第13話 呼びかた
人が絶えず動き回っているような、慌ただしくもどこか浮足立った雰囲気が流れている。いよいよ婚約発表のためのパーティ当日となった。
夕刻から開始される大きな行事を前に朝から磨き上げられたシャーロットは豪奢な衣装を身に纏う。ラルフ王太子の婚約者であったため、それなりに高級な物を身に付けていたつもりだったが更に上があるのかと思い知らされた気分だ。
準備が整い貴族名鑑に目を通し最終確認を行っていると、ノックの音が聞こえた。
「シャーロット、今日は一段と綺麗だな」
カイルは感嘆のため息を漏らし、流れるような仕草で手の甲に口づけを落とす。
「ありがとう存じます。……カイル陛下がご準備してくださったドレスのおかげですわ」
返礼としてカイルの正装姿に言及しようとしたが、互いに褒め合うことがどこか気恥ずかしく感じて別の言葉を口にしてしまった。
この1ヶ月間、カイルはずっとシャーロットに対し紳士的で気遣う姿勢を崩さなかった。何より使用人だけでなく腹心の部下にさえ見せない柔らかな表情を向けられることで、ある程度の好意を抱かれていることを認めざるを得なくなったのだ。
(だからこそ迂闊に好意的な言動を仄めかすような真似はしてはいけないわ)
気持ちを返す気がないのに期待させれば傷付けてしまうかもしれない。カイルの優しさは傷ついた心に沁み入るようで、シャーロットは徐々にカイルへの警戒を解いていった。しかしだからと言ってその気持ちに応えることは出来ない。
(あんな想いは二度としたくない)
人の心が変わるのは止められない。大切な人に裏切られるぐらいなら最初から求めなければいい。シャーロット自身が心を明け渡さなければ痛みは最小限で済む。
「これも俺の我儘なのだがな」
光の加減で黒にも青にも見える濃藍色のドレスは重くなりすぎないよう白金色の刺繍が散りばめられている。胸元を飾るのは希少なブルーダイヤモンドでシャーロットを見つめる瞳と同じ色だ。対するカイルは艶やかな黒の燕尾服に白金色の刺繍、エメラルドのブローチが胸元を飾っている。
対になるのではなく互いに揃えた色合いは親密さを感じさせる装いだ。
「出来る限り傍にいるが、それでも女性には女性の社交があるだろう。ずっと守ってやることは出来ないし、心無いことを言われるかもしれない。だけど俺はずっと君の味方だということだけは覚えておいてくれ」
握りしめられた手に力がこもり、青い瞳に懇願するような色が浮かぶ。少なくとも今日だけはその言葉を信じられるような気がしてシャーロットは微笑みを浮かべると、カイルは驚いたように目を瞠った。
「とても心強いお言葉、ありがとう存じます。カイル陛下の婚約者としての立場に恥じぬよう振舞いますわ」
そう言うとカイルは何故か口元を手で覆った。その目元が僅かに赤く染まったように見えるのは気のせいだろうか。
「婚約者、いい響きだ……。シャーロット、その、婚約者というなら多少親密な雰囲気があっても良いと思うのだが、どうだろうか?」
親密な雰囲気が具体的にどういうことを差しているのか分からないが、最初から不仲と思われるのは印象が良くないだろう。何しろカイルは皇帝という最上位の身分だけでなく、容姿端麗な上に聡明さまで兼ね備えているのだから、冷淡な態度を取れば令嬢たちの嫉みや反感を買いやすい。だがあまりにも親密過ぎればそれはそれで反感を買うのだから、その辺りの匙加減は調整しなくてはいけない。
「ええ、それは特に問題ございませんが……どうしたらよろしいのでしょうか?」
「そんなに難しく考えないで、君は普段通りでいればいい——ロティ」
誰からも呼ばれたことのない愛称に思わず目を瞬かせたシャーロットだが、嬉しそうなカイルの表情にしてやられたという気分になった。
「カイル陛下、それは——」
「何だ、ロティ?」
止めて欲しいと言う前に、幸せそうに愛称を呼ばれて拒否しづらい。分かりやすい親密さであるのは間違いないし、呼び方ぐらいで目くじらを立てるのも大人げない気がしてくる。
(お父様もラルフ王太子殿下も気持ちが離れた時には愛称を使わなくなっていたわ)
今はシャーロットのことを気に入っているが、興味が失せればそのように呼ぶこともなくなるだろう。そう考えれば愛称は一種の目安になるとも考えることが出来た。
「……いえ、何でもありませんわ」
「ではそろそろ行こうか」
差し出された手を取れば手袋越しにほのかな温もりが伝わってくる。思わず反対の手を握り確かめてみればいつもの冷え切った指先ではない。
(もしかして緊張をほぐしてくれた……?)
手の甲に口づけを落とした際に気づいたのかもしれない。真意を探るようにじっと見つめたが、カイルはただ穏やかな笑みを浮かべているだけだ。
「そんなに見つめられると抱きしめたくなる」
そう言われれば逸らすしかなく結局分からないままだったが、無理に知る必要はないのかもしれない。胸の奥がじわりと温かくなるような感覚にシャーロットはそう思った。
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