宵闇カラテ -終-

 僕らに相応しい、夜が溶けたように延びた夕方だった。

 赤い錆色の空に青黒い闇が混ざって、世界は境界の上にある。


 喜慈の会と鬼児の会の決着をつけるべく、ある男の元へと向かった。彼は仕事帰りらしく、スーツ姿だった。どこにでもいる、平凡で、ありきたりな格好をした男性だ。


「どうも、始めまして。喜慈の会です」

「……これはご丁寧に」

「早速ですが、自首していただけると助かります」


 誰も怪我をしなくてもいいから、と理由もつけて説明した。


 相手は猿田さんの父親だ。僕は戌居君と、嶋中先輩。そして喜慈の会の面々で彼を囲っていた。警察にも協力を扇いでいる。これは喧嘩などではなく、国家権力の犬が民間人を利用して犯罪者を追い詰めているシーンなのだ。まぁ、舞台は平々凡々な街の路地。相手は冴えないサラリーマンという点で、いささか盛り上がりに欠けるけどね。


「戌居君がラスボスだったら良かったのに」

「不謹慎なこと言うなよ」

「戌居君はいい子ちゃんだなぁ」


 同様の理由で雉畑が僕の壁として立ちはだかる姿も想像できなかった。


 彼女はいつまでも表の舞台に立っていて欲しいし、そこを主戦場にしてほしい。戌居君は喜慈の会として活動を続けると言っていた。それが猿田さんにどんな感情をもたらすかは知らないけれど、少なくとも父親を売った彼女が戌居君を恨むこともないだろう。


 戌居君が構えると、喜慈の会の面々も猿田さんが逃げないように道を塞いだ。大声を張り上げても無駄だと理解したのか、彼は鞄を道路に投げ捨てる。重量物を振り回すことよりも、両手が空いている利を選んだようだ。無害、無抵抗を示すかのように猿田父が両手を上に挙げた。


「君達、これはリンチだよ」

「台詞と表情が合ってないぜ」

「……この薄暗い中で、よく見えるね」

「ただの宵闇だろう。茶化すなよ」


 戌居君と猿田父が簡単な問答を交わす。猿田父の表情に一切の動揺が見られないのが、既に彼の異常性を示している。よほど腕に自信があるのか、イカれているかのどちらかだ。警察関係者が一歩前へ進み出て、彼への職務質問をした。普段から危険物を持ち歩いているわけではないのか、彼は素直に応じる。


 腰回りに凶器を隠していないか、と警察からの協力者が身を屈めた瞬間だった。


 微塵も集中を感じさせない手早さで、猿田父の肘が警察の頸へと撃ち込まれる。意識を失った男へと素早く蹴りを繰り出す。正確に頭を狙い、重篤な怪我を負わせるための攻撃だった。周囲で見守っていた喜慈の会の面々がいきり立って、猿田父の元へと殺到していく。一番早く駆け付けたのは戌居君だった。


 親友の父親だろうと、彼は容赦しない。恵まれた体格に若さを乗せて、渾身の拳が猿田父の顔を打ち抜いた。もんどりうって倒れた猿田父が、腰元からナイフを抜き取った。近付いてくる喜慈の会の男達へ向けて振り回すと、誰かが傷を負ったのだろう。


 怒号が街路に響いて、何事かと好奇心に駆られたギャラリーが集まってくる。戌居君は肉団子状態で揉み合うおじさん達から距離を取って、僕の元へと戻ってきた。


「お前は参加しないのか」

「うん。多勢に無勢、勝負は決しているし」

「……余計な怪我人が増えても困るしな」

「あはっ。それもそうだね」


 猿田父を殴り飛ばして血圧が上がっているのだろう、戌居君も僅かに息が荒い。


 戌居君は人格者だ。空手部の次期部長候補と目され、僕や雉畑みたいな扱いにくい相手とも親しくしてくれる。どこまでも苦労人気質な彼の奥底に眠っていた怪物が目を覚ましている。いや、ずっと起きていたのだ。けれど彼の心にいた怪物は、怪物として生きていくには社会性を得過ぎてしまった。人間であることを辞められず、それでも、なお。


 彼が僕の隣に立った理由を察して、人気の少ない方へと歩いていく。


「ごめんな。天童」

「いいよ。……クールダウンに付き合ってあげる」

「悪ぃ。俺も、あっち側なんだろうぜ」


 そうだね。


 否定しないし、出来ない。本気の勝負を望んでいるのだ。それは畳の上での空手のようなルールが決まった試合ではなく。それは亀茲山で狂気を抱くほどの無法でもなく。僕らはただ、真剣勝負をしたいだけなのだ。


 路地裏で、僕らは向かい合った。戌居君が構えて、僕も応じる。これは突発的な喧嘩だった。理由は――そうだな。仲の良い友達だったが、些細なことから言い合いになった、とかでいいだろう。僕らの試合は合図もなく始まった。戌居君の大振りの拳を受ける。受けてあげる。両腕で防御した上から、ズキズキと骨が軋むほどの痛みを感じた。


 体格差で劣っている。

 筋力量でも劣っている。

 それでも僕は、空手の天才だった。


 戌居君は、試合では禁じ手の、拳による顔面への攻撃を優先している。人間の急所をよく理解している。拳が脆いことも分かっているから、骨の分厚い部分を避けている点も高評価だった。彼は紛れもなく、ルールのない場所での戦いに真価を発揮する人間だろう。でも、彼は畳の上で生きることを選んだ。これは夜の闇への未練を断ち切るための儀式なのだ。


 彼が腰に力を入れた。左脚で踏み込み、流麗な動作で鍛え上げた拳が迫る。


 それは美しい正拳突きだった。


 紙一重に避けながら、反らした上体に追随して僕の右足が上がる。正確に戌居君の横っ面を蹴りぬいて、彼は一撃で地に伏した。呻いて動かなくなった彼を上から覗き込む。昏倒したのかと不安になったが、彼は晴れやかな笑みを浮かべたまま倒れている。僕が手を差し伸べると、彼は黙って受け入れてくれた。


「やっぱりお前、強いよ」

「どうも」

「……今度の大会、ちゃんと出ろよ」


 勝て。

 彼からの依頼はごく短く、分かりやすかった。


「雉畑も、俺も。お前を待っていたんだ」

「……そうだね」


 学校に再び通い始めて、空手も再開した。家庭には居場所があるかも怪しく、学校で友人に囲まれているわけでもない。少しでも僕を認めてくれる相手がいて、彼らと交流を深められるなら、僕が学校に通う意味はあるのだろう。そして、空手を続ける意味も。


「うん。次の大会に向けて頑張ろう」

「あぁ。その意気だ」


 戌居君と熱い握手を交わした。

 彼もきっと、血の滾る相手を探していただけなのだ。雉畑が僕を空手の目標として定めていたように、彼も僕を宵闇の供として選んだだけなのだ。それでも良かった。彼と友達になれて良かったと思う。


「戻ろうぜ」


 戌居君の言葉に従って、僕らは喜慈の会の面々がいる場所へと戻っていく。猿田父が逮捕されれば、その娘にも影響はある。その子と懇意にしている戌居君にも火の粉が振ってくる可能性はあって、人生の万事が順風満帆とは限らない。まだ十代の僕らは世知辛さを心底痛感して、だけど歩みを止めたりはしない。


 薄暗い闇の中にも居場所はあって、いつかきっと、前を向けるから。

「最強」の道を捨てて、僕は本当の「最強」を、もう一度目指せそうな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

宵闇カラテ 倉石ティア @KamQ

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ