第41話 侍女の受難
ケイシーは未だ胸に燻る怒りを自覚しながら、努めて冷静に仕事をこなしていた。
侍女としての自分の評価は主の評価に影響を与えかねないからだ。どんなに気に入らなくてもシャーロットの不利益にならないのであれば命令に従う。
丁寧に淹れたお茶をそれぞれの前に置けばそれで終わりのはずだったのに、一礼して下がりかけたケイシーを呼び止める声が上がった。
「ねえ貴女、ケイシーといったかしら?愚弟の謝罪がまだ済んでいなかったわね」
「姉上!俺は——」
「この度は身の程を弁えずバルト伯爵令息様に失礼なことを申しました。ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません」
反論しかけたステファンの言葉を遮るように、ケイシーは淡々と謝罪の言葉を口にした。
シャーロットへの侮辱は許すつもりはないが、身分が上の人間に対して失礼な発言をしてしまった自覚はある。そのまま放置しておくのは後々問題になる可能性もあったため、アグネスの意図とは異なるものの、声を掛けてくれたことで詫びる機会を得ることができた。
「困ったわね。貴女に謝ってもらうつもりはなかったのよ?」
「シャーロット様の侍女は忠誠心に厚く優秀ですね。ステフも見習ったほうがいい」
認めてくれるのは有難いが、ステファンは明らかに気分を害したようだ。
(身内の成長を促すために利用するのは止めてほしいわね)
遠慮のない物言いをしているが、傷つけようという悪意は感じられないのだから仲が良い証拠なのだろう。カイルの近衛騎士を目指すのなら個人的な感情よりも、主の願望や意向を察して行動することが求められる。感情に走る傾向があるのは若さゆえだろうし、言動からは熱意や正義感が窺えるので将来有望な青年だとは思う。
母親のような目線でそんなことを考えていると、アグネスが良いことを思いついたとばかりに両手を合わせて、明るい声で言った。
「そうだわ。ケイシー、貴女お付き合いされている方はいるのかしら?ちょっと性格に難はあるけど、この子はわりと優良物件だと思うのよ」
「えっ……?」
「はぁ?!」
ケイシーとステフの声が重なる。アグネスはにこにこと笑顔だが、ネイサンは呆れたような表情を浮かべている。
「アグネス、流石に唐突ですし、この二人は互いの主のことで反目していたばかりでしょうに。貴女の好む物語のようにそう都合よくいくわけがないでしょう」
「あらネイサン様、さきほど女心に疎いと言ったことを根に持ってらっしゃるのかしら?確かに今はお互い印象は良くないけれど、ステフにはこのくらいはっきり意見を言ってくれる女性のほうが合っていると思うわ」
口を挟む間もなく進んでいく会話にケイシーは嫌な予感を覚える。
それでも客人であるアグネスと皇帝の側近であるネイサンとの会話を邪魔するのは、使用人としての分を超えているため立場的によろしくない。
そのためケイシーはステファンが何か言ってくれることを期待したのだが、拗ねたように顔を背けたまま黙り込んでいるのだ。怒りのせいかその白い頬に赤みが差している。じれったい気持ちを抑えながら、どうにかして欲しいと目で訴えているのだが一向に視線が合わない。
(ああ、もうこのまま退出してシャーロット様の傍に控えていたいのに)
勝手に下がるわけにもいかず、苛立ちが募る。
そもそも今回の件はネイサンが主犯だとはいえ、アグネスもステフも同罪なのだ。シャーロットはあんな風に言っていたが、他の女性に心変わりした風を装って気持ちを量るなど最低な行為ではないか。結果的にはシャーロットが想いを告げる後押しとなったようだが、恋心を自覚したのなら尚更苦しい思いをしたに違いない。
「ステフは今年で20歳になったの。ケイシーは私と同じぐらいの年齢よね?」
「……27でございます」
いい年をして婚約者も付き合っている男性もいない。万が一ステファンとの話が進めば、年下の伯爵令息を誑かした年増女と思われるのは必至だろう。
「この子は包容力のある年上の女性のほうが絶対上手くいくと思っているの」
きらきらと楽しそうに瞳を輝かせるアグネスに、誰か止めてくれないだろうかと心の中で真剣に願ってしまった。
「それ以上は駄目です。ケイシーは俺のですから」
この場にいるはずのない人物の声が聞こえて、場がしんと静まり返った。背後から聞こえてきた声にケイシーは反射的に振り返ろうとしたが、肩を押さえられて動きを止める。
「ごめんね。まだ会えないんだ」
顔は見えないが聞き覚えのある声に心当たりがあった。
「貴方——」
ケイシーの言葉を封じるかのように男の人差し指が唇に当てられる。
「命令されてないから勝手なことは出来ないけど、彼女に近づくなら相応の覚悟が必要だと理解してもらいます」
少し低くなった男の声に顔を上げると、先ほどまでと空気が一変しており三人の表情は強張っている。
状況が理解できていないのは自分だけなのかと戸惑っていると、唇から指が離れて耳元に囁かれた。
「もう少しだから待ってて。またね」
身体を拘束していた腕が離れて振り向けば、そこに人影はなかった。
(え、幽霊……?)
現実離れした光景に目を瞠るばかりだったが、ネイサンからの問いかけで我に返る。
「ケイシー嬢、貴女いつ彼に出会ったんですか?」
憂鬱そうに額に手を当てて溜息を吐くネイサンを見て、苛立ちが戻ってきた。
「それはリトレ秘書官もご存知なのではないですか?あの日シャーロット様に会いに来られた時、足止めをしたのは先ほどの方でしょう?」
わざわざ一人でシャーロットに会いに来たネイサンは、別の紅茶を注文してケイシーを遠ざけようとした。断るわけにもいかず準備をして急いで戻ろうとしたケイシーは、姿を隠した男に邪魔をされたのだ。
しらを切るつもりかと思ったが、ネイサンの驚いた表情は演技には見えなかった。
「――そう、なんですね。あれは私の部下ではなく陛下の命令しか聞かない、ちょっと特殊な存在なのですが……。いえ、すみません。もう下がっていいですよ」
納得できない答えではあったが、ようやく退室を認められたケイシーは大人しく下がることにした。
「……あれ影だよな?陛下の前にしか現れないっていう……」
「認識されていないのに、あの独占欲……。ケイシー大丈夫かしら」
「あれは多分特殊なやつです。このことは他言無用ですよ」
扉が閉まる直前に何やら不穏な会話が交わされていたような気がしたが、盗み聞きなど侍女としてあるまじき行為だという認識を持つケイシーが、その内容を知ることはなかった。
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