第55話 番外編③~秘書官の日常~【前半】
※長くなったので前半と後半に分けてます。ご注意ください。
ネイサンの朝は早い。
毎朝5時に起床し、1時間の走り込みまたは素振りやストレッチなどの運動を行う。文官とはいえ皇帝の傍にいる仕事なのでいざという時のために鍛錬は欠かせない。
シャワーを浴びて汗を流したあとは、新聞を読みつつ朝食を摂る。効率重視のためメニューはいつも同じだ。
7時には執務室に入り、本日のスケジュールと仕事内容の確認を行う。以前であればカイルが朝早くから仕事をしていたため、朝食の準備や飲み物の支度を行っていたが今は皇妃と朝食を共にするため必要がなくなった。
8時にカイルが現れて、打ち合わせをしながら体調や機嫌を確認する。
体調を崩すことはほとんどないが、皇妃と喧嘩したり(ほとんどの場合が些細な言い争いや意見の食い違い)、皇妃についての懸念事項がある場合は、仕事の集中力が若干落ちるので注意が必要だ。
逆に嬉しいことがあった時は恐ろしいほどに仕事が進むので今のところはプラスマイナス0といったところか。
9時に秘書官補佐たちと打ち合わせ、各自の進捗具合を確認しつつ仕事の振り分けを行う。昨日からの引継ぎ事項やトラブル報告、至急の仕事の有無など細かく詰めていく。
午前中は特に他部署との連携が必要な仕事を回して、先方への確認事項や依頼などをしておくとスムーズなのだ。
執務室に戻り仕事を進めていると、カイルから声が掛かる。
「今日の午後、少し外しても大丈夫か?」
その言葉に本日の皇妃のスケジュールを頭の中で思い浮かべる。予定にない行動は大抵の場合皇妃関連であることが多い。
(そういえば今日は商会の日だったな)
「本日は昼食会のあとに少しだけ時間はありますが、その後の会議もありますので却下です」
「商会が来てもロティは自分の物よりも俺や使用人の物を買おうとするからな。だったら俺が一緒にいて選んでやったほうがお互いのためにいいだろう?」
慎ましさは美点だが皇族としては一定の消費を行い、経済を回すことも重要である。もっともらしいことを口にしているが、要は自分が皇妃に似合うドレスや装飾品を贈りたいだけだ。
「ケイシー嬢たちに頼んでいるから大丈夫ですよ。一緒に選んでも妃殿下は遠慮なさるでしょうから、サプライズという形で贈って差し上げてはいかがですか?」
カイルの希望をあまり無下にするわけにもいかないので、折衷案を提案すると納得してくれたようだ。皇妃が絡むとわりと頑固なのだが、あっさりと通ったことに今日は良い日だなと思った。
本日の昼食会は大臣たちという、いわば身内の会なのでネイサンはその間に自分の昼食を済ませるため食堂に向かう。
日替わりを頼み半分ほど食べ終えたところで、見知った人物がこちらに向かってくる。
「ネイサン様、ご一緒しても?」
「どうぞ」
わざわざこちらに来たのだから何か話があるのだろう。話しやすいよう差し障りのない話題から入ることにした。
「仕事には慣れましたか?」
「ええ、とてもやりがいがあって楽しいわ。今は妃殿下と業務改善の素案を作成しているのだけど、出来上がったらネイサン様にも確認していただきたいの」
「勿論構いませんよ」
最高級のルビーでも敵わないほどの輝きを見せる瞳が、アイリーンの心情を物語っている。
彼女を皇妃の秘書官として推薦したのはネイサンだ。女性の文官登用はまだまだ少数ではあったものの彼女の知識と経験を活かすにはぴったりだったし、彼女が自分の能力を国のために活かしたいと願っていたことを知っていたからだ。
「それと午後に商会が来るけど陛下はいらっしゃるのかしら?妃殿下が陛下に内緒で贈り物を選びたいようなの」
似た者同士だなと考えて、くすりと笑みが漏れる。お互いに喜ばせようと想い合っているところが微笑ましくて、少し羨ましい。
「今日は止めておきましたので、大丈夫ですよ。正解だったようですね」
用件はカイルの予定確認だったのかと納得して、最後に残ったパンを口に入れる。ここまではいつもと変わらない日常だったのだとネイサンはこの日のことを振り返るたびに思う。
アイリーンの食事はまだ3分の2以上残っていたし、ゆっくり食事をしてもらおうと席を立とうとしたところ、アイリーンが話しかけてきた。
「あの、ネイサン様——ちょっと相談したいことがあるの……」
彼女にしては珍しく言いよどんだ様子に、ネイサンは内心首を傾げながらも居住まいを正した。
「今晩予定はあるかしら?もし良ければ外で話せたらと思うのだけど」
陛下は本日皇妃と一緒に夕食の予定なので、トラブルが起きない限り定時で上がることは可能である。迷ったのはほんの僅かな時間で、ネイサンは承諾した。
「大丈夫ですよ。19時半に正門でいかがですか?」
「ええ、ありがとう」
トレイを返却して執務室に戻る間、ネイサンはアイリーンの相談の理由について考えていた。
仕事が終わり正門に向かう前に、一旦部屋へと戻った。時間にはまだ少し余裕があったし、一旦頭を整理させたかったからだ。
(6歳下の同僚女性からの相談理由……結婚、退職あとは人間関係か)
わざわざ外で話したいというのだからどちらかといえばプライベートな内容ではないかと思う一方で、それならネイサンより適任者はいくらでもいそうなものである。
アイリーンとネイサンの間に接点はさほど多くない。
「彼女と噂になっているのは秘書官補佐なのか?」
アイリーンは才気あふれる魅力的な公爵令嬢だ。華美な服装ではなくても目を引くし、話題に上がりやすい存在だが、最近想い人が出来たという噂がある。人目を忍んで語り合っていたというだけでは判断できないが、恋する女性の表情をしていたらしい。
(でも秘書官補佐は皆伯爵以下の令息なんだよな。選ぶのはアイリーン嬢の自由なんだが、身分差があり過ぎると揉める可能性大か。まあ高嶺の花を手にいれるのだからそれぐらいの苦労は当然だろうがな)
アイリーンのことを案じながらもどこか苛ついている自分に気づいて、ネイサンは自嘲の笑みをこぼす。
アイリーンと自分では釣り合わない。最初から期待していないのに、頼られたことが嬉しくて自制が緩んでいたようだ。
「嫌われてないと分かっただけで十分だな」
そんな自分に忠告するようにネイサンはそう呟いた。
意外なことに彼女が予約した店は大衆向けの小さなレストランだった。店内はにぎわっていたが、奥の方は見えないよう個室になっていたので話をするのに不便さはない。
「アイリーン嬢がこのような店を知っているとは驚きですね。ああ、これは別に嫌味でも何でもないのですが」
折角連れてきてくれたのに気分を害しただろうかと弁解するように付け足したが、アイリーンは気にした様子もなく笑って種明かしをした。
「ケイシーに教えてもらったの。こういうお店にずっと入ってみたかったのだけど、なかなか勇気が出なくて」
ドレスコードが不要な場所で公爵令嬢が食事を摂ることなんて、本来は一生ないのだろう。そのせいかアイリーンはいつもより楽しそうに見える。
気になるメニューが多すぎて悩んでいたアイリーンに、ネイサンはシェアしながら食べることを提案した。彼女にとってはこれも初めての経験なのだろう。
普段は口にしない種類のワインで乾杯して、何気ない会話を交わす。共通の話題は仕事についてだが、時事や論文の内容についても議論ができるアイリーンとは話が弾んだ。
楽しい時間に当初の相談について忘れそうになってしまった、というのは言い訳だろう。出来るだけ先延ばしにしたいと願ってしまったのだ。
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