第2話 否定と喪失
(早く、早く)
馬車の中でシャーロットは屋敷に帰り着くことだけを考えていた。余計なことを考えないよう半ば祈りのように、屋敷に戻ればもう安全なのだと思うことで心を保っている。
『私、ずっと思っていたの——』
(駄目よ、シャーロット!あれは何かの間違いなのだから、考えてはいけないわ)
会場を出る前に聞こえてきた言葉から意識を逸らすために、シャーロットはきつく目を閉じた。
(お父様もご存知だとラルフ王太子殿下はおっしゃったわ。
それがシャーロットにとって良いことなのか分からないが、今はそれに縋るしかない。押し寄せる不安に耐えながら、シャーロットは冷静になろうと努めていた。
侯爵令嬢であり未来の王太子妃として教育を受けていたため、取り乱すことなどあってはならない。王太子の婚約者となった6歳の頃から常に相応しい振る舞いを求められて、感情を隠し人目を意識した態度を取ることが当たり前になっていた。
だからどんな時でも大丈夫だと思っていたのに、王太子殿下から婚約解消を言い渡されて簡単に動揺してしまった。
(たとえラルフ王太子殿下の婚約者でなくなったとしても、私は侯爵令嬢だもの。もっと心を強く持たなくてはならないわ)
少しだけ心が落ち着いた頃、馬車はようやく侯爵邸に到着した。
「アラン、お父様はお戻りかしら?」
「はい、旦那様は書斎においでです。お急ぎのご用件でしょうか?」
「ええ、直接お伺いするわ」
普段であれば事前に取り次ぎを依頼するのだが、これは早急に話をしておく必要がある。何よりシャーロット自身が父サイラスに会いたかった。
アランは何かを察したのか、それ以上何も言わずにシャーロットを書斎に案内した。
扉の前に立ちシャーロットは一度深呼吸してから重厚な扉をノックした。返事を聞いて扉を開けると、書類から目を上げたサイラスが驚いたように一瞬目を瞠ったが、すぐに元の表情に戻る。
「どうした、シャーロット。まあいい、そこに座りなさい」
応接用のソファーに促されたシャーロットは緊張を隠しながら、サイラスが対面に腰を下ろすのを待って口を開いた。
「お父様、本日ラルフ王太子殿下から婚約解消を告げられました」
「…………それは、いつのことだ」
僅かな沈黙のあと、サイラスは淡々とした口調で訊ねた。
「パーティーの間のことなので、1時間ほど前のことですわ。聖女カナ様と想い合っておられて私とは生涯支え合っていく存在とは思えないと。それからお父様と陛下はご存知だとおっしゃっていましたわ」
状況を伝えながらもシャーロットは再び不安に襲われていた。サイラスの表情が徐々に険しくなり不穏な気配を纏っていたからだ。
「そうか……分かった」
サイラスはシャーロットに視線を向けることなく短い返答だけを告げる。そのことが拒絶されているように感じたシャーロットは、大切なことを伝えていないことに気づいた。
「このたびは私が至らないばかりにこのような事態になってしまい、大変申し訳ございませんでした」
カナやラルフは悪い人たちではない。恋愛感情に左右されるのは貴族として好ましいものではないが、ラルフの願望に気づくことが出来なかったのはシャーロットの手落ちである。破棄ではなく解消という形はシャーロットだけに非があるものではないことを示しており、それがラルフの優しさからだと思っている。だがそれでも醜聞であり、侯爵家の名を傷付けることになってしまった。
シャーロットは頭を下げるが、サイラスからは何の言葉も返ってこない。
「お父様……?」
そっと顔を上げるとサイラスは額を片手で押さえてきつく目を閉じていたが、シャーロットの視線に気づくとようやく口を開いた。
「ああ、婚約解消の件は私のほうで対処しよう。今日はもう休みなさい」
そう告げた父の声はひどく疲れていて、シャーロットは罪悪感に駆られる。何か言わなければと思うのに、適切な言葉が思い浮かばない。
「……失礼いたします」
結局、どうしていいか分からずシャーロットは書斎を後にした。
自室に戻ると侍女たちに手伝ってもらって就寝の準備を整える。いつもは専属侍女のケイシーの仕事だが、今日は午後から休暇を取っていたのだ。
(ケイシーが婚約解消のことを知ったら何というかしら)
恐らく烈火のごとく怒るに違いない。母が亡くなって以来ずっと傍で仕えてくれているケイシーはシャーロットにとって歳の離れた姉のような存在だった。
『お嬢様は我慢し過ぎなんです!』
そんなケイシーの声が聞こえてくるようで、少しだけ心が和らいだ。
流石に疲れていたので早々に休もうとベッドに入りかけ、水差しがないことに気づいた。我慢できないこともないが、侍女たちが退出したばかりなのでまだ間に合うかもしれない。
そう考えたシャーロットが扉を開けると、数歩先に彼女たちの後ろ姿が見えた。ほっとして声を掛けようとした矢先のことだった。
「ねえレネさん、お嬢様は婚約破棄されたんでしょう。よほどの事情がない限りそんなことにはなりませんよね?」
「そんなこと言っては駄目よ。旦那様に聞かれたら馘になるわ」
「えー、だって本当のことでしょう。やっぱり完璧でも可愛げがないからですかね?お嬢様って心の中では使用人のことを馬鹿にしてる感じがしますもん」
喉がカラカラに乾いていく。これ以上聞いてはいけないと思うのに、扉を閉めることも耳を塞ぐことも出来ずシャーロットは立ちすくむ。
「使用人たるものどんな主であっても非難中傷など許されないことよ」
二人はシャーロットに気づくことなく、階下へと降りて行く。震える手でドアを閉めたシャーロットはその場に蹲った。
見習いのナタリーはともかくレネは中堅ともいえる侍女で、勤務歴も長く主従関係にあるとはいえ良好な関係を築けていると思っていた。
(でも、レネはナタリーの言葉を否定しなかった……)
庇ってくれるものだと思っていた。
『お嬢様はそんな方ではありませんよ』
そんな否定の言葉を期待していたのに、レネの発言はまるで仕方がないのだと言う風にナタリーの言葉を肯定しているように聞こえたのだ。
『私、ずっと思っていたの——あの方の傲慢さに殿下もいずれ愛想を尽かすのではないかしらって』
嘲りを含んだ楽しそうな声が脳裏をよぎった。
親しくしていたはずの伯爵令嬢の声を、他の誰かのものと聞き間違えたのだと思い込もうとしたが、その声も言葉も鮮明に思い出せる。
(私の振る舞いが間違っていたの……?)
王太子妃として令嬢たちの模範となるような正しく振舞っているつもりだったのに、他者からみればシャーロットの言動は不快でしかなかったのだろうか。ラルフ王太子殿下が婚約解消した本当の理由はそこにあるのではないだろうか。
親しくしていた友人と信頼していた使用人からの言葉に、シャーロットは傷つき動揺していた。シャーロットを遠巻きに見ていた友人たちが心配そうな顔をしていたが、誰一人として声を掛けなかった。
(王太子であるラルフ様の手前、仕方のない事だと思っていたけれど実際はどう思っていたのかしら……)
ぐるぐると頭に浮かぶのは否定的なことばかりだった。
混乱するシャーロットの頭に浮かんだのは父サイラスのことだった。この国の宰相であり、常に客観的で冷静な視点で物事を考える父にシャーロットは尊敬の念を抱いていた。甘えた記憶はあまりないが、母が亡くなったあと後妻を迎えることなくシャーロットを育ててくれた大切な唯一の家族でもある。
(お父様ならきっと本当のことを教えてくれるはず……)
既に就寝用のドレスに着替えていたが、シャーロットはたまらず部屋を抜け出しサイラスの私室へと向かった。
灯りが落ちた廊下を歩き目的地へ辿り着けば、扉の隙間から明かりが漏れていた。
(良かったわ。お父様はまだ起きていらっしゃるのね)
扉に近づいた時、何かを叩きつけるような重い音が聞こえてシャーロットは思わず足を止めた。
「あの無能が!よりにもよって婚約破棄など、不名誉にも程がある!!」
初めて聞くサイラスの怒鳴り声にシャーロットは思わず身を竦めた。
「旦那様、どうか落ち着いてください」
静かな口調で諫める声は執事のアランのものだ。
「これが落ち着いていられるか!何のために今まで我慢してきたと思っているんだ!」
「旦那様のお気持ちは私にもよく分かりますが……」
激昂したサイラスを宥めつつも同調するようなアランの言葉。二人のやり取りをこれ以上聞いてはいられなかった。
どうやって部屋に辿り着いたのか記憶はない。気づけばシャーロットは自室の床に蹲っていた。先ほど聞いた内容はどれもシャーロットを嫌悪し責める言葉ばかりだったのだ。
(お父様にとって私は、王家と縁づくための道具でしかなかったのだわ……)
これまで信じていたシャーロットの世界は、いとも簡単に崩れ去った。
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