第23話 刺繍

「それでは出掛けてくるが、シャーロットはゆっくり過ごしていいからな。庭であっても外に行くときは護衛を必ず連れて行くこと。必要な物があれば使用人に遠慮なく伝えてくれ。それから——」

「陛下、そろそろ行きますよ」

まるで小さな子供に言い聞かせるようなカイルの言葉をネイサンが遮ると、カイルは不満そうな表情でネイサンを軽く睨んだ。


「分かっている。ロティ、そんなに遅くならないから夕食を一緒に摂ろう。――では行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」


見送りのため深々と腰を折るが、カイルが立ち去る気配がない。小声でネイサンが何か声を掛けるとようやく足音が遠ざかっていく。


「何をしたら良いのかしら……」

好きに過ごして良いと言われたものの、したいことが思い浮かばない。

「お庭で刺繍などいかがでしょうか?」

ケイシーの提案に頷いて庭園に向かえば、自然の景観と調和した素朴で豊かな空間が広がっていた。


木陰に用意された席に座ると爽やかな風が通り抜け、点在する野生の草花が可憐な姿を主張するように揺れる。目を引いた小さな花をモチーフにハンカチの片隅にシャーロットは針を通していく。

昔は苦手だったが、淑女の嗜みとして必死で身に付けたものだ。


(最近はすっかり遠のいてしまっていたけれど)

一度肩を決めてしまえばあとはそれに沿って黙々と手を動かすだけである。適度に頭を休めることが出来るし、よい気分転換になりそうだった。出来栄えはともかく完成させる楽しみがあるのも嬉しい。

最後の一針を通し終え糸を切って、次の刺繍に取り掛かろうとすればケイシーから止められた。


「シャーロット様、少し休憩なさってください。お仕事ではないのですから、そんなに根を詰めてするものではありませんよ」

そう言われて柑橘系の香りがするお茶を飲むとほっとした。心地よい達成感と適度な疲労にケイシーの指摘が正しかったのだと気づく。


(こうやって理解してくれる人が傍にいるのは有難いことね)

当初はすぐにリザレ王国に帰そうと思っていたのに、ケイシーの優しさに甘えてそのまま言い出せずにいたのだ。だがいい加減頃合いだろう。


「ねえ、ケイシーはどなたか想う方がいるのかしら?」

15歳の頃から12年間、ずっとシャーロットの世話をしてくれたのだ。もし相手がいなくても侯爵である父に頼めば良い縁談を用意してくれるだろう。

「そんな方おりませんわ。私にはシャーロット様がおりますもの」

思わぬ言葉にシャーロットはじっとケイシーを見つめた。慈愛に満ちた微笑みは幼い頃からずっと見てきたものだ。姉のように慕い見守ってくれたケイシーの献身が偽りではないと信じたい。


「ケイシーが望むならお父様に頼んで良い嫁ぎ先を見つけてもらうわ。ご家族だってリザレ王国にいるのだし、私はもう大丈夫よ」

これからは自分の幸せだけを考えて欲しい、そう思って告げた言葉なのにケイシーの表情が曇った。


「私の幸せはシャーロット様にお仕えすることです。どうかこれからもお傍においてくださいませんか」

「でも……」

その真剣な眼差しから心からの言葉だと分かったが、それでもシャーロットは躊躇ってしまう。そんなシャーロットにケイシーは表情を和らげると、衝撃的な言葉を口にした。


「私は誰の元にも嫁ぎませんわ。幼少の頃の病気が原因で子が産めないのです」

言葉を失うシャーロットにケイシーはいつも通りの口調で続ける。

「一人で生きていく覚悟を決めて私は侯爵家に参りました。そしてお嬢様に出会ったのです」



(なんて愛らしい子なのだろう!)

キラキラと輝くエメラルドのような瞳がケイシーをじっと見つめている。当主であるサイラスは怖そうな顔つきだったが、奥様は優しそうでお嬢様は人見知りなのか母親の陰からそっと顔を出していた。


縁故のある男爵家の娘で礼儀作法も問題なかったケイシーはシャーロットの侍女として採用された。親子3人で過ごす様子は傍から見ても仲睦まじく、自分が手に入れることが出来ない光景に胸がちくりと痛むことがあったが、シャーロットの屈託のない笑顔に癒されたのかすぐにそんな痛みもなくなった。


それから奥様が亡くなり、シャーロットが王太子殿下の婚約者に選ばれ目まぐるしく変化する日々の中で、ケイシーは自分の無力さを噛みしめていた。

喜怒哀楽が豊かだったシャーロットから感情が抜け落ちていくのを止められず、誰にも見つからないようにこっそりと泣いているのを見つけて寄り添うことしか出来ない。

身分が低く宮殿に上がるほどの礼儀を身に付けていないからと、一緒に付いていくことが出来ない自分が歯がゆかった。


「ケイシー、いつもありがとう」

それなのにシャーロットはケイシーに当然のようにお礼を言った。どんなに泣いていてもシャーロットが弱音を漏らすことはなく、真剣に取り組む様子を見てこの方を支えようと心に決めた。いつかシャーロットが王妃になるのなら、傍に仕えることが出来るよう必要なことを全て身に付けるべくケイシーもまた努力し続けたのだ。


「シャーロット様に生涯お仕えすることが私の喜びであり望みでございます」

「……ケイシー、ありがとう」

溢れそうな涙を堪えながら感謝の言葉を口にする。疑ってばかりだったのに、ケイシーはずっと見守ってくれていたのだ。


「ケイシー、ご家族とゆっくり過ごすはずだったのにごめんなさい」

ようやく落ち着いたシャーロットが最初に口にしたのは、あの日からずっと気になっていたことだった。シャーロットが婚約解消されなければ、久しぶりに家族との時間が取れるはずだったのだ。


「シャーロット様が謝るようなことではございません。あの日お傍にいられなかったことをどれだけ後悔したことか」

やるせない表情を見せるケイシーとは裏腹にシャーロットの心は軽くなった。あの日からずっと心に抱いていた不安がほろほろと溶けていく。


じわりとにじむ喜びに浸りながら刺繍の続きに取り掛かろうとハンカチを手に取る。

「シャーロット様、次は鳥や馬などにしてみてはいかがでしょうか?きっと喜んでくださいますよ」

ケイシーの一言に思わずハンカチを落としそうになる。


「こんな手慰みで作ったものを陛下にお渡しできないわ」

「そんなことありませんわ。シャーロット様の手作りですもの」

それには答えずに俯くと照れ隠しと思ったのか、ケイシーは小さく笑って新しいお茶を準備するために邸内に向かった。


婚約者に刺繍入りのハンカチを渡すのは特別なことでないし、カイルが喜ぶ様も容易に想像がつく。一方でこれ以上好意を向けられるのは居心地が悪い。それなのに気づけば色んな図柄やモチーフが頭に浮かび考え込んでいる自分がいた。


(いつも頂いてばかりだもの。そのお礼にお渡しするだけだから深く考えなくても良いのではないかしら)

する必要のない言い訳を自分自身に向けながら、シャーロットは意を決したように針を動かし始めた。

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