第56話 番外編③~秘書官の日常~【後半】
※前半を読んでからお読みください。
食事が一段落着いた頃、アイリーンかわグラスを置いて真剣な表情でネイサンを見つめたことで、ネイサンも頭を切り替える。だが告げられた言葉は全く予想していないものだった。
「私、本当にもう陛下のことを何とも思っていないの。確かにいつか皇妃にと思っていたし、初恋の相手ではあるけれどそういう気持ちは全くないわ。だから安心してちょうだい」
アイリーンの言っている言葉は分かるが、どういう意味なのかが分からない。困惑したネイサンの表情に気づいたのか、アイリーンは言葉を付け加えた。
「ネイサン様は妃殿下のお供として私が陛下の傍にいる時、よく見ているでしょう?警戒されるのは仕方ないけど、私も妃殿下に心からお仕えしているつもりだし今の立場を利用して陛下に迫ったりしないわ」
「そんなこと疑ったりしていません!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえる。アイリーンは少し驚いたようだが、怯えた様子がないことに安心する。
(いや、待て。それどころじゃないぞ!)
見ていたつもりなど全くなかったのだ。無意識にアイリーンの姿を目で追っていたという事実をどう誤魔化していいのだろうか。
正直に告げたところで振られるだけだし、アイリーンからすれば迷惑以外の何物でもないだろう。仕事に支障をきたすことだけは避けたいが、最適な理由が思い浮かばない。
「アイリーン嬢、不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
葛藤の末ネイサンが選んだのは謝罪だった。アイリーンの表情は大きく変わらないものの、僅かに眉を寄せ、どこか不安そうな面持ちである。
「貴女があまりにも魅力的で無意識に見惚れていたようです。今後は気を付けますし、貴女が不快なら妃殿下との打ち合わせの際には他の者と代わりましょう」
アイリーンの瞳がだんだんと無機質な物に変わっていき、怒りの兆候を感じ取ったネイサンは内心焦った。
カイルのための行動であればと無実を晴らすためにわざわざ時間を割いたというのに、それがただの私情であったのだから、文句を言いたい気持ちは分かる。
すっかり信頼を失ってしまったが、これも自業自得だと再度謝罪の言葉を口にしかけたネイサンにアイリーンは静かな声で言った。
「……ネイサン様は私の外見は魅力的と思っているのね」
「内面は見た目以上だと思っていますよ」
気づけば咄嗟に返していた。
その美貌はもちろん、アイリーンの滲み出る品格や所作などは美しいと思うが、それ以上に彼女の知識や思考は時にネイサンをはっとさせることがあり、話をしていて楽しく思う。自分の立場に驕らず常に研鑽を積み努力し続ける彼女を好ましく思わないわけがない。
(って違うだろ!これじゃあ謝罪にかこつけて口説いているように思われるじゃないか!)
信頼を失ってしまったのは自業自得だが、これ以上アイリーンを不快にさせてどうするのだ。
「――もういいわ。ネイサン・リトレ様」
その一言が心に重く響いた。聞こえてきた溜息にネイサンは奥歯を噛みしめながらも、名前を呼ばれて顔を上げる。
「私は貴方を愛しているわ。貴女に見合う女性になると約束するから、私と結婚してくださいませ」
(今、彼女は何と言った?)
頭に浮かんだ言葉を口にしないだけの自制が働いたことは褒めてやりたい。百歩譲ってこれが現実だとしたら、求婚の言葉を聞き返すなど失礼にも程がある。
アイリーンは挑むような目でネイサンから視線を逸らさない。そういう気の強いところも真っ直ぐなところも彼女に惹かれる理由の一端だ。
(家格が釣り合わない、彼女に相応しい男じゃない、自分よりももっと彼女を幸せにできる男はいくらでもいる)
年上なのだからそう諭してあげるのが正しいことだと分かっていた。
「アイリーン嬢、すみません」
ネイサンの言葉にアイリーンの瞳が揺れて表情が強張ったのが分かる。言葉選びを間違えてしまったことを申し訳なく思いながら、ネイサンは言葉を続けた。
「俺に覚悟と自信がないばかりに貴女に言わせてしまいました。愛しています、アイリーン・メイヤー公爵令嬢。俺に貴女を幸せにする権利をください」
「――っ、はい」
アイリーンの頬に一筋の涙がつたい、そっとハンカチで拭うとアイリーンは幸せそうな笑みを浮かべた。
(うわ、これ破壊力やばいな)
にやけそうになる顔を引き締めた時、ドアが開いて聞き慣れた声がした。
「やっと言ったか。まったくこっちが冷や冷やしたぞ」
「へっ——カイル様?!」
衝撃のあまりいつもの呼び方をしかけて、反射的に言い直したものの驚きすぎてそれ以上言葉が出ない。
(何でこんなところに、いやそれより護衛はどうなっている?!)
皇都とはいえどこに危険が潜んでいるか分からないのだ。皇帝が単独で外出するなどあり得ない。
「ちゃんと護衛は付けているから安心しろ。というか貸し切りにしたから店内のやつらはほぼ近衛騎士だ」
「アイリーン、良かったわ。おめでとう!」
カイルの後ろからひょっこり姿を現したのは皇妃で、その後ろには申し訳なさそうにケイシーが立っている。カイルがほぼという言い方をしたのは彼女たちがいたからだろう。
「……ご説明願えますか、陛下?」
恨みがましい視線を向けるネイサンに、カイルは愉快そうに笑い声をあげた。
事の始まりはシャーロット、アイリーン、ケイシーの3人で打ち合わせ後の雑談がきっかけだった。結婚後の女性が働きやすい環境について話していたため、話題は自然とそちらに映る。
「貴族であれば女主人としてその家の采配を振るう必要があるし、夫の家に入ってしまえばなかなか希望を通すのは難しいわよね」
文官は貴族だけのものではないが、如何せん行儀作法や幅広い知識を求められるため平民女性にとってはハードルが高い。
「ご主人側の理解を得るのが一番のネックだけど、その点ケイシーは問題ないわよね」
「か、彼とはまだ結婚していませんから」
アイリーンの軽口にケイシーがぱっと頬を染める。姿を見たことはないがケイシーの希望を尊重し、お互いに仕事優先するというのが暗黙の了解となっているらしい。
「ふふ、羨ましいわ」
アイリーンの感想にシャーロットが考えたのは、彼女に似合う男性は誰だろうということと、身近な男性で仕事に理解してくれる人物を思い浮かべただけで、他意はなかった。
「ネイサン様ならきっと理解してくださるわよね」
「っ、どうしてネイサン様の名前が——あっ」
動揺したようなアイリーンの言葉と真っ赤に染まった頬を見て、シャーロットは自分が当たりを引いてしまったのだと分かった。
「余計なことをせずに見守っているつもりだったけど、ついネイサン様を気にしていることをカイル様に知られてしまって」
きっとシャーロットがネイサンを気に掛けていることが、面白くなかったに違いない。浮気を疑われなかったのは幸いだが、事情を知って積極的に関わることにしたのだろう。
「アイリーン嬢の……逢瀬の噂も陛下の策略ですか?」
口調に棘があるのは上手く乗せられたことへの不満を表明するためであり、内心やきもきさせられたのだから、これぐらいは大目に見て欲しい。
「あれは、バルト伯爵令息にネイサン様のことを教えてもらっていたの。噂を否定しなかったのは、そのままにしておくよう陛下がおっしゃったからだけど」
アイリーンが申し訳なさそうに告げるが、カイルは愉快そうに口の端を上げている。
2度も当て馬要員になったステフが可哀そうな気がしたが、ネイサンに何も言わなかったから同罪だ。後日報復はしっかり行っておこう。
そしてステフが絡んでいるならアグネスには筒抜けということだ。
(絶対小説のネタにされる!)
又従妹のアグネスは本名を伏せているが、数年前エドワルド帝国で流行ったファンタジー小説の著者なのだ。最近は恋愛小説を執筆していて、シャーロットとカイルの仲を取り持つべく積極的に関わってきたのは、取材も兼ねてのことだろう。今度は身内の話なのだから根掘り葉掘り質問されることが簡単に予想できて、考えるだけで頭が痛い。
「姑息な真似をしてごめんなさい。――やっぱり嫌になったかしら」
ネイサンの溜息を勘違いしたらしく、アイリーンが不安そうに訊ねてくる。
「まさか。俺のことを知りたいと思ってくれたのでしょう。嬉しく思いこそすれ、嫌うなんてあり得ませんよ」
「ネイサン様って意外と天然タラシなところ、あります?」
「恋愛に関しては人のこと言えないぐらいヘタレだと思っていたのに、まあ昔から抜け目ない奴だからな」
後ろで色々聞こえてくるが、とりあえずそちらも後日で構わない。
「アイリーン、今度は二人きりで食事に行きましょうね」
「ええ、楽しみにしているわ」
いつもと変わらない1日が忘れられない日となった。これからは彼女との日々が日常になるのだと思うと心が躍る。
差し出した手に重ねられた手を取り、ネイサンは幸福な未来に想いを馳せた。
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