第4話 反故
(私はこれからどうしたらよいのかしら……)
まだ夜明け前のベッドの上で膝を抱えてシャーロットは自問した。信頼していた父親も使用人たちにも嫌われていると知った今、誰にも迷惑を掛けないように修道院にでも入るべきだろうか。
(でも修道院は教会の管轄だわ。そうすればカナ様と接点ができるかもしれない)
昨晩の光景が鮮やかに脳裏に浮かぶ。カナやラルフ王太子の言葉は鋭いナイフのようにシャーロットの心を切り裂いた。二人が惹かれ合っていくことに気づいていながらもただ見ていることしか出来なかった自分がひどく愚かに思える。シャーロットはそれでもなお王太子妃になるのだと疑っていなかったのだ。
(王太子妃教育を幼少の頃から受けていたからと慢心していたのだわ)
半年前にカナがこの世界に現れたことで全てが変わってしまった。
あの日シャーロットはラルフ王太子とともに大聖堂を訪れていた。卒業から1年後に挙げる結婚式のため大司教への挨拶と下見を兼ねたものだった。
和やかな歓談が終わり暇を告げようとしたとき、一人の従僕が慌てた様子で部屋に入ってきたのだ。
「大司教様、大変です!聖女様が現れました!!」
非礼を咎めようとした大司教の顔色が変わったのは無理もない。
数百年に一度の奇跡と言われる聖女の出現に全員に衝撃が走った。異世界から現れる聖女は国に数々の恩恵と安寧をもたらす存在だと言われているのだ。
「案内せよ」
声を上ずらせる大司教とともにシャーロット達も後に続いた。それがシャーロットの人生を大きく変えることになるとは知らずに——。
「嫌っ、来ないでよ!」
扉を開けた瞬間、少女の怯えたような悲鳴が聞こえてきた。地下の礼拝堂には数人の男女が弧を描くように立っており、その中心には小柄な黒髪の少女がいた。
少女はひどく怯えて混乱しているように見えた。
「リザレ国なんて知らない!家に帰して!!」
今にも泣きそうな少女にゆっくりと近づいたのはラルフ王太子だ。少女を怯えさせないよう膝をついて、少女の目を見ながら柔らかい口調で言葉を掛ける。
「怖がらせてすまなかった。突然のことで貴女も混乱しているのだろうと思う。説明をしたいから一緒に来てもらえないだろうか?」
不安げに揺れていた少女の瞳が一点に留まり、躊躇いながらも差し出されていた手を取った。
その様子に周囲は安堵の息を吐く。それはシャーロットも同様だったが、何故か漠然とした不安を抱きながらも、理由が分からずにそのままにしてしまったのだった。
稀有な存在である聖女は王室の庇護を受けることになる。王宮で生活することになった聖女カナは初対面で信用を得たラルフ王太子を何かと頼り、共に過ごす時間も多くなったらしい。
婚約者であるシャーロットも王宮に出向き、一緒にお茶を飲んだり淑女としての嗜みを教えたりする機会も何度かあったが、そこには必ずラルフ王太子の姿があった。
「おや、随分と上達したじゃないか」
「ラルフ様!シャーロット様に比べると全然ダメダメなんですから、そういうこと言わないでください。恥ずかしいです……」
刺繍の経験がないカナの手元にある絵柄は言われればそれと分かるレベルのものだ。
「大丈夫ですよ。最初のうちは皆そんなものです」
「シャーロット様は優しいですね。誰かさんとは大違いです」
分かりやすい表情でむくれるカナは可愛いが、シャーロットからすればたった2つ年下とは思えないほどの幼い態度に少し不安になってしまう。だがラルフ王太子はそんなカナを優しい目で見つめている。
「その刺繍が完成したら湖に連れていってあげようと思っていたけれど、意地悪な誰かさんとは誰のことだろうね?」
「えっ、前に話していたシャクヤクが綺麗なところですか?いえいえ、ラルフ様が意地悪だなんてそんな……とっても優しい方だといつも思っていますよ」
二人は楽しそうに会話を続けていて、シャーロットは置いてけぼりにされたような気持ちになる。
(ラルフ王太子殿下の別荘地のことかしら……。私もまだ連れて行っていただいたことはないのだけど)
そう思いながらもシャーロットは何も言わず、刺繍に集中するふりをした。ラルフ王太子は突然異世界に来ることになった聖女を不憫に思い色々な便宜を図っているのだ。それなのに口出しなどをすれば、邪推をしていると思うだろうしきっと不快に感じるに違いない。
(カナ様も心細い思いをしているのだから、私が我儘を言っては駄目ね)
そう思ってずっと何も言わずにいた。同世代の子女と関わりを作るために学園に通うようになっても二人の距離は変わらないように見えた。
周囲の雰囲気が徐々に変わり始めた頃、シャーロットはラルフ王太子に呼び出された。二人きりで話すのは久しぶりのことだったからよく覚えている。
「呼び出してすまないね」
「過分なお言葉、ありがとうございます」
形式的な挨拶を交わすとラルフ王太子はすぐに用件を切り出した。
「貴族が噂好きであることは君も知っての通りだと思う。僕とカナのことについて色々なことが言われていると思うけど、彼女との間に何もないよ」
「私はラルフ王太子殿下を信じておりますわ」
その言葉に偽りはなかったが、ラルフ王太子が明言してくれたことでシャーロットは胸のつかえが下りたような気持ちになった。親切ごかしに教えてくれる令嬢たちのいやらしい笑みや聞こえよがしな噂に毅然とした態度を取っていても心のどこかが削られるのだ。
「君ならそう言ってくれると思っていた。君は僕の婚約者なのだから、心配しなくても大丈夫だよ」
そう告げた時のラルフ王太子の笑みはいつもと変わらないように見えた。
(だけどあの時の言葉はあっさりと反故にされてしまった)
頬を伝う感触で初めて涙が溢れてきたことに気づいた。枯れ果てたはずの涙はいとも簡単に零れ落ち、止まることを知らない。
幼少の頃から定められた婚約だったとしても、それが恋心でなかったとしてもシャーロットは確かにラルフに対して信頼と親愛の情を抱いていた。12年間共にいた時間と想いが否定されたことを今更ながらに思い知らされて、シャーロットは声を殺しながら泣き続けた。
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