斜征②
雉畑と一緒に空手部の練習に参加している。
武道場の一角に陣取って、他の部員達とは違う稽古をしていた。
僕らは型稽古よりも打ち込みに専念した方が効率がいい。基礎練習が大切だからといって、いつまでも体力作りだけをしていれば良いわけじゃないように、なるべく実戦に近い練習をした方が身に付くものが多いのだった。
ただし、それは基礎のレベルが高いものに限られる。
「それじゃ、どっちが元立ち?」
「答えるまでもなし」
「オッケー。いつも通り、僕がやるよ」
攻撃の受け手を引き受けて、彼女の技に備える。
まずは雉畑が、左右の拳で正拳突きを繰り返した。
正確に心臓よりもやや上を狙ってくる。彼女の技量が本物だから、受ける側も安心が出来る。踏み込みの位置すら変わらず、彼女は一心不乱に打ち込みを続ける。たいした集中力だ。それ故に、彼女が悪戯心を発揮した瞬間に変わる雰囲気も、容易に読み取れた。
僅か半歩、後ろで避ける。
彼女の拳が、僕が立っていた場所へとめり込んだ。
「チッ」
「ちょっとー。今は稽古中だよー」
「その余裕そうな顔がイラついたから……」
「だって雉畑のレベルが高いから、不安要素もないし」
「……次はあなたの番よ」
不承不承に頬を膨らませた雉畑は可愛い。これで僕を嫌っていなければ、少しは淡い期待も抱けただろうに残念だ。はーい、と間の抜けた返事して拳を構える。
雉畑よりも、少しだけペースを上げて打ち込んでみる。
彼女はしっかりとついてきてくれた。
僕らが参加する空手の大会は男女別、学年別に試合が組まれる。それゆえに正式な試合で彼女と相対することはないけれど、もし僕らが同じ土俵に立てたなら、と考えることはあった。
まだ彼女の力量では僕には勝てないだろう。しかし数年後は予測がつかない。僕が歩みを止めたなら、彼女はきっと、僕を追い抜いてくれる。そんな気配があった。と、雉畑が受けのタイミングを失敗した。
たかが練習をしているとはいえ、そこは天才だ。僕にも相手に当てる前に止める技術はある。雉畑の胸に拳が届く前に止め、素早く引いた。ぴくっ、とこめかみを動かした彼女が僕へと近寄ってくる。
数歩後退った僕へと遠慮もなく詰め寄ってきて、公衆の面前だというのに鼻先が降れるほどの距離になった。近くで眺めても、やはり彼女は美人だった。
「次、舐めた真似したら蹴るから」
「"無駄な怪我"をしたいってこと?」
「いや、怪我っていうか……その……」
雉畑が首を傾げた。
僕も合わせて首を傾げる。
彼女は、僕が「雉畑の女性的部分」に配慮して拳を引っ込めたと考えているらしい。要は胸に触れてしまって……みたいな感じである。大正解だった。だからこそ正直に話すと怒られそうだと勘が働いて、別の方向へ話を持っていくことにした。僕が全力で打ち込みをしているのだから、彼女が避け損ねると怪我をさせてしまう……ってことで。
僕だって、女性への免疫が強いわけじゃない。
いかに相手が雉畑で、僕のことを嫌っていると知っていても、触れてしまえば意識してしまうモノがあるのだ。それは決して、僕の望まないことだった。単純にキモいし。僕が。早急に話題を変えて、雉畑の疑惑から逃れることにした。
「次はもっと近距離の打ち込みだね」
「……そうね。うん。その予定よ」
「どうした? もう疲れた?」
「バカなこと言わないで」
彼女が構えて、近い距離で僕の腹部へと攻撃を繰り出した。
順当に追求から逃げることに成功したようだ。強くなるためには、努力を重ねる必要がある。才能で埋め尽くされた舞台に立つ以上は、それを正しく理解して実践しなければならない。どれだけ才能があろうとも、それを磨かなければ最後には負けてしまうのだ。
拳を受ける練習でもあった。女性とは思えぬ強烈な一撃は、彼女が正しい型を習得している証だ。空手部の男子部員達と組手をしたこともあるけれど、雉畑を超える突きを放てる男は片手で数えられる程度だ。かといって、雉畑が特別筋肉質な身体をしているわけじゃない。
型の正しい攻撃は、それだけで強い。
それを実感した。
「ぐっ……今のはいいね」
「マゾめ」
「心外すぎる」
褒めたら貶された。しかも雉畑はニヤついている。サドだな。
彼女が呼吸を整えるのを待って、今度は僕が攻めに転じた。初めて武道場で試合をしたときは一撃で沈めたけど、あれは試合の緩急があってこそ、雉畑の防御の意識が別の個所へ移ったところを狙ったからこその現象だ。腕を使って受ける雉畑は微動だにしないし、意識が薄くなったところで下段突きを入れても呼気のコントロールで痛みに耐えている。
堅い防御だ。
「……ッ」
ぞわりと背中に冷たいものが這う。
全身全霊を込めた一撃を彼女にぶつけてみたい。
喉が渇いて、視界がぐにゃりと歪む。
「……雉畑」
短く声を掛けた。それは擦れていて、気持ちの悪い声だ。
彼女は何かを察したように深く溜め息を吐く。喜慈の会に所属していながら、僕も悪の感触を知っている。体内で渦巻くそれは腹の底で淀み、僕の思考を乗っ取ろうと藻掻いている。この感情を腐らせることなく、正しい光の中で滅ぼす方法をひとつだけ知っている。そして、それに付き合ってくれるのは雉畑か――喜慈の会の面々だけだ。
「一度だけよ」
「ありがとう」
雉畑に甘えて、僕は構える。
すぅ――と世界が澄んでいく。
一瞬の静寂があった。全身が冷たい。
拳を振り抜く。正しく受けた雉畑が吹っ飛んでいくほど、全身の力が乗っていた。他の組からの視線も感じるが、どうでもいい。それほどに気持ちの良い一撃だった。僕は再び構えると、拳を握る。まだ打てそうだ。一度きり、その約束はどこへ行ったのか。
「――最高の気分だ」
中学の全国大会を優勝した日も、こんな感じだった。
全能による浮遊感。それを全身に感じている。
起き上がった雉畑は笑っていた。
僕が最高のタイミングで出す突きを感覚的に理解した顔だ。もう一発なら受けられる、と彼女の顔が語っていた。構えながら近づいてくる彼女に、僕からも歩み寄っていく。そして、もう一度、同じ技を繰り出した。これ以上に素晴らしい技を、今日はもう繰り出せないだろう。腹の底に溜まっていた淀みが消えるほどに、美しい正拳突きだった。
ずるりと雉畑が視界から消える。
どこへ?
僕の懐へ、だ。
雉畑が姿勢を低くして、拳の下を潜り抜けた。
僕の右拳が空を殴っている。上体を下げた雉畑が繰り出したのは、話にだけは聞いたことのある技。躰道の卍蹴りだった。視界の底から伸びてくる脚を、顔の前に残していた掌で受ける。全身の伸びやかな力が籠った一撃は僕を打ち抜くには十分過ぎるほどに強烈だった。
無様に背中から畳に倒れた僕に、雉畑は満面の笑みを向けてくる。
「どう? 必殺技よ」
「……試合で使ってもいいのかな」
「子安キックもありだし、大丈夫でしょ」
「怪我させない程度に調整しなよ?」
僕の忠告に軽く頷いて、彼女は手を貸してくれた。僕が起き上がると、周囲へ向けて一礼をした。型稽古の最中なのに、妙な雰囲気にしてしまったことへの謝罪だ。練習に戻ると、僕らは蹴り技を練習した。どれも精度や威力は十分だったけど、なんとなく精彩に欠ける。
最高の一回に満足して腑抜けたのか? うーん、それよりも近い感覚があるけれどセンシティブな話題だからな。言葉にして雉畑と共有することが出来ないのが残念だった。
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