑居ビルの一階がそうだった。
店の前にはツボや、ストーブのようなものや、動物の置物などが雑多に置かれていた。陳列しているというより、店内から溢れ出ているといった印象だった。
扉の横の立て看板には"風来堂"と書いてある。父に聞いていた店名だ。
立て付けの悪い引き戸を開けると、そこでは和洋中様々な骨董品が十坪ほどの空間を埋めつくしていた。
これには冬華も目を奪われた。整頓されているようには見えないが、これだけのアンティークが敷き詰められているのは圧巻であった。
冬華が感嘆の息を漏らしていると、奥から特徴的なしゃがれた声が聞こえた
「お嬢ちゃんか?」
「あ、はい。お邪魔します」
「声が大きい。うるさいのは嫌いなんだ」
「す、すみません」
北野の姿が見えないのと、高齢であるということを考えた上でのことだったが、どうやら不快にさせてしまったようだ。
北野の怒気を含んだ声に冬華は思わず萎縮する。
気の小さい父が苦手意識をもつのも納得だった。
「こっちだ。奥までおいで」
「お、お邪魔します」
今度は小声で対応する。
「聞こえたか? こっちだ。お嬢ちゃん」
北野の声に凄みが増していた。なんなのだ。
「は、はい、今行きます」
冬華は絶妙な大きさで返事をすると、商品にぶつからないよう、慎重に店内を進んだ。
昔に流行った、触れたら電気の走るアトラクションみたいだなと、冬華は思った。
もっとも、こちらのペナルティはその非では無い。万が一にも商品を壊そうものならあの男のことだ、出刃包丁を片手に鬼の形相で追いかけまわしてくるに違いない。命の保証はなかった。
店内を抜けると、腰の曲がった小さな老人が居た。北野だ。
ニットベストを着て、ハンチング帽を目深に被っている。
穏やかそうに思える格好とは裏腹に、その鋭い眼光は、まるで帽子のツバで照準を定めているように見えた。
その迫力に冬華がたじろいでいると、北野は近くのロッキングチェアに腰を下ろした。
値札が貼られていないので商品ではないのだろう。というよりここまでで値札を見た記憶がない。この手の店は初めてなのだがこういうものなのだろうか。そもそもレジも見当たらない。奇妙な店だと冬華は思った。
「悪いな、どうにも腰が悪いもんでな。このまま失礼するよ」
キィキィと椅子に揺られる北野は、なんというか恐ろしく似合っていた。
「いいえ。それで、早速なんですが頂いたポストについてお聞きしても?」
「ああ。いいよ。あれはな、同じ型のポスト同士で…」
「あ、いえ、ポストの仕様は理解しています。送られる時間や、届く時間のことも」
「ふむ…。では何を知りたいと?」
北野の視線が冬華へと向けられる。品定めされているようで落ち着かない。
「…九年も前のことです、あのポストを使って別世界の自分と文通をしていたのですが、急に返事が途絶えてしまって。 相手が自分だとはいえ、何かあったのかと心配になりまして。それで北野さんなら送り先の世界のこともわかるのではないかと」
冬華がそこまで言うと北野は怪訝な表情を見せた。
「別世界? 自分? お嬢ちゃん、何を言っているんだ?」
思いがけない反応であった。てっきり、北野はポストのことを知っていると思っていた。
知っていなければ使ったのか? などという聞き方はしないだろう。
「北野さん、ご存知なのでは? あのポストに手紙を投函すると、別世界の自分に届くという…」
北野の顔のしわが眉間に集中する。解せないといった表情だ。
「あ、あの、私何かおかしなこと言ってますか? いや、おかしなこと言ってるんですけど、そうじゃなくて、あの」
「お嬢ちゃん、いいか。あのポストが持つ力というのはな、もう一つの同じ型番を持つポストへ送られるといったものだ」
だから、それは理解している。同じポスト間を移動する。この世界と、もう一人の私がいる世界を繋ぐ。それがポストの力だ。
「ですから、もう一つのポストは、別の世界に」
「別世界なんてものはない」
北野がぴしゃりと言った。
「いや、言い方が悪いな。別世界の可能性を否定しているわけじゃないが、あのポストは違う。あれはこの世界の中で繋がっている。お嬢ちゃん、何故そのような考えに
至った?」
冬華は返す言葉が見つからなかった。思いがけない返答に思考が追いついていないのだ。
――なぜ? なぜってそれは、三浦さんが、自分と同じ、だって。
固まる冬華に、北野はやさしく言った。
「悪かった。大丈夫だ。落ち着いて、それからゆっくり話せばいい。茶でも飲むか?」
「い、いえ…結構です。すみません」
そのしゃがれた声は、冬華に落ち着きを取り戻させた。
深く息を吸い込み、脳に酸素を送る。大丈夫だ。
「私が文通していた相手は、名前も、両親も、住所も、全部が同じだったんです。最初は未来の自分なのかと思っていましたが、お互いに生きている時間まで同じだったのでこことは違う、似た世界に通じているのだと考えました。それに…」
あの日、約束していたのに会うことが出来なかった。そう続けようとしたが、それこそなんの証拠にもならないことだと気付き、口を閉じた。
「それに?」
北野が聞き返す。
「すみません。なんでもありません。以上のことから、別の世界が存在するのかと…」
「…ふむ」
北野は冬華から視線を外すと椅子を揺らした。何か考えているようだった。
「お嬢ちゃんは、どうやって自分と相手の境遇が同じだとわかった?」
「手紙で、お互いの情報を交換して…」
「どちらから名乗った?」
「私からです」
「両親のことは?」
「私からです」
北野の視線が再び冬華に向けられる。お互いの間に一瞬の沈黙が訪れる。
「…住所はどうだ?」
「私から…です」
冬華は背中に冷たいものが走るのを感じた。
「よく思い出しなさい。これまでのやりとりで相手から得た情報とはなんだ? それ
は自分と重なるものであったか?」
「え、えっと…」
目眩がした。
冬華は三浦さんからの手紙の内容を必死に思い出す。
初めて同じだ、と感じたのは三浦さんも昔に詩を書いたことがあるということだ。しかしそれくらい年頃の女性なら経験していても何の不思議もない。
その次に共通していたのはポストを所有しているという点。他には――。
他には、なんだ?
「…ない、です」
ない。三浦さんからの情報が何もない。
唯一わかっていることは、夫婦でお店をやっているということ。それ以外には、何も聞かされていない。三浦さんのことを知っているようで、何も知らない。
「なるほどな。つまり、相手さんはお嬢ちゃんの話に合わせてたってことになるな。理由はわからんが、まあイタズラだろう」
イタズラ? イタズラだって?根拠はないがとてもそうのようには思えなかった。大体そんなことをして何のメリットがあるというのだ? イタズラにしては手が込みすぎているしその割にカタルシスが薄い。そんな意味のないことを三浦さんがやるとは到底思えない。
「イタズラ…ではないとしたら、北野さんなら他にどう考えますか?」
「聞いた限りじゃ見当もつかないな。だが今は連絡がつかないのだろう? お嬢ちゃんに実害がないのなら放っておけばいい。実際、何年もそうしてきたのだろう」
「それは…今まで手がかりも手段もなにも無かったからです」
「とにかくこれ以上つついた所で何も出てこんよ。諦めて帰りな。ポストは後日引取りに行くよ」
「そう、ですね」
諦めろ。北野の言葉に冬華は落胆する。
期待していただけにそのショックは大きかった。光が差し込んだはずの心が、再び闇に深く沈んでゆく。
やっとここまできたというのに。三浦さんとまた繋がれると思っていたのに。 それなのにわかったことは、自分がポストの力を勘違いしていたということだけ。三浦さんが自分とは関係ない人だということだけ。
――そうだ、三浦さんは自分とは関係がない。赤の他人で、この世界に存在している。
じゃあ三浦さんはどこでポストを手に入れた? 北野さんはポストが二つあることを知っている。ポストの力を知っている。であるならば。
「もう一つのポストの出処を教えてください。北野さんが売ったのではないですか? 北野さんは知っているんじゃないですか?」
冬華の問いに北野は首を横に振る。
「確かにあの二つのポストはウチの商品だったよ。だがもう遥か昔の話だ。…誰に売
ったかなんて覚えちゃいないさ。悪いがな」
北野の言うことはもっともだ。だが冬華は納得がいかなかった。
「父のことは覚えているのに?」
「そりゃあ晴彦とは知らない仲じゃないからな。あいつは昔ここで働いていたことが
あったんだ。お嬢ちゃん聞いていなかったのか」
「いえ、初耳です…」
父とは浅い関係だと思っていたが全くの逆だとは驚いた。確か仕事で知り合ったと
言っていたがあれは嘘だったのか。確かに変わった店だが、隠すほどのことだろう
か。
「それで? 諦めはついたか? なぜそんなに固執するんだ。手紙の相手が赤の他人と
わかったんだ。もう十分だろう」
それは冬華にもわからなかった。
よく知りもしない他人になぜ拘る? 好奇心?
そうじゃない、多分、もっと単純なことだ。
「会ってみたいんです。彼女、いい人だったから」
そう、ただ会ってみたい。この出会いは偶然なんかじゃなくて、なにか別の意味が
あるものだと信じていたかった。今だからこそそう思えた。
「そうか。わかった。もしなにか思い出したりしたら連絡するよ。今日はもう帰んな」
これ以上は何も得られない。
冬華は肩を落とし、「お邪魔しました」と頭を下げ店内を出た。
店の裏のコインパーキングで精算をしていると、北野がお見送りにきてくれた。
「お嬢ちゃん待ってくれ。これを持っていきない」
北野が差し出す手にはペンダントが握られていた。
シルバーの、スズランが彫られたコインがチラリと反射する。
「え、そんな、高そうなのに。いいんですか…?」
「手ぶらで帰すのも気が引けてな。気にしないで貰ってくれ」
冬華はペンダントを受け取る。羽のように軽い、風で飛んでしまいそうなほどだ。しかし、不思議な重さを感じられた。
「ありがとうございます。大事にします」
車に乗り込むと、バックミラーに映る北野は微笑んでいた。彼の気遣いが冬華には辛かった。
哀れみを含む彼の笑顔が、もう二度と、彼女には会えないと言われているように感じた。
・
家に帰ると、母と父が居間でくつろいでいた。
テーブルには何本か開けたビール缶とスーパーで買った弁当やお菓子が並んでいた。
「お~う冬華、おかえり。どうだった?」
へべれけに酔った父が言った。
「後日引き取ってもらうことになったよ。北野さん、いい人だった」
父が過去に北野の元で働いていたことを問おうとしたが、母がいる前では聞けなか
った。知らないのは冬華だけなのかもしれないが、もしもの為の配慮だった。
「そうか。北野さんまだ元気なんだな、良かった良かった。冬華も呑むか? 母さ
ん、冬華にも酒やってくれ」
「冬華はお酒呑まないでしょ。ごめんね冬華、せっかく冬華が帰ってきたのにのにお
父さん昼間からこんな調子で」
母が言った。
「いいよ別に。いつも大変そうだし。私部屋行ってるね」
「お父さんは冬華と酒を呑むのが夢だったんだぞ~。付き合えよ~」
「はいはい。また今度ね」
居間にいると酒気にあてられそうだったので早々に避難する。
部屋に戻ると、冬華は北野からもらったペンダントを身につけてみた。
普段つけているものに比べると少し派手にみえたが、気に入った。
夕食時、父が冬華の付けているペンダントを見ると言った。
「冬華、それ。北野さんからもらったのか?」
箸で冬華のペンダントを指す。
「うん。せっかくだからって。別れ際に」
「そうか。良かったな」
「うん」
その後も父はそうかそうかと頷いていた。
母は、何か土産をもってお礼にいかないとねと言い、父がいや大丈夫だろうと制した。
冬華はますます父と北野の関係が気になった。
夕食を終えると、冬華は父の書斎に行った。
部屋に入るとキーボードの打鍵音がこだましていた。
「何か用か?」
背中越しに父が言う。
「あのさ、北野さんから聞いたんだけど」
冬華がそこまで言うと父は椅子をゆっくり回転させてこちらを向く。
「ああ、父さんが昔あそこで働いてたって?」
「えっと、そう。内緒だったの?」
「内緒ってほどではないが、あんまりいい関係とは言えなかったからな」
北野は父を貶すようなことは言っていなかったが、父の様子からだと何かあったよ
うに思えた。
「喧嘩したとか?」
父はいや、とかううむ、とか唸っていた。
話すべきかどうかを悩んでいるというより、言葉を選んでいるように見えた。
「冬華。北野さんの店をどう思う? あの骨董品を見て何を感じた?」
唐突な質問であった。冬華はなんとなく意図が見えていた。
「値札が無かった。レジも。まるでコレクションしてるみたいだった」
冬華は思ったままを答えた。
「そう。売る気がない。売らないんだよ。なぜだか分かるか?」
冬華は確信した。父は聞きたいのは――。
「骨董品になにか特別な力があるから」
冬華が言うと父は頷いた。
「この話は少し長くなるんだが、父さんがあそこで働いていたのは母さんと出会う前、大学生だった頃だ。父さんは登山サークルで仲間と長野の八ヶ岳に登ってたんだ。キツイ山だよ。父さんはサークル内では体力の無い方だったから、仲間に先に行ってもらって休憩してたんだ。丁度いい岩に腰を下ろしていると目の前に小柄な初老の男が通ってな。それが北野さんだったんだが、トレッキングポールを落として、拾おうとするとふらついて転んだんだよ。すぐに駆け寄って助け起こしたんだが、北野さんハンガーノックだったんだ。わかるか? 低血糖症だ。父さんはザックから補給食を出して北野さんにやったんだ。無事に回復すると北野さんが、お礼がしたいから是非来てくれと住所を書いた紙をくれたんだ。父さんは行くつもりは無かったんだが、同じ地元の商店街だったもんだから、大学の帰りに寄ってみたんだ。そしたらあの店があった。北野さんからあの時のお礼にと高級な茶菓子を頂いてな。それから色々話をした。北野さんは奥さんに先立たれて一人で店を切り盛りしていると言っていた。海外に住んでいる息子さんがたまに手伝いに来ていたみたいだがな。配達や、買い付けに行くのが年齢的にキツくなってきたってボヤいていたから父さんが、手伝わせてくれって頼んだんだよ。ちょうどバイトを探していたからな。それからあの店で働くことになった。特殊な店でな、たまに電話がきて、北野さんが色々話して配達に行く。父さんは基本店番を任されていた。たまに客がきて、気に入った商品を見つけると、また電話するって言って帰るんだ。不思議だったさ。ある時、あまりにも暇を持て余していて、商品をだらだら見ていると、一本のペンに目が止まったんだ。銀のペンで、象嵌っていうんだが、派手な装飾が施されていてな。父さん、何の気なしにそのペンを使って、当時同じ大学に居た意中の女性に手紙を書いたんだ。デートの誘いさ。するとオーケーの返事がきて、親しくなった。それが母さんだ。父さん浮かれてて、そのことをつい北野さんに話したんだ。そうするともう大目玉さ」
「まって、それってペンに特別な力があったってこと? じゃあ母さんは」
「安心してくれ。そのペンは、文字に強い意思を込めることが出来るといったもので、あくまでキッカケを作っただけに過ぎない。母さんにその気がなかったら効果がないんだ。それでもペンの力を借りたことは事実だから、母さんにはこのことを話していないんだ。仕事も当然クビになった。力のこともその時教えてもらった。事前に伝えなかった自分にも非があるからその詫びにってさ。とにかく、力の宿る道具を他人に渡す際は、北野さんが直々に見定めるんだ。その人が危険な使い方をしないかって。もちろん、見定めるのに使うのも同じ力をもつ道具さ。それがなんなのかは教えて貰えなかったけどな。あのポストも、何か力があるものだと知っていた。北野さんはポストをくれたわけではなかったんだ。ポストが選んだんだと。ポストをどうするかはお前が決めてくれって。なんの事か分からなかったさ。北野さんは、思うようにしたらいい、それがポストをあるべき所へ導いてくれる。心に従えってさ。父さんは結局、ポストを放っておくことしか出来なかった。それが、冬華の手に渡った。きっと意味があることなんだろう。父さんはそのことに干渉しない。母さんの一件以降、不思議アイテムには関わらないって決めてたからな」
父が話し終えると、冬華は呆然としていた。
自分の知らない部分が多すぎて、父が別人のように見えた。
冬華は理解の追いつかないまま部屋に戻り、布団に体を放った。
つまり、父はポストの力のことを(どういう力かは知らないと言っていたが)知っていて、母への罪の意識から使わずに倉庫へしまった。
それが北野さんがいうところの"導き"に従って冬華の元へたどり着いた。
そうなることが運命だったとでもいうように。とすれば三浦さんとの出会いもやはり必然的なものであったのだ。だが何の為に? ろくに相手を知らぬまま連絡が途絶えて、九年が過ぎ、今となっては手がかりも無くなった。
"導き"とはなんなのか。北野さんはそんなこと話さなかった。話す必要がない、いや、話してはならなかったのかもしれない。それは"導き"に反する行為となるから。
だとしたら今夜父に話を聞いたのはまずかったのか? それとも、父に話を聞くことさえも"導き"なのか。
北野さんに聞いてみようととは思わなかった。恐らくは答えてくれないだろう。どのみち、三浦さんにはたどり着けないのだから。
ふと携帯が鳴った。ディスプレイを見ると菜摘からだった。
「もしも~し。冬華? こっち帰ってきてるんだよね? 明日空いてたらお茶しない?」
「もちろん! 久しぶりだね菜摘、元気してた?」
「うん、元気元気! 積もる話は明日しよう? せっかく久々なのに勿体ないじゃん」
菜摘から場所と時間を聞いて、通話は終了した。
菜摘と会うのは二年前、菜摘に子供が産まれた時以来だった。当時は地元に居たが、今は二つ隣の町で専業主婦をしている。旦那は大学で出会った男だ。 一度会ったことがあるが気立てのいい人だった。わがままな菜摘を安心して任せられる。冬華は、親友との再開の約束に胸が踊った。
・
待ち合わせの場所は菜摘の地元にある小さな喫茶店だった。
カウンター席に、テーブル席が四つ。天井にはシーリングファンが回っており、複数のペンダントライトの暖色の明かりが店内をやさしく照らしている。 中年の男性マスターにテーブル席を案内されると冬華は思わず感嘆の息を漏らした。
「すっごいお洒落。菜摘いい店知ってんじゃん」
「でしょ? 外観が少し地味目だから意外と知らない人多いんだよ」
菜摘がマスターに聞こえないように小声で言う。冬華がちらりと視線を向けるとマスターは笑顔で会釈した。確かに冬華たち以外に客の姿は見えなかった。
「貸し切りしてるみたいで気分いいね」
冬華が言うと菜摘も頷いて同意した。
昼は済ませてきていたので冬華はカフェマキアート、菜摘はアメリカンコーヒーとアフォガートを頼んだ。
「それで、最近はどうなのよハイカラさん」
菜摘がからかうように言った。
「別に変わらないよ。仕事も慣れてきたし。そういえば前にお店に雑誌の取材が来て私が受け答えしたんだけど、なんか評判よかったみたいでさ、店長にお店のブログの執筆を頼まれてるんだよね。週に一回お店の紹介とか、近況とか書くんだけどこれが結構楽しかったりするんだ」
「凄いじゃん。才能あるんだよきっと。いっそ記者とかやってみたら? ライターっていうんだっけ?」
「いやいや、そんなの、慣れっこないよ。…まあ、興味あるけど」
冬華は照れ隠しに頼んだカフェマキアートを飲む。
「やってみたらいいじゃん。私なんて子供と旦那の世話に追われて自分の好きなことなんて何も出来ないんだから」
愚痴を言っているようで、その表情は幸せに満ちあふれていた。
「うまくいってそうでなによりだよ」
「まあね」
その後も他愛のない話で菜摘とひとしきり盛り上がった。
喫茶店を後にしてからは菜摘の住む町を案内してもらい、有意義な一日を過ごした。菜摘との時間は、冬華の沈んだ心を十分に癒やしてくれた。
その晩、家族で夕食を囲んだ後、冬華は東京の家へ帰宅した。
・
令和四年。
島村冬華は三十六歳になっていた。
友人の菜摘の言葉がきっかけでコーヒーショップの店長の斡旋で出版社へ転職、その後七年の経験を経てフリーへ転向。ライターとして独立してから三年が経った。
出版業界へ就職してから何度か男と交際したが、どれもうまくいかず、そのうち冬華は独身の人生でもいいと悟るようになった。
かつて働いていたコーヒーショップとは今でも縁があり、ライターの仕事も基本はそこからクライアントを紹介してもうことが多い。自身のブログも持っており、カフェ巡りの記事を書いて広告収入(微々たるものだが)を得ている。 他に風来堂の店を手伝うこともあった。父とは違い、商品の買い付けを任されることも多い。店主の北野は四年前に亡くなり、息子の北野幸太が後を継いだ。
冬華が店を手伝うようになったのはフリーに転向してからで、北野幸太が店を継いだ一年後のこととなる。
北野幸太は父の仕事を理解しており、骨董品の知識(例の力を含め)も豊富であった。北野幸太と冬華はこれまでに骨董品を巡る様々な体験をしてきたが、それはまた別の話である。
・
十一月のある日、冬華は地元に帰ってきていた。風来堂の仕事を終えた後に、冬華の評判を噂で聞いた喫茶店のオーナーが是非記事にしてほしいとのことだった。
依頼主の店は冬華の地元から二つ隣の町、昔、菜摘と訪れたことのある喫茶店だった。
車を走らせること数十分、目的の喫茶店に着いた。外観は変わっておらず、相変わらず地味であったが、看板が外されていた。近いうちにリニューアルされるのかも知れない。
店内を入るとマスターが笑顔で迎えてくれた。それを受け、冬華は十年前の印象を思い出した。
「本日はどうもよろしくお願いします。何かお飲みになられますか?」
「ありがとうございます。ではエスプレッソを」
「かしこまりました。ご用意致します」
マスターが準備している間に冬華は鞄から一眼レフカメラを取り出し店内を撮影した。清掃の行き届いたお洒落な店内は、ファインダーを覗くだけでわくわくさせてくれる。
ファインダーの端に、ある写真を捉えた。若い頃のマスターだ。隣には、綺麗な女性が並んでいる。奥さんだろうか。
「お待たせしました」
マスターの声が後ろから聞こえた。
「あ、すみません。素敵な店内なものでつい夢中に」
「それはそれは。…その写真は昔家内と新婚旅行の時に撮ったものです」
冬華が写真を気にしていたことをマスターは察していた。
「じろじろ見ちゃってすみません」
奥さんはどうしていますか? と続けようとしたが冬華は口をつぐんだ。
「家内は病気がちでして、そろそろ店に顔を出すとは思うんですけどね」
「ぜひお会いしてみたいですね」
冬華が言うと、マスターは困ったように微笑んだ。
「この店、表を見て気がつかれたかと思いますが看板を変えようと思ってましてね」
マスターが話し始めたので冬華はすっとボイスレコーダーとメモを取り出した。だ
がそれを見たマスターは小さく首を振った。オフレコで、ということなのだろう。
「取材の前に、島村さんにお話ししたいことがございまして、看板を変えることに繋がる話なんですが、よろしいですか?」
この日控えている仕事もないので冬華はもちろんですと頷いた。
「ありがとうございます。家内の病気のことです。私たちが結婚して五年ほど経ったころでした。お恥ずかしい話ですが、私たちの夫婦仲は良好とは言えず、いえ、正直に言って最悪でした。全ては私の酒癖の悪さが原因です。私は何か気に入らないことがあると家内に当たっていました。暴力を振るうこともありました。そんな日々が続き、あるとき、私は家内が隠れて何かをしていることに気付き、問い詰めました。結局のところ何をしていたのかは分からずじまいなのですが、家内が二日ほど家を出て行ったのです。私はきっと浮気相手の家にでも転がり込んでいるのだろうと予想しました。そして二日後、家内が帰ってきたのですが様子がおかしいのです。何か、自分を見失っているような、記憶が曖昧で、意味のない言葉をぶつぶつとつぶやいてました。私は家内を病院に連れて行くことを迷いました。もし自分の行いが原因だとしたら、と恐れたのです。実に弱く、醜い男です。しかし、家内がおかしくなっていくのが耐えられなく、二週間後に病院へ連れて行きました。家内は統合失調症でした。原因はわかりません。家を出たときに何かあったのか、それとも私が…」
マスターの目尻から涙がこぼれる。声は震えていた。胸ポケットからハンカチを取り出し涙を拭うと、続けた。
「失礼。…それから私は自身の愚かさを呪い、断酒して家内に寄り添うことを決意しました。症状は抗精神病薬である程度抑えることが出来ましたが、幻覚症状、妄想などは頻繁に起こりました。そしてちょうど今頃の季節に、再び家内が家を飛び出したのです。私は後を追いました。しかし連れ戻そうとはしませんでした。私は家内の行く先に、もしかしたらこの病気の原因となった手がかりがあるのではと考えたのです。家内に気付かれないように後を追い、たどり着いたのは何でもない公園でした。家内は薄着でただ立ち尽くしていて、私は居ても経ってもいられなくなり連れ帰りました。ところがその日を境に、家内の調子が良くなっていったのです。あの日の記憶を家内は失っています。あの公園で何があったのかはわかりません。きっと神様に出会えたのでしょう。…長くなって申し訳ございません。看板を変えるのは、家内が客前に出られるようになったからです。もう一度、家内と二人で店を続けるために」
マスターが話し終えると、冬華の頬に涙がつたっていた。マスターも唇を震わせている。両者の間に、しばしの沈黙が訪れた。
「…ごめんなさい。それで、新しい看板につける名前は決まっているのですか?」
冬華は袖で涙を拭い言った。マスターがテーブル上のボイスレコーダーに視線を向け、頷く。冬華はスイッチを入れた。
「新しい店の名前は決まってます。それは――」
マスターが言いかけたところで、店の奥から人の気配がした。
写真の女性だった。冬華と目が合うと、そっと微笑んだ。マスター同様に気品のある人だった。
マスターが手招きすると、女性が恐縮そうにこちらへやってきた。
「妻の志希です」
「島村冬華です。…はじめまして」
「素敵なペンダントをされてますね」
「いえ、いやあの。はい、ありがとうございます。あ、すみません…ごめんなさい…」
気が付けば、冬華の胸元に大量の涙がこぼれていた。
それを意味するところはマスターにも志希と呼ばれた女性にもわからない。
そしてこれからも知ることはないだろう。
喫茶店を出ると、秋風が落ち葉を掃いていた。
風は冬華をすり抜けるように舞い上がり、やがて空へと溶けていく。
見上げると、青く澄んだ空を渡り鳥の群れが飛んでいた。
了
ONCE AGAIN 摩耶王 @galcia2510
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