実戦、第一

 ナイフを持った男と正対した。

 周囲は背の高い木々が囲い、足元には雑草が生い茂っている。


 助けは呼べない。戌居君は雉畑を安全圏へと連れて行ったし、嶋中先輩はロープを持った不審者と対峙している。僕の前にいるのは、初対面の相手に刃物を向ける悪者だ。彼を退治する役目は、僕一人で果たさなくちゃいけない。


 意外と肩の荷は軽く、軽口を叩く余裕もある。

 よし、少し話し掛けてみるか。


「投降するなら今だよ」


 左手を前に構え、武器を手放すよう進言してみた。残念ながら男は無反応だ。余裕を滲ませた僕の態度が気に入らないのか、奇声を上げながら近寄ってくる。


 震えた手でナイフを振り回す男から、適度に距離を保つ。相手は僕よりも背が高く、恰幅も良い。最低に見積もっても、10キロは体重に差があるだろう。空手の実力があるからといって、準備もなく飛び込むのは愚策である。


 僕は、以前に通り魔と戦って学んでいる。油断大敵、慢心も敵。左脚の傷で得た教訓は大きく、まず僕がとった行動は拾い上げた石を男に向かって投げることだった。


「とりゃ」

「でっ。痛ぇな、この野郎」

「ほいっ、ほいっ」

「なっ、おい、このクソガキ!」


 ダメージとしては微々たるものだが、執拗に目元を狙い続けた。失明を狙う気はない。目潰しが上手くいけば相手からナイフを奪い取る好機も生まれるだろう、という程度の考えだ。時間を稼いで、相手に精神的な疲労を強いるだけでも十分だし。


 気の抜けるような掛け声をしながら、男に向かって石や木の枝、果ては砂の礫を投げ続けた。男は苛立った様子でそれらを払い落していく。しかし、その動きはどこかぎこちない。やっぱり素人だな、と心に余裕が生まれた。戦闘に慣れていないのだ。本気で僕を殺す気なら、目元を庇いながら突撃してくるだろう。僕なら、そうする。


 勝機は十分にあった。僕は呼吸を整えて、腰を落とす。


 相手との距離は二メートル弱。


 もう少し詰める必要はあったが、彼の方から近づいてきてくれた。怒りに任せて突き出してきた腕を難なく躱して、男の顔へと右ストレートを一発。当然、空手の試合では反則の一撃だ。顎を揺らして視界も歪んだはずだが、素人の彼には天性の耐久力があるようだ。二歩後ろに退いて、ナイフを構え直した。その顔からは初めて刃物を握った素人の恐怖が抜け、僕への怒りが如実に表現されていた。具体的に言うと、血で顔が赤っぽくなっている。


「ガキが」

「子供に向けてガキっていう大人、初めてみたかも」

「クソがっ」


 びっくりするほど幼稚な罵倒を受けて、僕は微妙な顔になる。


 恐怖が抜けたとはいえ、相手は素人だ。ナイフ捌きは下手の一言で、避けるのはそれほど難しくなかった。過去の経験から、一回でも避けるのに失敗すれば痛いことも知っている。慢心することはせず、丁寧に避け続けた。


 隙を見て足元への蹴りを仕掛ける。膝へと横薙ぎの蹴りを打ち込むと、男は体勢を崩してすっ転んだ。そのまま上半身、出来れば腹部への蹴りを入れ込みたかったけれど、男がナイフを構えたのを確認して攻撃を止める。


 適当に振り回したナイフに刺されるなんて、嫌だしね。


「んっ、まだダメだな……」


 立ち上がった男に拳で牽制を入れて、距離を保ち続ける。フェイクを織り交ぜ、僕が攻撃する側だという認識を相手に与えた。調子に乗せてはいけない。武力での決着がつくより早く相手の心を折ることが出来たのなら、余計な力も使わずに済むのだ。蹴りの動作に合わせて、相手が意識を足元に集中したのが分かった。腰を捻って上体を傾ける。


「ここだ!」


 顎に一撃、気持ち良いほどの上段蹴りが入った。


 ぐらりと揺らぐ男の身体。

 彼がナイフを取り落として、これで終わったと気を緩めた瞬間である。

 気絶寸前の痛みを耐え抜いて、男が腕を伸ばしてきた。


「マジかよ」

「……こ、のっ」

「おっさん、凄すぎるよ」


 十代半ばの僕は、成人男性と比べて体重が軽い。その差は蹴りの威力、攻防のすべてに影響する。僕は咄嵯に身を屈めて、男からの攻撃をやり過ごした。胴に向けて何度も貫手を放ったが、男は痛みを無視して僕へと掴み掛かってくる。服を掴まれて、忘れようと努めていた恐怖が這い上がってくる。


 男に、あの日の通り魔の姿が重なった。無垢な正義と純真な心を、悪意が丁寧に塗りつぶしていく。左脚の痛みが僕の思考を奪った。


 膝蹴りを男の喉へ向かって打ち込む。

 白目を剥いて倒れていく男に向かって、更に追撃の踵落としだ。

 ドウ、と音を立てて地に伏した男を転がして、無防備な腹を曝け出す。

 そして――。

 そして、僕の拳を戌居君が止めていた。


「お疲れ様。俺が出る幕はなかったな」

「……お帰り。雉畑は?」

「山菜採りをしていた人の護衛。置いてきた」


 体のいい厄介払いだ。


 戌居君はショルダーバッグから紐を取り出すと、倒れた男の手足を縛りあげる。意外と手馴れていた。傍に落ちていたナイフには直接手を触れず、ただ一瞥するにとどめた。


「これで一件落着だな」

「……だといいね」

「不吉なこと言うなよ、天童」


 僕らに同行してパトロールをしている警察を呼んで、この一件を報告しなくちゃいけない。今年に入ってから随分と警察のお世話になっているな、と小市民な僕は気が滅入ってきた。同時に、戦いの緊張と高揚で上がっていた血圧も下がってきて、肌寒さを感じる。身震いした僕の肩を掴んで、戌居君が顔を寄せてくる。


「どうだ、天童。人助けのために武術を用いた感想は」

「……しんどいっすね」

「だろうな。まぁ、こんなの滅多にないことだから」


 あってたまるか、と気を失ったまま倒れている男へ視線を向けた。


 あっ、と思い出して首を捻る。リープを持った男と戦っているはずの先輩を探して雑木林に視線を凝らす。すると、先輩が男を背負って山を降りてくるところだった。ロープ男は、自身が持っていただろうロープで全身を雁字搦めにされている。その顔には一条の線が走っている。どうやら鼻血を出しているようだ。


「おい、怪我はないか」

「はい。大丈夫です」

「そうか。……戌居、いい奴を見つけて来たな」

「どうも」

「仲間には連絡してある。待つのも仕事のうちだぜ」


 ロープ男とナイフ男を横に並べて、嶋中先輩は地面に腰を下ろした。

 喜慈の会、活動初日。


 どうにか僕は、無傷の白星を挙げることに成功したのであった。

 心に滲んだ悪意には、どうにか知らん振りをして。

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