家庭内の仮定

 家に帰って、一人で夕飯を食べた。両親は残業中で、兄貴は学習塾に行っているようだ。僕も部活に参加して普段よりも遅い帰りだけど、それでも家族では一番早い帰宅だった。いつものことである。


 孤独を飲み込むと少し酸っぱい味がする。慣れれば不快じゃないけれど、これを不幸の味だと気付いたときに正気を保てる人間は少ないのだ。僕がどちら側だったかなど、説明する必要もないだろう。


 風呂場の掃除を済ませて、一番風呂に入る。夏場はシャワーだけで済ませることも多いけれど、今日はゆったりと湯舟に浸かりたい気分だった。身体の芯まで温まってから風呂を上がった。パンツ一丁でハミガキをしているところに兄貴が帰ってくる。勉強しなくても学年で最優秀の成績を誇っている兄貴だが、両親に乞われて学習塾へ通っていた。趣味が勉強の奇人である。


 たぶん、家族で唯一、僕と仲の良い相手だった。


「欣ちゃん、ご機嫌じゃん」

「分かる? 仲良い友達が増えたんだよ」


 兄貴が飯を自分で用意するのを眺めながら、僕はシャコシャコと歯を磨く。慣れた光景だ。兄貴は塾の帰りに買ってきた冷凍食品を温める間に、冷蔵庫に入っていた野菜で簡単なサラダを作っていた。勉強だけでなく、家事も出来る男だ。洗濯や掃除も頼めばやってくれるけれど、両親がいい顔をしない。僕と違って、兄貴には期待している部分が大きいのだ。


「良かったな、欽ちゃん。相手は女の子か?」

「えっ、そこまで分かるの」

「げっ、マジ? いいなぁ」


 彼女いない歴が年齢の兄貴は僕に羨むような視線を向けてくる。関係性としては普通の友達なんだけど、僕よりも遥かに出来の良い兄から羨望の視線を受けることは滅多にない。だからくすぐったいような、気持ちいいような感覚が楽しかった。ちなみに、僕も彼女がいたことはない。兄貴と同レベルである。


「別に、ただの友達だよ」

「うわっ、一度は言ってみたい台詞だ」

「というか、嫌われているんだよね。友達なのに」

「えー、なにそれ。超気になるじゃん」


 雉畑についてのあれやこれやを兄貴と喋った。学校をサボっていた時期も、兄貴とは仲良くしていた。待遇の違いに不満はあるけれど、兄貴は出来る範囲でフラットに接してくれている。両親と言う爆弾を一人で処理してくれているのだ。僕には、それだけでありがたい。


「んで、日曜は遊びに行くんだけど……」

「――帰ってきたな」

「らしいね。あとは任せるよ」

 

 母親が帰ってきたのを察して、僕は兄貴におやすみを告げた。母親から逃げるように自分の部屋へ向かう。父親が帰ってくるのは、日付を跨いだ頃だろう。宿題を適当に済ませた後、ベッドの上で仰向けになった。


 僕はゲームや読書などの趣味を持たない。空手は好きだけど、家での筋トレや型の稽古はオーバーワークを生むからやらないと決めている。自宅で過ごす時間が、多分、一番退屈だった。


「最近、色々あったよなぁ」


 天井を見つめながら、ここ数日の出来事を振り返る。雉畑に誘われて学校に戻った僕は、戌居君と出会った。彼の紹介で喜慈の会の存在を知った。そして、武術の力で誰かを助けられるかもしれない状況に遭遇したのだ。通り魔と相対した時は手酷い傷を負って、武術の力など意味がないとすら思った。けれど喜慈の会の活動に参加して、最初の活動で大金星を挙げることに成功した。


 順風満帆だ。でも、先行きは不安定である、


 僕が太陽の下を歩き続けるには、何度でも悪意と立ち向かう必要があった。


「……痛くはない、けど」


 左脚の傷に触れる。既に包帯は外れ、日に一度薬を塗る程度の傷だ。まだ完治していないのか、鈍い痛みがある。あの時、もっと上手に立ち回れていたら、こんな怪我を負うことはなかっただろう。僕は強い空手家だったが、最強じゃなかったのかもしれない。別に、それでもいい。僕の知らない強さを持っている相手がいて、戦うことが出来ただけでもマシなのだ。僕はこれからも、自分に出来ることをするだけだ。


 この考え方が間違っている可能性はあるけれど、他に道はないのだ。僕の居場所を守るには、僕が最強であると証明するしかない。布団で固く唇を結んだ僕は、スマホが震えたのに気が付いた。


「誰? 戌居君か」


 スマホを覗くと戌居君からのメッセージが届いていた。そこには一言だけ書かれていた。


『暇か?』


 特段、忙しくしているわけでもない。「イエス」と端的に答えて彼の返事を待つ。数分後に、再び通知音が鳴った。今度はメッセージがなく、代わりに写真が添付されていた。何かと思って確認すると、不機嫌そうな顔の戌居君が画面の半分を埋めている。もう半分に映っていたのは僕も知っている女生徒だ。果たしてどんな反応を返すべきかと悩んでいたら、彼から短いメッセージと一緒に写真が飛んでくる。


 猿田さんに抱き着かれた戌居君が、不満そうに頬を膨らませていた。


『たさ受けてくれ』

「……?」


 意味が分からず硬直した。

 数秒後、改めてメッセージが送られてくる。


『助けてくれ』


 なるほど、誤送信したのか。しかし、戌居君から送られてきた写真をみても助けを要請する要素はどこにもない。そこには渋い顔をした戌居君と、満面の笑みを浮かべた猿田さんが映っているのみだ。簡単に言えば、僕には惚気にしか見えない写真だった。ベッドの上に胡坐をかいたまま、写真に見入る。楽しそうだなー、と小学生みたいな感想しか浮かんでこなかった。


「猿田さんは泊まりなの?」

『そのつもりらしい。サイアクだ』

「楽しそうじゃん、頑張れ」


 無責任に煽ってみた。戌居君からは鬼と悪魔の絵文字が送られてきて、彼の心労が大きいことを示してくる。そんなことを言われても、僕が出来ることは限られている。そもそも彼の家に行けるわけじゃないし。彼と親しい友人を相手に、僕が一体何を出来ると言うのか。


 スマホを前に腕を組んでいたら、僕の知らない相手からメッセージが届いた。誰だろう、とアイコンを確認すると戌居君の顔だ。だけどメッセージの送り主は"サルヒコ"と表示されている。ひょっとして猿田さんだろうか、と思いつつメッセージを開く。


 抵抗する戌居君を押し倒して、頬を擦り合わせる写真が送られてきていた。


「最高だね」


 体格で勝る戌居君が、それでも押し退けることなく猿田さんの過剰なスキンシップを受け止めていた。僕が同じことをしたら殴り倒されているだろう。そこに彼の甘さを感じ、猿田さんが彼を気に入っている理由も察した。僕の端的な感想に、猿田さんは親指を立てた女の子の画像を送ってくる。この子が戌居君の彼女になったら、どんな面白いことをしてくれるのだろうか。


 そんなことを考えて、夏休みにふたりが接近するには……と足りない頭を回す。僕では何も出来そうになかったから、協力者を探そう。兄貴に相談しても僕と同じ様に戌居君を煽る方法しか思いつかないだろうし。

 

 雉畑と仲良くすれば、何か面白い方法を教えてくれるかも。

 僕は眠くなってきた頭で、そんなことを考えるのだった。

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