第35話 客人

朝起きてソファーの上に座るテリーの姿に思わず笑みがこぼれる。

「おはよう、テリー」

誰も見ていないからとぎゅっと抱きしめれば、温かい気持ちが心を満たす。二度と手にすることのない宝物が戻ってきたのだ。


(それにしてもカイがカイル様だなんて、全く気付かなかったわ。大切な友達だったのに顔もほとんど覚えていないなんて……)

ふわふわの毛並みを指で梳きながら、気づけば頭はカイルのことを考えていた。


幼少期の記憶はおぼろげで辛い思い出が大半を占めていたが、その中でも年上の優しい少年のことは忘れられなかった。酷い言葉を投げつけたという罪悪感もあったが、泣いていた理由を詮索せずに声をかけてくれたことや、シャーロットの話に耳を傾けてくれたことが嬉しくて幸せな時間だったからだ。


(カイル様は今も昔もずっと優しくしてくれる)

じわりと胸の奥が満たされるような感覚が落ち着かない。そわそわとした気分に視線を彷徨わせればカーテンの隙間に窓ガラスに映り込んだ自分の姿に瞠目する。


途端に窓ガラスの表情も驚いたものに変わっていたが、一瞬で立ち消えた自分の表情を思い出す。口元が弧を描き、恥じらうようでどこか嬉しそうな自然な笑顔だ。

どこか見覚えのある表情を思い出そうとしていたところ、ノックの音がしてケイシーが現れる。そうして身支度を整えるうちにシャーロットはそのことを忘れてしまっていた。


「午後に陛下がいらっしゃるそうですわ」

「…そう、なのね」

ケイシーの一言でシャーロットは動揺しそうになったが、何とか表に出さないように小さく答えた。どんな顔でカイルと向き合えば良いのだろう。


(いいえ、カイがカイル様だとしても同じよ。何も変わらないんだから)

本当に何も変わらないのなら自分に対して言い聞かせる必要などないのだが、シャーロットはその矛盾に気づかない。ただカイルに会えると聞いてから気持ちが高揚しているという事実に、半ば無自覚のまま意識を逸らそうとしていたのだった。

だからこそおもむろに告げられたカイルの言葉は、シャーロットにとって青天の霹靂だったと言える。


「時間を取ってもらって悪いな」

「いえ、とんでもございませんわ」

その言葉以上に申し訳なさそうな、居心地が悪そうな表情に少しだけ違和感を覚えたが儀礼的な言葉を返す。視線を彷徨わせたあとに、ため息をついてカイルは言葉を続けた。


「その、少しの間離宮に客人を迎えることになった」

「そうなのですね。どういう方かお伺いしてもよろしいのでしょうか?」

その質問に他意はなく、この時点ではまだシャーロットは何も気付いていなかった。一瞬の沈黙のあと、カイルはどこか躊躇うように口を開く。

「……バルト伯爵家の縁者だ」

その言葉でようやくどういう客人なのか、シャーロットは悟るとともに頭の中が真っ白になる。


(笑いなさい、シャーロット・ブランシェ!陛下の前で醜態をさらすわけにはいかないわ!)

皇帝の婚約者としての矜持が頭の中を駆け巡る感情や思考にストップをかけた。


「承知いたしました。仲良くなれると嬉しいのですが、お会いしないほうが良ければ私は出来る限り部屋で過ごすようにしますわ」

正しい淑女の微笑みを浮かべているはずだが、表情を曇らせたカイルを見ていると不安になる。淑女の仮面すらも被れなくなっているのなら、シャーロットがここにいる意味は無きに等しいのだ。


「いや、普通に過ごしてもらって構わない。ロティが望まないならこの話はなかったことにするから――」

「私に気遣いは不要ですわ。喜ばしいことだと思っておりますので、どうぞお気になさいませんよう」

案じるようにロティの表情を窺うカイルに、シャーロットはしっかりと視線を合わせて微笑みを浮かべる。相手の内心を読み取るように見つめ合った後、先に視線を逸らしたのはカイルのほうだった。


「以前も言ったが、ロティは自由に過ごしていいし誰かに気を遣う必要もない。何かあれば遠慮なく言ってくれ」

「ありがとうございます——カイル様」

名前を呼ぶことを躊躇ったのは、まだその資格があるのかと一瞬考えてしまったからだ。


「また滞在日が分かったら連絡する」

用件を伝え終わったからか、カイルはお茶に口を付けることもなくそのまま部屋から立ち去った。

扉が閉まっていることを確認すると、思わず吐息が漏れて自分がかなり緊張していたのだと分かった。


「シャーロット様!」

心配そうなケイシーの声に、別荘でカイルを怒らせた提案について何も話していないことに気づく。本当はあまり伝えたいことではなかったが、何も知らなければ優しい彼女はきっと心を痛めるだろう。


「カイル様に側妃を迎えていただくよう、進言したのは私なの。だからケイシーは心配しなくていいわ」

「シャーロット様……」

理由を聞きたくてたまらないだろうに、ケイシーは使用人としての立場を弁えていたし、シャーロットは彼女がそうするだろうことを予測して多くを語らなかった。


「お茶のお代わりをいただけるかしら」

まだカップに半分以上残っている中身を見て、ケイシーは正しく意図を理解しお茶を淹れなおすという名目で部屋を後にする。


(私が望んだことなのに、どうして今更こんなに動揺しているのかしら?)

ほんの少し前まではカイルに癒しをもたらす存在を切望していたというのに、いざそれが現実味を帯びてくると、息が詰まり胸が苦しくなってしまった。


(カイがカイル様だったから?カイル様がずっと思ってくださっていると知ったから?)

理由を考えても答えは出なかったが、今のシャーロットに側妃となる令嬢を心から迎えることが出来ないことだけは確かだった。

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